第21話 トナカイの涙
「あーっ! 私ったら!」
家に帰ると、茉莉香は壁に背を持たれたまま、へたへたと座り込んでしまった。
「妹尾先生にあんな態度をとって、失礼だと思われたかしら?」
茉莉香は顔に手を当てると、首を左右に振る。
だが……。
あのときは、ああしなければ平静を保たなければ、崩れ落ちてしまいそうだったのだ。
妹尾を前にしたとき、足が震えた。
そのまま逃げだしてしまいたかった。
茉莉香は、自分に与えられた原稿を手に取る。
妹尾が先にもう一つを選んでくれてよかったと思う。
確かに、あの作品の方がストーリーに起伏があり、人気も高い。
「でも、この作品で良かったわ。こちらの方が地味だけど、何気ない日常を繊細に描いているから好きだったの」
著者の作品に対する密やかな愛情も感じられる。
おそらく読者のウケを狙わず、愛着を持って書かれた作品なのだ。
「さあ! 頑張って仕事をしましょう!」
できれば……いや、絶対に『睡蓮』を翻訳するのだ。
「気を引き締めて頑張らなくちゃ!」
茉莉香は机に向かって、作業を始めた。
……だが……
茉莉香の心に影を差す知らせが入る。
数日後、樫木から電話があった。
「浅見さん。すみません。実は、評論家のメンバーが……」
五人のメンバーのうち、四人が妹尾寄りの評論家たちだと言う。
「浅見さん。本当にすみません。上からの指示なんです。力が及ばなくて……」
妹尾は父親が高名な仏文学者だと聞く。
もしや、その関係だろうか?
だが、そうではないようだ。
「女史は、いろいろと顔が広くて……。社の上部とも繋がりがあるんです。女史のお父様はそういう方ではないのですが……」
樫木が口惜しそうに言う。
茉莉香は気の遠くなるような思いだった。
それでなくても自分は経験が浅い。
自分は、あまりにも不利な状況に置かれている。
だが、
「樫木さん。私、できる限りのことをします。とにかくお引き受けした仕事ですから」
自分が大切にすべきことは、著者の心を読者に届けることではないだろうか?
「そう言っていただけると、心強いです! 私も、尽力させていただきます! 浅見さんは、お仕事に専念してください!」
樫木の言葉は力強い。
「はい!」
そう言って電話を終わらせた。
物語は、若い女性の日常を描いたものだ。
仕事、女友だちとの交流。そして胸に秘めた小さな恋。
心の機微が繊細にヴィヴィッドに描かれ、コミカルな場面では、思わず笑いがこぼれる。
「作者のヒロインへの愛情が感じられるわ」
読み込めば読み込むほど、ヒロインが身近に感じられる作品だ。
「これは……作風の軽快さを表さなくてはいけないわ。それでいて細やかに……思っていたよりも難しそうね」
だが、興味深い。
「伝えたい! 作品の魅力を!」
著者の心を届けるのが自分の仕事なのだ。
茉莉香は仕事に没頭した。
Sofia十二月号が書店に並び、数日後、批評が新聞や雑誌に掲載される。
―― 結果は ――
妹尾の圧勝だった。
どの評論家も、手放しで彼女の翻訳を絶賛している。
茉莉香は自室で、一人それらを読んだ。
茉莉香については、酷評こそないものの、存在しないがごとき扱いで、ただ一人だけが、
“有望な新人。今後の活躍を期待したい”
と、だけ述べていた。
評論家たちは、不正を働いているわけではない。
彼らは、妹尾の安定感と風格のある訳を好み、自分が正しいと思う記事を書いているだけなのだ。
だが、それは妹尾の揃えた人間たちなのだ。
「で……も……悔しい」
涙が頬をつたう。
できる限りのことをした。
自分は新人なのだ。
相手はベテランの実力者だった。
審査に公平性が欠けていた。
自分を慰める言葉はいくらでもある。
だが、結果は出せなかったのだ。
目の前のチャンスを掴めない人間に、果たして次の機会が与えられるものだろうか?
もっと、良い方法があったのではないか?
敗北に打ちのめされた茉莉香は、あてどなく考え続けた。
「悔しい……」
これほどの挫折を感じたことが、これまであっただろうか?
自分の今までの悩みは、どれほど取るに足りないものであったか……。
茉莉香の胸に激しい苛立ちが込み上げ、手に取ったものを壁に投げつけた。
“ぼすん”
鈍い音が部屋に響く。
「まあ! 私ったら!」
我に返った茉莉香は呆然とする。
投げつけたのは、去年のクリスマスに夏樹から贈られた、トナカイのぬいぐるみだった。
一瞬、楽しい思い出が蘇る。
イルミネーションに飾られたクリスマスマーケット。
天使たちの歌声……。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
泣きながらぬいぐるみを抱きしめるが、トナカイは何事もなかったかのように、滑稽な笑いを浮かべている。
「ごめんなさい……」
茉莉香はトナカイを抱きしめたまま、涙をこぼした。
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