第19話 眠り姫の嘘と涙
茉莉香と夏樹は、将太の母親の病室の前で、意外な人物に出会います。
それが、また、新しい物語を作っていきます。
夏樹と茉莉香が病院に到着すると、病室の前で、将太が見たことのない老人と話をしていた。
二人が訝っていると、
「俺のじいちゃんだよ」
将太が言う。
「えっ?」
二人は同時に驚きの声を上げる。
彼は将太の祖父、母親の父であった。
将太が生まれたとき小さな定食屋を経営していたが、体を壊し、母子の援助ができなくなったため、母親はその後一人で将太を育てなくてはならなくなったという。
「ですが、もう体は大丈夫ですし、店も立ち直りました。娘一人ならなんとか食わせてやれます。もちろん店を手伝ってもらいますが……」
老人は将太に似て、人が良さそうだ。
「よかったぁ……」
茉莉香が自分のことのように喜んでいる。
だが、
「あたしは嫌よ!」
母親が病室で叫んでいる。
「だって、あんな小さな店。あんなところ!」
病室の外まで駄々をこねる声が聞こえてくる。
夏樹は、いつものいら立ちが募ってきたが、感情を抑えた。
その時だ。
茉莉香が突然病室へ駆け込んだ。夏樹が止める間もなかった。
そして
「なに言っているんですか!? 将太さんにあんなに心配かけておいて!」
顔を紅潮させて叫ぶ。
「まずは、体を治して、それからはお爺さんのお店を手伝ってください。将太さんにこれ以上迷惑かけないで! みんながどれだけ心配していたと思っているんですか!?」
茉莉香の激しい怒声に夏樹は言葉を失った。
茉莉香はすぐに我に返り、病室を出て待合室に行った。廊下で茉莉香の声を聴いた看護師や患者たちがすれ違いざまに、ちらちらとこちらを見ている。
待合室の椅子にぺたんと座った茉莉香に、夏樹がジュースを手渡す。
「冷たい……」
感触を確かめながら言う。
「私、ひどいこと言っちゃった」
夏樹は茉莉香が以前自分と話しているときに、突然激昂したときの驚きを思い出す。
あの時は肝を冷やすような思いをしたものだ。
「自分だって、嫌な人間なのに。あんなこと言う資格ないのに。亘さんに心配ばかりかけているのに。亘さん気を遣ってもらう資格なんてないんです」
確かに、亘が茉莉香に気を遣い過ぎているのは感じていた。彼の勧めで、附属大学に進学したが、高校時代の同級生からのいじめが続いていると聞いたことがある。
果たしてそのせいだろうか。
それは以前から夏樹が、ずっと疑問に思っていたことだった。
「私、仲間外れにされているんじゃないの。私が避けているの。あの頃のことを思い出すと、辛くて、苦しくて」
そして続ける。
「知佳のママの病気が治って欲しいとは思うけど、知佳のパパが私のパパやママを苦しめたことを思い出すと許せなくて。もう、自分のなかにいろいろな気持ちがあって何が本当なのかわからないの」
パリのノートルダム大聖堂で知佳の母親の快癒を祈ったことは、嘘ではない。だが、いじめを受け、不登校に追い込まれたことが忘れられないと言う。
夏樹は自分の知らない茉莉香の一面を垣間見たような気がした。
茉莉香は零れる涙を抑えながら言う。
「私って本当に嫌な人間なんです」
「茉莉香ちゃんはいい子だよ」
夏樹が静かに言った。
「俺、親も友だちもいらないって、ずっと思っていた。将太は友達っていうよりお荷物かな?」
「ひどい……」
泣き顔で微笑もうとする。
「でも、パリで茉莉香ちゃんが俺を信じて待っていてくれたときは嬉しかった。ああ、俺にもこんな感情があったんだって、初めて知ったよ」
「いろいろな気持ちがあるんですね」
「うん。それに、岸田さんだって、義務感だけで茉莉香ちゃんを気にかけているわけじゃないと思う」
「いろいろですね」
「そう。いろいろ」
茉莉香は涙を拭きながら、少し笑った。
将太の母親は、彼女の父親と一緒に暮らすことになった。祖父は、夏樹に何度も頭を下げて、将太のことを頼んでいた。
このまま落ち着いてくれれば、将太に迷惑をかけることもないのだろうが、
「これで落ち着いてくれれば……なんだけど、どうなることやら」
夏樹が投げやりに言う。
「あら、将太さんのお祈りはかなえられたんですよ」
茉莉香が朗らかに笑った。
物事を楽観的に受け取ることが苦手な夏樹だが、茉莉香の笑顔を見るとなんとかなるような気がしてきた。
ひとまず問題は解決したのだ。
これでよしと考えることにした。
秋はますます深まり、銀杏並木が黄色く色づく季節がやって来た。
この時期、les quatre saisonsでは、温かいミルクティーの注文が増える。
パンプキン、メイプル、キャラメルなどの甘い香りと味のフレーバーティーも人気がある。これらはミルクティーにしても美味しく、菓子との相性も抜群である。
由里の仕事がひと段落した為、茉莉香はles quatre saisonsに戻っていた。
ある日、いつものように給仕をしていたときのことだった。
茉莉香と同じ年頃のややぽっちゃりとした女性が、店におずおずと入って来た。その様子から内気な性格がうかがえる。
「いらっしゃいませ!」
いつものように客を迎える茉莉香の動きが止まった。
客は、茉莉香の同級生の白石沙也加だった。
以前母親から、沙也加が店に来たことがあると聞いている。その頃、茉莉香は由里の家でアシスタントをしていたため、会えなかったことにほっと胸をなでおろしていた。
茉莉香の心に苦い思いがこみ上げてきたが、やがてそれは温かい何かにくるまれていった。
「いらっしゃいませ」
茉莉香が静かに言う。
「あ、あの……」
沙也加が言葉を詰まらせている。
「何になさいますか?」
そして続ける。
「ごめんね。今日は仕事中だから、おしゃべりできないの。今度、ゆっくり外で会いましょう」
儀礼的ではない温かな口調だ。
沙也加の目に大粒の涙がこぼれる。気弱な彼女にとって、この店に来るだけで、大変な勇気が必要だった。茉莉香がいじめられているときに、いじめに加わりはしなかったものの、助けることもできなかった。茉莉香に冷たい態度をとられることも覚悟していたのだ。
茉莉香には、気の弱い沙也加の気持ちが十分すぎるほどよくわかり、そしてそれが嬉しかった。
「沙也加ちゃん。泣かないで」
ふわふわとしたおかっぱの髪。
つい、触りたくなる白く丸い頬。
つたい落ちる大粒の涙……。
いつの間にか、茉莉香の目にも涙がこみ上げてきる。やがてふたりは抱き合って、涙を流し合った。これまでのわだかまりを洗い流すかのように……。
亘は、今les quatre saisonsで起こっていることが、茉莉香にとってよいことであり、自分の喜びでもあったが、彼はこの店の経営者である。他の客のことを考えると、手放しでは喜ぶわけもいかず、客席を見渡した。
客たちは、ふたりを温かい目で見守っていた。
茉莉香のような育ちの良い娘が、昼間からカフェでバイトをしているのだ。何かしら事情があることは察していたし、人伝手に事情を聞いて知っている者も少なくなかった。中には茉莉香の父親が収賄事件に巻き込まれたことまで知っている者さえいた。
客たちは、現在何が起こっているかはわからないが、ふたりの涙が喜びのものであることに間違いはないと考えた。
笑顔で静かに何度もうなずく者、目頭をハンカチで抑える者もいる。
未希は膝を抱いたまましゃがみ込んで泣いていた。
茉莉香は座って、沙也加と話し込んでいる。
亘は、店の外に出ると、看板を“close”にした。
今日は商売にはならないだろう。
そして、店内に戻ると、客たちに向かって言った。
「あ……、その……、いろいろとお騒がせをして申し訳ございませんでした。お詫びとしまして、ケーキか焼き菓子でお好きなものをひとつサービスさせていただきます。お茶でも結構ですよ」
客たちの間から、歓声と拍手が上がった。
未希が、泣きながら注文をとる。
客たちは、それぞれの好みを言う。
これは、亘にとって客たちへの謝罪であると同時に、茉莉香と沙也加への祝福であった。
現実にこんなことがあればいいな・・・・。
そんな気持ちで書きました。
ここまで読んでいただきましてありがとうございました。