第16話 チャンスには……!
前回の8か月後からお話はスタートです。
夏樹は修士課程を修了しました。
お話は新たな展開を迎えます。
八月になり、夏樹は修士課程を修了した。
卒業と同時に「建築士」と名乗ることができる。
これで茉莉香の父親との約束を一つ果たしたわけだが、実務に携わるためには、実務講習を受け、協会に登録しなくてはならない。
講習は九月から始まり、約一年間続く。
そんなある朝、茉莉香から電話があった。
「夏樹さん。卒業おめでとう」
「ありがとう茉莉香ちゃん」
「本当はお祝いに駆けつけたかったんだけど……」
「お父さん?」
「ううん。パパは、沙也加ちゃんと一緒ならパリに行ってもいいって言ってくれたの」
「何か?」
「それがね、樫木さんが、すぐに連絡の取れるところにいて欲しいって……」
「何かあったの?」
「ううん。何も……」
樫木に会ったことはないが、茉莉香の話では聡明な女性のようだ。
何かが起こりそうな予感がする。
茉莉香は平静を装っているが、緊張感は隠せない。
「樫木さんが言うなら、従った方がいいんじゃないか?」
「ええ。いつもよくしてくれているから」
語尾がわずかに震えている。
「じゃあ、茉莉香ちゃん。電話ありがとう。元気でね」
何かが起ころうとしている。
きっと茉莉香のためになることだ。
“チャンス” ?
もしそうならば、身構えて待機していなくてはならない。
チャンスはいつも身近に潜んでいて、ある日突然姿を現すのだ。
「夏樹さんも体に気を付けて……あ、あの……お願いがあるの……」
「なに?」
自分からはめったに願い事をしてこない茉莉香だ。
ぜひ叶えてやりたい。
「あのね……」
夏樹はあるアパートに向かっている。
考えるだけでうんざりするような、煩わしい雑務が待っているのだ。
義孝だ。
九月から始まる語学留学に先駆け、パリを訪れている。
地元の高校に通いながら、フランス語を身に着けるのが目的だ。
「お願い! 義孝君の様子を見てあげて!」
茉莉香に懇願されたのだ。
義孝が到着して一週間後、ホームステイ先を訪ねる。
義孝は何の違和感もなくパリの街に溶け込んでいた。
ホストファミリーとも良好な関係を築きつつあり、フランス語も問題ない。これなら、勉強にもついていけるだろう。
「フランス語は問題なさそうだな」
と言うと。
「茉莉香に習ったんだ」
と、得意げに言い放つ。
(俺だって!)
と、応酬しようとして止めた。
(あまりにも大人げないぜ)
こんなことでムキになっては情けない。
だが、義孝の態度はやはり人を苛立たせるものがあるのだ。
(それにしても……)
義孝に関しては何の心配もない。
そう思う。
互いに不快な気持ちになっただけだ。
(なんのために来たんだか……)
「ねぇ。北山さん」
「なんだよ」
夏樹が不愛想に答える。
本当は口をきくのも煩わしい。
「今度、北山さんのアパート行っていい?」
「なにしに?」
どうせロクなことは考えてないはずだ。
「そりゃ、素行調査だよ。一人暮らししているんだろ? 北山さんイケメンだし」
どこまでも生意気な奴だ。
だが、ここで拒絶するといらない誤解を招きかねない。
あの達者な口で茉莉香に余計なことを吹き込まれる恐れもある。
「ああ……今度来いよ。でも、何も出さないからな」
「ふふん」
義孝が笑う。
一瞬見せる少年の顔。
美男子といってもいいだろう。
(こいつも黙っていればなぁ……)
「義孝君のお母さんってね。すごく美人なの。モデルみたい。義孝君はお母さんに似たのね」
と、茉莉香が言っていた。“美人” というのは、誉め言葉だが、茉莉香はおどおどとした口ぶりで話をしていた。
あまり良い人物ではなさそうだ。
(まぁ、こいつの親だからな)
ここの女主人が、
“お忍びで遊学している王族を預かっているの?”
そんなことを、冗談交じりで言われたらしい。
彼女もまんざらではなさそうだ。
どうせ預かるのなら、見栄えのいい子どもの方がいいだろう。
確かに義孝には、そんな風情がある。
自分には見せないが……。
ホストファミリーの手前、二人は仲の良い知人のごとく、再会を約束し、別れを告げた。
(これから、あいつが俺の周りをちょろちょろするのか……)
また一つ面倒なことが増えてしまった。
ふと、振り返ると、義孝が玄関を出たところに立っていた。
視線に気づいて、手を振ることもなく、いつもの勘に障る笑みを浮かべている。
少し歩いて、再び振り向くと、まだそこにいた。
夏樹は、数歩進んでは振り返ることを繰り返すが、義孝は立ち続けている。
ただ、立っているだけ……。
義孝は立ち続けていた。
その姿が次第に小さくなり、
やがて見えなくなるまで……。
ある日、事務所に出勤した夏樹は、その騒然とした様子に唖然とした。
慌ただしく電話をかけまくる者、資料を作成する者、興奮した声で声高に打合せをする者。
物々しい空気が事務所に充満していた。
「何かあったんですか?」
マリエットに尋ねると、
「16区の図書館を建て替えるのよ」
「建て替え? 改築じゃなくて?」
古い建物をリフォームすることが度々行われているが、完全な新築となると一大事だ。
「ええ。建て替え。プロポーザル方式で公募を開始したの。今朝、発表になって、事務所はその件で大騒ぎよ。当然よね」
(すっげー!)
話を聞くだけで体温が上がりそうだ。
皆が熱に浮かされたように、プロジェクトについて話し合っている。
夏樹は、今日は役所向けの書類を作成しなくてはならない。
騒ぎを気にしながらも、仕事を始めた。
16区は、パリ市の20ある行政区の一つで、市の西部に位置し、ブローニュの森を含む。東西を蛇行したセーヌ川に挟まれた状態で接し、エッフェル塔に対面するようにある。治安が良く閑静で、高級住宅街の一つとして知られている。
「あそこは、瀟洒な建物が多くてね。図書館はその一つをリリノベーションしたものなの。だけど今回は完全に建て直すのよ」
マリエットが説明する。
(最高のプロジェクトだ!)
夏樹も興奮してくる。
(自分もプロジェクトにかかわれないだろうか……)
手元の作業をこなしながら思案する。
チャンスはいつも身近に潜んでいて、ある日突然姿を現す。
だから……!
鉛筆を持つ手に力が入り、ぎゅっと握りしめると、
ポキン!
芯が折れた。
「あちゃ〜。さっき芯を削ったばかりなのに……」
余計な仕事が増えてしまった。
苛立ちながら鉛筆削りを探していると、
「夏樹! ボスがお呼びよ!」
マリエットの声がする。
いつになく興奮気味だ。
何事だろう。
この時期に?
わざわざボスが俺を呼び出すなんて……。
怪訝に思いながら、ガスパールの部屋へ向かう。
「失礼します」
緊張した面持ちでドアをノックする。
「入りたまえ」
呼びかけと同時に入り、礼をする。
ガスパールはデスクを前に座っていた。
指を組んで、その上に軽く顎を乗せていた。
いつもと変わらないように見えるが、心中穏やかではないだろう。
鷹のような目が、彼の気持ちを覗かせていた。
指示通りに椅子に腰かけ、ガスパールが話し始めるのを待った。
「今、何が起こっているかわかるね?」
ガスパールが話を切り出す。
「はい」
全神経を集中させる。
「16区の図書館が建て替えになる」
「はい」
「建築事務所の公募をしている」
「はい」
「応募規定があるが、ここはそれを満たしている」
「はい」
「当然エントリーする」
「……」
自分にも何か役割が与えられるのだろうか?
誰かのアシスタントだろうか?
なんでもいい!
このプロジェクトに係わりたい!
「そこでだ……君に頼みたいことがある」
(やった! 何だってやってやる!)
だが、続く言葉は夏樹の予想をはるかに超えていた。
「デザインと設計を頼みたい」
―― なんて言った!? ――
「やってくれるね?」
俺が?
バイトの俺が?
そんなことはどうでもいい。
ガスパールはこう尋ねているのだ。
やるのか?
やらないのか?
―― チャンスはいつも身近に潜んでいて、ある日突然姿を現す。
そして自分は常に身構え、備えてきたのだ!
答えはひとつしかない。
「Oui Monsieur!」
「よく受けてくれた!」
ガスパールは素早くデスクを離れ、夏樹の前に立ち、手を握った。
そして、
「締め切りは、十一月末。もちろん事務所をあげてサポートをする!」
と、力強く言った。
「はい!」
夏樹はドアを開け外に飛び出した。
体中に血がたぎるようだ。
絶対に公募を勝ち取って見せる!
俺の力で!
※プロポーザル方式とコンペ方式
この二つの違いを明確に説明するのは難しいのですが、単純に言ってしまうと、
コンペ:提案を審査
プロポーザル:人(法人)を審査
と、なります。
コンペ方式では設計書そのものを選ぶのに対し、プロポーザル方式は提案に対応する能力や技術があるかどうかという基準で審査をします。
依頼主の意向をを現実のものにできるかどうか……?
が、重要になります。
ここまで読んでいただきましてありがとうございました。