第18話 帰省
お話の舞台が変わります。
父の康彦が倒れたとの知らせを受け、亘は急遽実家へ戻った。
壮健な父だが年齢が年齢だ。
激務がこたえたのだろう。
家で静養中と聞き、亘は急ぎ父の部屋へ駆けつけた。
が……
「おかえり!」
ソファーにゆったりと座った父に、満面の笑顔で迎えられる。
「お父さん!?」
いつも通りの父だ。
顔色も良い。
「お父さん……」
亘は、ほっと気が抜けるのを感じた。
「心配かけてすまなかったね。ちょっとふらついたら、母さんがひどく心配してね。しばらく検査と休養をすることにしたんだ。検査の結果は良好だったよ。暑さ負けかな? 今年の夏は厳しかったからね」
「そうなんですか……いや、驚きましたよ。でも、お父さんは少し休まれた方がいいですね」
今は茂が代わりをすることができる。
父はあまりにも多忙だった。これを機に健康に気を配って欲しい。
「心配させてしまったね。そうだ! せっかく来たんだから、しばらくゆっくりしていきなさい」
「でも……店が……」
「店なら、米三さんという有能な人がいるっていうじゃないか。イマイズミで定年まで勤めて、そのあと前川さんのところでも働いている。お前よりもずっと頼りになる人なんじゃないかい?」
さらりと痛いところを突いてくる。
さすが父は侮れない。
米三は、イマイズミ時代は、直営カフェの支配人をしていたこともある人物で、調理師の免許も持っている。
接客もそつがない。
もし経営を任せれば、その手腕を遺憾なく発揮することだろう。
亘が考えあぐねている間に、
「じゃあ、まずは夕食を……。亘の分も用意しておいて」
父の呼びかけに母が笑顔でこたえた。
そして、
「お父様がね、あなたの部屋を改装したの。本棚や資料置き場を用意してね。あなたが戻ってきたら、図書館みたいになるわ」
母がいそいそと亘を部屋に案内する。
部屋に入った亘は唖然とした。
寝室と書斎を仕切り、ドアを使って出入りする形に改装されている。
ドアを開けると……
言葉通り、空の本棚が整然と並べられている。
「確かに……図書館のようですね」
本棚を見上げながら言うと、母が笑った。
家に寄り付かない放蕩息子のために、これだけの用意がよくできるものだと、感心すると同時に呆れずにはいられない。
「ま、いいいか……一泊するくらいならば……」
父は病み上がりなのだ。
親不孝をしているという自覚もある。
ここは妥協するしかない。
だが、翌日、亘が実家に戻ったことを知った親類や知人が亘に会いに来た。
みなが口を揃えて、
「亘さんが戻ったから会いに来てって、お父様に言われちゃって……」
そう言った。
接待をするのは康彦だった。
目の前で親しみ深く微笑みかけられると、誰もが気を許して話し込む。
やがて……。
「おや。こんな時間だ。食事を用意させましょう」
客たちは恐縮しながらも、夕餉の席に着く。
料理はどれも美味しく、上等な酒とそれに合ったつまみがふるまわれた。
だが、食事よりも、酒よりも、何よりも心惹かれるのは、康彦の心遣いだった。
誰もが時を忘れ、滞在は深夜に及び、宿泊することになる。
亘もそれに合わせて自室で休んだ。
それが何日も続き、亘は康彦と供に接待に明け暮れた。
「まるで竜宮城だな」
浦島太郎と違うところは、誰もが幸せな気持ちで帰って行くことだろう。
接客に疲れても夜には心地よく休むことができる。
亘の部屋は以前にも増して心地よく改装されていた。
母の心配りだろう。
配慮されているのは内装だけではない。
クローゼットを開けると、
「……いつの間に!? 一体何日分揃えたんだ!?」
服が、ずらりとハンガーに掛けられている。
ほとんど手ぶらできたが、当分不自由をすることはないだろう。
(……本当に、このまま帰れなくなりそうだ……)
空恐ろしくさえある。
だが、居心地は悪くない。
ふと、手持ち無沙汰になりサイドテーブルを見ると、定期購読をしている学術雑誌がある。
「最新号だ。まだ読んでなかったな……」
至れり尽くせりだ。
カップボードを開けてみる。
北欧製のティーセット、菓子皿、グラス……。引き出しにはカトラリーにナプキン。
備え付けの棚には……。
「ダージリンだ。夏摘みだけだけど、いろいろ揃えてある……」
缶を開け、香りを嗅ぐ。
「一級品だな」
部屋を見渡す。
広々とした間取り。趣味の良い家具と、それらのバランスのよい配置。
目に優しい照明。
空調は心地よく、外気の暑さを忘れさせる。だが、寒すぎるということもない。
さらりとした空気が肌に心地よい。
だが……
父が望むことは自分がこの部屋で暮らすことではないだろう。
茂の調査は、その都度父に報告されているはずだ。
父が望むことは……。
痛いほどわかっている。
亘は、康彦に研究所に戻るように説得されることを密かに恐れていたが、それはなかった。煩わしさは感じずに済むが、気が抜けない。
(それにしても……)
滞在中、茂と顔を合わせていない。
茂はあの後、度々訪ねて来ては亘を辟易とさせていた。
会わずに済むならば、気が楽ではあるが不自然だ。
その後も、来客が途切れることがなかった。
来る日も。
来る日も。
「亘さんのお父さんに言われて……」
彼らは、申し合わせたように、同じ言葉を口にした。
観念する以外ないだろう。
マンションへ戻る機会を失い続け、絶えることのない客をもてなし続けた。
「まぁ、いいか。いずれは終わるだろう。それに店には米三さんがいるし……」
店には米三がいる……。
自分がいなくても店は回るのだ。
いずれ由里も戻ってくる。
彼女の子どもたちも成長した。いつでも戻れるのだ。
そうしたら自分は、どうすればいいのだろうか?
そろそろ考えなくてはならない。
忘れていたことだった。
だが、滞在が十日を過ぎた頃、
「客も来なくなったな。そろそろ帰らないと、本当に居場所がなくなる。もう、父さんが何と言おうと、絶対帰るぞ!」
そう決意し、荷物をまとめ終った頃、
「亘さん。お客様よ」
母から来客を告げられる。
ーー来訪者は思いもよらぬ人物だった。
ここまで読んでいただきましてありがとうございました。