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第28話 風によせて

 一月も、もうすぐ終わろうとする、ある日曜日。

 由里は亘の訪問を受けていた。


「急にすみません。これ、由里さんの好きなフィナンシェです」


「まぁ! 嬉しい。でも、珍しいわね。あなたが手土産なんて」


 亘が自分から来てくれるなんて、滅多にないことだ。

 だが、こうして休日にゆっくりと話ができることは嬉しい。

 由里は、いそいそとお茶の準備を始める。


「由里さん。今日来たのは、お話があったんです」


 亘が緊張した面持ちで話をはじめる。


「まぁ、何かしら?」


 由里は、亘が手土産を持ってきたことを思い起こした。

 大事な話があるのだ。


「実は……研究所に戻ることになりました」


「まぁ!」


 由里がひどく驚く。

 だが、それはすぐに大きな喜びに変わった。


「まぁ! まぁ!」


 言葉が見つからない。


「いつから?」


 やっとの思いで、言葉が出た。

 目頭が熱くなる。


「四月からです。実は、去年から話が進んでいて……もっと、早く話すべきでしたが……」


「いいのよ! そんなこと! ああ、よかった!」


 兄弟のいない由里にとって、亘は実の弟同然の存在だった。

 幼い頃から、聞きわけがよく、礼儀正しく、賢い自慢の弟。


 亘の仕事がどれほど貴重なものであるかを、未だ由里には理解できずにいる。

 だが、このままではいけない。

 そんな気持ちだけが、彼を気にかけ、不憫に思わせていた。


 だが……それが、今、終わろうとしている。


「まぁ。まぁ。まぁ。本当に……」


 由里は涙交じりに言葉を続ける。


「由里さん……」


 亘が由里をいたわっている。

 

 亘は優しい。

 

 由里は、亘があるべき道に戻ることを喜んでいる。

 だが、同時に不安でもあった。


 この優しい人間が、自分よりも人を大切に思う人間が、激しい競争の中で生き残れるのだろうか?


「おめでとう! よかったわね!」


 由里は不安を振り払う。


 今すべきことは、憂うことではない。


 亘の輝かしい未来を祝福することなのだ。



「僕の代わりは……」


「米三さんがいるわ」


 由里がそっと涙をふく。


「あなたは何も心配しなくていいわ。でも、茉莉香ちゃんが、辞めるのもそれ程先ではないから……やっぱり人探しはしないとね」


 そして笑った。


「茉莉香ちゃんだけじゃなくてね、瑞枝さんの翻訳の仕事も増えてきたの。もうすぐバイトをしなくてもやっていけるようになるわ」

 

 彼女の退職も時間の問題だろう。


 


 二人の話題は、茉莉香と夏樹のことになった。


「それにしても……夏樹クンも茉莉香ちゃんも凄いわね」

 

 由里が興奮気味に言う。


「ええ。茉莉香ちゃんは、すでに仕事に取りかかっています。お店のシフトを減らしておきました。僕は、翻訳の方に専念した方がいいんじゃないかって言ったのですが、気が紛れるって……」


「まぁ。そういうものなのかしら?」


「らしいですね。今、茉莉香ちゃんに辞められてしまうと、こちらも厳しいので、正直なところ助かっています」


「夏樹クンも、正規の従業員になったのよね」


「はい。資格の取得と職に就くこと。この二つが揃ったので、茉莉香ちゃんのご両親から正式に交際を認められたそうです。ただ、今年の夏までは実務講習があるので、フルタイムで働けるのはそれ以降ですね」


「この三月で、茉莉香ちゃんも修士課程を修了するし……」


「夏樹クンが協会に登録するのと同時に結婚するとしたら、二人はパリで生活するのよね?」


「はい。図書館の建築の責任者を任されたそうですからね。来年の一月から開始されるそうです」


「そう……夏樹クン忙しいわね。茉莉香ちゃん、新婚早々寂しくなるわ。知合いのいない外国で一人暮らしをするようなものよ」


「由里さん? 気が早すぎますよ」


 亘が呆れたように笑ったが、


「でも、茉莉香ちゃんにも自分の仕事がありますからね。育修社のパリ支社にも親しい人がいるみたいですよ」


 と続けた。


「それに、les quatre saisonsのパリ支店もあるわ。お店を手伝ってもらいたいの」


 由里が言う。


「それに……家族も増えるし……」


 由里が囁く。


「……気が早いですよ……」


 亘がたしなめるように小声で言う。


「来週パリに行くって言っていましたよ」


「まぁ! もう一緒に暮らすの?」


「そんな! 気が早すぎますよ! 一週間だけです。お祝いに駆けつけるって言っていました」


「でも、今度は一人で行くのよね」


「はい」


「一人ねぇ……。やっと二人きりになれるのね」



 ―― 一瞬、


 互いに駆け寄る茉莉香と夏樹の姿が目に浮かんだ。

 



「あ、こんな時間だ。今日は、実家で食事をすることになって……」


「まぁ、私も引き留めてしまって……。玄関まで送るわ」


 由里は玄関で亘を見送った。


「職場復帰しても住まいは今のままです。いつでも会えますよ」


 亘が笑った。




 風が吹く。

 亘の背を推すように……。


 由里はその姿を見つめ続けた。





「それにしても……また人探しをしなくちゃね」


 初めて茉莉香にあった日。


 あの日は冷たい雨が降っていた。


 茉莉香は赤く目をはらしながら、アップルパイを食べていた。


 あどけなかった少女が、自分の幸せを掴もうとしている。


 茉莉香の優しい笑顔。

 囁くような弾む声。


 それがどれほど心を慰めてくれただろうか?


 茉莉香は遠からず、les quatre saisonsを辞める。

 しかも外国へ行ってしまうのだ。


 しばらくは会えない。


 一抹の寂しさを感じる。


「陽もそろそろ暮れてきたわね」

 

 薄紫色の空に鳥の羽のような白い雲が筋を描いて伸びている。


 冬の最も厳しい季節が終わろうとしている。

 間もなく南からの強い風が街を吹き抜けるだろう。

 春一番だ。



 風は人を運び、

 

 風は人を去らせる。


 だが、いつか会える日が来るだろう。


 香り豊かな茶に、甘い焼菓子。

 テーブルに花を飾り、訪れる人を待てばいい。


 由里は顔をあげ、そっと微笑んだ。


 



 


ここまで読んでいただきましてありがとうございました。

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