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第30話 約束 ー小さな石にー

 濃い藍色の空には白い月が影を残していた。

 街灯が燈る通りには、歩く人もいない。

 やがて月も消え、薄紅の夜明けが訪れるのだ。


 茉莉香は川べりに立ち、セーヌ川を見つめていた。

 川面(かわも)から白い(もや)が立ち昇っては、空に向かって消えていく。


 ―― この光景を生涯忘れることはないだろう……。


 茉莉香は思った。


「茉莉香ちゃん!」


 声がする方を向くと、誰かが手を振りながら走ってくる。

 夏樹だ。

 白い息を吐きながら、全速力でこちらに向かっている。


(夏樹さん……) 


 心に……言葉にできない愛しさが溢れてくる。


「こんな所にいるなんて! 探したよ! 手が冷たい!」


 夏樹は、息を切らしながら立ち止まると、膝に手を置いて上体をかがめた。

肩が大きく上下している。

 呼吸が整うと体を起こし、茉莉香の方へ向き直った。

 自分を探して走り回ったのだろう、寒いのにひどく汗をかいている。 


「ごめんなさい。セーヌ川が見たくなって……まぁ、汗がこんなに……」


 汗ばんだ額に触れ、乱れた前髪をそっと指で()いた。


「茉莉香ちゃんは冷えすぎ!……薄着だし……なんでコート来てないんだよ!?」


 そう言って、着ていたコートを素早く脱ぐと、茉莉香に羽織らせた。

 優しく見つめられ、茉莉香が俯く。


「早く部屋に戻って、朝食にしよう。ここは寒すぎる」


「ええ」



 ひとつ……またひとつ……街灯が消え、空が白んでいく。

 やがて月も姿を隠すだろう。

 二人は朝靄の中を並んで歩いた。






 テーブルには昨夜使った燭台と、飲みかけのカップが残っていた。


「これを片付けないと」


 茉莉香が言うと、


「昨日のパリジャンが残っているよね。カフェオレを作るから、それで済ませよう」


 夏樹が慌ただしく湯を沸かし始めた。


「ベーコンとたまごもあるわ。私、ベーコンエッグを作る」

 

 手早くテーブルを片付けると、茉莉香もキッチンへ向かった。


 温めたフライパンに油を敷き、ベーコンを入れて、たまごを落とす。

 

「夏樹さんは、たまご二つ食べるわよね?」


「ああ」


 コーヒーを淹れながら夏樹が返事をする。

 ジュッ……たまごとベーコンの焼ける音がし、食欲をそそる匂いが部屋に満ちる。


 テーブルに食事を並べ、食べ始めた。


「美味い! たまごの焼き加減がちょうどいい。腹もペコペコだし!」


 半熟の黄身のかかったベーコン夏樹が頬張る。


「さっき、たくさん走ったから」

 

 その姿を見た茉莉香がクスリと笑った。


「誰のせいだと思ってるんだよ」


 夏樹の言葉に茉莉香が再び笑う。


「今日は実務講習が三時に終わるんだ。待ち合わせて、外で食事をしよう。その前に、ちょっと立ち寄るところがあるけど……」


 曖昧な語尾に気づくが、


「ええ。わかったわ。私は宿泊先に行くわ」

 

 茉莉香がこたえた。


 食事を済ませ、玄関を出ようとすると、


「茉莉香ちゃん……」


 夏樹が軽く咳払いをした。

 俯いて、照れくさそうにしながら、何かを期待するように、ちらちらとこちらを見ている。


 茉莉香が、昨夜のことを思い出し、赤面する。

 そっと近寄ると、身をかがめた夏樹の唇に接吻をした。







 四時に茉莉香は、2区にあるショッピングモールへ向かった。

 ここで夏樹と待ち合わせている。

 食料品から衣料品、装飾品まで扱う、パリに住む人々が日常的に利用する

賑やかな場所だ。

 学生から家族連れまで、利用者の層も幅広い。


 待ち合わせ場所で茉莉香が時計を見ると、四時を少し過ぎていた。


「茉莉香ちゃん待った? ちょっと講習長引いちゃって!」


 夏樹が駆け寄って来た。


「ううん」


 茉莉香が笑顔でこたえると、


「予約しているから早く行かないと」


「えっ?」


 食事だろうか? それにはまだ早いはずだ。


 夏樹は足早にどんどんと進んでいく。

 やがて宝飾店の前にたどり着き、店内に入ると、


「北山様ですね。お待ちしておりました」


 スーツ姿の店員が丁寧に迎え出た。

 有名ブランド店ではないが、この庶民的なショッピングモールでは異質な存在だろう。

 それでも店内は明るく、誰もが気軽に立ち寄れる親しみやすさがあった。


「ここがいいって事務所の人に聞いて……」


「……」


 何が起ころうとしているのか? 茉莉香は考え続けた。


「こちらへおいでください」


 二人は、奥の別室へ案内される。


 部屋に入り、茉莉香は息を呑む。

 カジュアルな表の売り場とは打って変わった光景が広がる。

 淡いヘリオトロープの壁に覆われた部屋。柱、クラウン、ベースボードはアイボリーだ。


(宝石箱に入ったみたい)


 茉莉香は思う。

 

 ロココ調の机にカサブランカが飾られている。花型のシャンデリアは乳白色で、部屋を優しく照らす。

 間隔を置いて二つテーブルがあり、その一つで一組の男女が接客を受けていた。


「ここって……」


 茉莉香はようやく事態を飲みこもうとしていた。


「うん。婚約指輪を作ろうと思って」


「そんな……! 贅沢よ……!」


 茉莉香が言うと、


「ここでそんな話をしないでくれよ」


 夏樹が困ったように言う。


 テーブルに案内され、


「当店は、独自のルートで仕入れをしております。他店に比べ、ずっと良い品が安価でご購入することが可能です。 どんなデザインがお好みですか?」


 若い男性店員がにこやかに尋ねた。


「あ……あの……」


 茉莉香は指輪について考えたこともなかったし、連れてきた夏樹でさえ、わかるわけもない。


「少々お待ちください」


 店員は笑顔のまま、少しの間席を立つと、戻ってきて


「お客様に合いそうなものをいくつかお持ちいたしました」


 そう言って笑顔で品を置いた。


「お客様にはオーソドックスなものがお似合いかと思われますが……」


 予算は事前に伝えてあると聞き、茉莉香は少し安堵することができた。


「では、これを……」


 茉莉香は、一番手前にある指輪を薬指にはめた。


 ―― ドキンッ! ――


 薬指に白く光る石を見た瞬間、心臓をぎゅっと掴まれたような気がした。

 少し前までは、考えもしなかった感情だ。


「いかがですか?」


 店員がにこやかに尋ねた。


「あ、あの、他のものも……」


 茉莉香は平静さを取り戻そうとする。


「そうですね。一生に一度のお買い物です。じっくりお選びください」


 店員が深く頷きながら言った。


 ―― 一生に一度……。


 言葉が魔法のように降りかかる。


 代わる代わる指輪をはめては試す。

 これらは見本で、石がついている。ダイヤモンドだ。

 選んだものをひな型に、注文を受けてから作るのだという。


 どれも素晴らしく、リングをはめては、うっとりと指を眺めた。



 そして、ある鍵爪型の指輪をはめると指にすっと馴染み、そしてそれは茉莉香によく合うような気がした。


 店員はその表情を見逃さず、


「それはシンプルですが、実は当店のオリジナルで、自慢の品なんですよ」


 と、誇らしげに言った。


「まぁ……」


 心を見透かされたようで、茉莉香は恥ずかしくなった。


「うん。俺もそれがいいと思うよ」


「では、これで……」


 茉莉香が遠慮がちに言う。


 だが、店員は、


「実はですね……ご予算にもう少しだけ上乗せして頂けますと、それにピッタリの素晴らしい石がございます」


 と、言った。


(これ以上上乗せなんて……)


 冷静さを取り戻し、早く決めようとすると、


「その石。見せてくれませんか?」


 強張った表情で夏樹が言った。


「少々お待ちを……」


 柔らかな物腰で席を立つと、恭しくビロードの箱を持ってきた。

 10㎝四方の真四角の箱。小さな石を入れるには、大きすぎる気がする。

 

「さあ。ご覧ください。とっておきの逸品です!」

 

 箱を開けると、白く輝く石が現れた。

 今までのどの石よりも強く輝き、吸い込まれるような透明さがある。


「まぁ!」

 

 茉莉香が思わず声を上げると、


「お気に召しましたか? カラットは見本と同じですが、色、輝き、カット……素晴らしいものです!」


 満面の笑みで言った。


(でも……)


 迷っていると、


「実はですね。これはある方のご注文で特別に仕入れた石なのですが、その方がキャンセルなさったために、私どもも困っておりまして……それで、特別にお値引きしてご提供したいと……」


 と、価格を提示した。


 茉莉香には相場というものがわからないが、おそらくかなりの値引きをされていることは間違いないだろう。


 夏樹を見ると、ほっと安堵した様子だ。想定の範囲内なのだろう。


「でも……その方は、なぜキャンセルを?」


 茉莉香がおずおずと尋ねる。

 結婚が破談になったとか、買い手に何か不幸があったとか……。

 いわくつきの宝石では気味が悪い。


「それはですね……」


 店員は、軽く咳払いをすると、


「もっと大きな石がいいとおっしゃって……。その後、別の婚約指輪をお買い上げになりました」


「まぁ!」


 安堵した茉莉香が笑うと、店員もにこやかに笑った。





「よかったわ。いわくつきの指輪じゃなくて」


 宝飾店を出た後、茉莉香と夏樹は近くのビストロで食事をしていた。


「でもなぁ……もっと大きな石がいいだなんて……」


 夏樹には、それが面白くないようだ。


「でも、やっぱり良くない思いのこもったものは嫌だわ」


 茉莉香が言うと、


「そうかい? 俺はそんなことは平気だけどな。 石は石だよ」


 茉莉香の不安など、到底理解できないようだ。



 少し間を置いて、茉莉香が疑問を口にする。


「……でも、お金はどうしたの?」


「それがね。俺が仕事に就いたって言ったら、親方が振り込んできたんだ。女の人には大切なことだって言ってね。安くてもいいから用意するように、って言われたんだ」


「まぁ!」


「俺もピンと来なかったけど、さっき茉莉香ちゃんが喜んでいるところを見て、良かったと思うよ」


「まぁ……」


 自分はそれほど物欲しそうな顔をしていただろうか……。

 つい我を忘れてしまったようだ。


 だが、


「ありがとう。大切にするわ」


 指輪のことは考えていなかったが、やはり嬉しい。


「注文した指輪が完成するのは一か月後ね」


「その時は……俺が、指輪を持って、茉莉香ちゃんの家に正式に申し込みに行くよ」


「……」


 茉莉香は胸の奥が熱くなるのを感じた。


「今まで待たせてごめん。あと少し待って欲しいんだ。俺が本格的に仕事を始められるようになるまで」


「ええ」


 もう少し待たなければならない。それはひどく長い時間のように感じられる。

 だが、確かな未来として、今につながっているのだ。


 いつしか二人は手を取り合っていた。










ここまで読んで頂きありがとうごだいました。

今回で第四章は最終話となります。


次回は、交響的間奏曲となります。


よろしくお願いいたします。

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― 新着の感想 ―
[一言] もう、間違いなくこの二人は幸せになりますね。 だって周りの人が応援してますもん!
[一言] ここまできましたか!
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