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第20話 木枯らし

茉莉香にも新しい課題です。

 十月のある日。茉莉香は樫木からの電話を受ける。


「浅見さん! 大変です!」


 樫木が興奮している。

 こんなことは初めてだ。


「どうかしましたか?」


「あのですね。『睡蓮』の版権がとれたんです!」


「!」


 樫木の言葉に茉莉香は衝撃を受ける。

 だが、それは嬉しい驚きだった。


「おめでとうございます! 樫木さん!」

 

 樫木をはじめ、文芸部の努力が実ったのだ。

 茉莉香は自分の事のように喜ぶ。


 ……だが……。

 冷静さを取り戻した茉莉香は考える。


 自分と何のかかわりがあるのかと?


 樫木は、何のために電話をかけてきたのか?


 彼女の様子から察するに、取り急ぎ茉莉香に連絡をくれたようだ。


 茉莉香は樫木の次の言葉を待つ。


「実はですね! 私たちは翻訳者として、浅見さんを推しているんです!」


「えっ!? 私が?」


 自分でいいのだろうかと思う。


「はい! 私たちは、浅見さんには十分実力があると思います」


 喜ばしい事であり、待ち望んでいたことだ。


 だが、にわかには信じられないし、素直に喜んではいけない気がする。


 茉莉香の心に、そっと不安が忍び寄る。

 

 ―― 予想は当たった。


「……ですが、浅見さん以外に、自主的にエントリーしてきた人がいるんです」


 茉莉香には、その人物が予想できた。


妹尾綾子(せのおあやこ)女史です」


 樫木が低い声で言った。


「妹尾先生が……」


 茉莉香は、初めて会った時の妹尾の怒りの形相を思い出し、身震いをする。


 『睡蓮』は、フランス文学に精通する者の間では、すでに知れ渡っていた。

 妹尾が執着するのも無理はないだろう。


「内々に話を進めていたのですが、いつの間にか女史の耳に入って……女史は、育修社の上層部との繋がりが強いんです」


 樫木にしては珍しく、ゆっくりと慎重に話を進めている。


「それで、こちらで取り決めをしたんですが、それをご説明するために、一度来社願いたいのですが……」


 樫木の言葉に茉莉香は気が遠くなるようだった。


 チャンスとライバルが同時に目の前に現れたのだ。

 しかもライバルは、あの妹尾なのだ。




 話し合いの場は、育修社の会議室に設けられた。


「失礼します」


 ドアを開けた瞬間、茉莉香は体中が震えるような気がした。


 部屋で待っていたのは、見慣れた編集部員たちと妹尾だった。

 妹尾は敵意に目をらんらんと輝かせて茉莉香を見つめている。


「これから、編集部で話し合ったことをご説明いたします」


 編集長がぼそぼそと話し始めた。


「文芸雑誌Sofia(ソフィア)に同じ作家の短編を二作品掲載します。それぞれを妹尾先生と浅見さんに翻訳していただいて、こちらから依頼した評論家の方に新聞や雑誌に批評を書いていただくようにお願いします。それで評価の高かった方に、今回の件をお願いしようということになりました」


 そして続ける。


「十二月号に掲載します。発売日は十一月の第三週の水曜日です」


 公平な選抜方法だと茉莉香は思う。

 だが、これで妹尾が納得するだろうか?

 そう考えたとき、


「まぁ! 素晴らしいご提案ですわね! 公平です。個人的な縁故なども関係ありませんからね!」


 ちらりと茉莉香を見ながら、上機嫌で言った。


 あまりのあっけなさに、一同が拍子抜けしている。


「評論は五名の方にお願いします。決まり次第連絡いたしますが、お二人は翻訳の作業に取り掛かってください」


 その場で、二つの作品が二人の前に並べられた。

 どちらも茉莉香の読んだことのある作品だ。

 当然、妹尾も……。


 片方は、作者の特徴が色濃く出ている作品で、フランスでも人気がある。

 もう片方は、どちらかと言えばマイナーで、知名度も低い。


「私はこちら!」


 妹尾は有名作品をさっさと手に取った。


 樫木が何か言おうとするが、


「樫木さん。私はこちらで……」


 茉莉香は逆らうことなく、もう一つの原稿を手に取った。


「浅見さん!」


 樫木は妹尾に対する反感と、茉莉香に対する歯がゆさで苛立っている。


「浅見さんとおっしゃったわね。あなたには、そちらの作品が丁度いいと思いますよ。……こう言ってしまうと、悪いですけれど……良い作品を翻訳するためには、それなりの技量が必要ですからね」


 女史は、未熟な若者を諭す親切な経験者然として優しげに言う。


「まぁ、あなたには荷が重いかもしれませんが、精いっぱい頑張りなさい」


 言葉は丁寧だが、口ぶり、表情からは、茉莉香への敬意は感じられず、いかにも相手を侮った言い方だ。


 樫木がじりじりと怒りを堪えていると、


「ありがとうございます」


 茉莉香は正面から女史を見据えた。


 そして、


「若輩者ではございますが、精いっぱいやらせていただきます」


 静かに言って、丁寧に頭を下げた。


 女史は一瞬たじろぎ、それを見た樫木の顔がぱぁっと明るくなった。


 だが、


「おほほ……殊勝な心掛けですこと。それでいいのですよ。努力したことは決して無駄になりませんから」


 まるで自分がすでに勝者になったかのように、高笑いをしながら部屋を出て行った。




「浅見さん! さっきの調子です! 品格があって、眩しいくらいでした! 女史もたじたじでしたよ!」


 柏木が喜んでいる。

 うっぷんが溜まっていたのだろう。溜飲を下げた表情を見せた。





 茉莉香は樫木と別れると、出版社の玄関に立った。



 ―― ヒュー……


 乾いた冷たい風が正面から吹きつけた。

 

 喉元に当たった風は、襟口から張り込み、通り抜ける。

 体の芯から冷え込むようだ


 木枯らし。


 木の葉を落とし、すべてを枯れさせる風。

 秋の終わりを告げ、冬の到来を知らせる北から吹く風。


「寒い……いつの間に……」

 

 茉莉香は、思わず身を縮め、両手で自分自身を抱きしめた。


「さあ! 早く帰って仕事をはじめなくきゃ!」


 茉莉香はコートの襟を立て、足早に帰路につく。

 

 二人の翻訳者の競合が始まろうとしていた。



 

 






ここまで読んでいただきましてありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
[一言] 頑張って!茉莉香ちゃん! 君ならその本の魅力を十二分に引き出す事ができる!
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