第15話 大晦日
大晦日。
夏樹は茉莉香の実家を訪れます。
夏樹の日本滞在中の宿が亘の部屋に決まった。
由里の提案だ。
「お金は節約しなくちゃね♪」
「なんで僕の家なんですか?」
亘は抵抗を試みるが、
「じゃあ、実家に帰りなさい。実家に帰るか、夏樹クンを泊めるかどっちがいい?」
おかしな選択肢だが、由里に逆らえるはずもなく、少しでもマシな方を選んだ結果、夏樹を泊めることにした。
「ただいま戻りました」
「おかえり」
亘が迎える。
「あの、今日は慌ただしく出かけちゃってすみませんでした。しばらくお世話になります」
夏樹が頭を下げた。
「こちらこそ。荷物は君の部屋に置いておいたからね」
「すみません」
玄関先に荷物を置いたまま出かけていたのだ。
夏樹は再び頭を下げる。
「そう言えば……明日なんだけどね。お店の方、僕は休んでいいって言ったんだけど、茉莉香ちゃんが……瑞枝さんに悪いからって。そういうことあまり気にする相手じゃないんだけどね。クリスマスの日に二日続けて休んでしまっては、申し訳ないって」
「なんか茉莉香ちゃんらしいなぁ。あ、でも、俺も顔出さなきゃいけないところがあるから。親方とか、樋渡さんとか……」
ついでに将太だな。
夏樹は思う。
「店の方へも来るといいよ。前もって言ってくれたら、由里さんに伝えておくから」
「ありがとうございます」
「あと、決まった予定はあるの?」
「あ、大みそかに茉莉香ちゃんの実家へ呼ばれていて……。年越しそばを一緒に食べようって……」
そのあと、近くの神社へ初もうでをし、夜明け前にパリへ旅立つのだ。
「じゃあ、こちらが君の部屋」
亘は夏樹を案内した。
「おやすみなさい。今日はありがとうございました」
「おやすみ。長旅で疲れただろう。ゆっくり休みなさい」
挨拶をすませると、部屋に入りベッドに横になった。
「あの時は焦ったな」
茉莉香が、帰宅の直前に泣き出したのだ。
泣き晴らした顔を、彼女の両親に見せるわけにはいかない。
慌てて近くの薬局へ目薬を買いに行った。
「だけど……」
唇にそっと指をあてる。
茉莉香の唇の感触が蘇った。
涙が止まり、微笑に変わる瞬間を思い出す。
涙の乾かぬままの、長い睫毛……。
「わー!」
叫びだしたい気持ちになる。
亘がいなければ、そうしていたかもしれない。
嬉しさが徐々に込み上げてきた。
「それにしても……あんなデートでよかったのかな?」
プレゼントもディナーもないクリスマス。
だが、茉莉香は幸せそうに笑っていた。
その笑顔を思い浮かべながら、夏樹はいつの間にか眠りに就いた。
大みそかに夏樹は茉莉香の家を訪れた。
茉莉香によく似た母親が、笑顔で出迎えてくれた。
「天ざるにしようと思って、天婦羅をたくさんあげたのよ」
食卓に案内しながら、茉莉香の母親が言う。
海老、鱚、茄子、大葉、かき揚げ……
皿に盛りつけられた天婦羅が、食欲をそそる。
「この野菜のかき揚げは、私が揚げたの」
茉莉香が言い添える。
「ありがとうございます」
だが、気楽に食事を楽しむ気にはなれない。
茉莉香の父親が、目の前に座っているのだ。
温和で、それでいて活力のある顔立ち。
おそらく彼の生き方により作られたものだろう。
「いただきます」
何とか平常心を保ちながら、茉莉香の揚げたかき揚げに手をのばす。
ニンジン、玉ねぎ、三つ葉が入りのかき揚げだ。
「いただきます」
かき揚げを口に入れる。
サクリ……。
香ばしい歯ざわり。
衣はからりとしていて、野菜の甘みがじわりと口に広がる。
思わず、
「美味しい!」
と言うと、
「本当? よかった!」
茉莉香が笑う。
その時、茉莉香の母親が
「茉莉香ちゃん。ちょっと、お酒が足りないからお買い物に行くの。一緒についてきて」
「はい」
二人は、すぐに戻ってくるからと言って、家を出て行った。
部屋には、夏樹と茉莉香の父親、耕平だけが残された。
沈黙の時間が続く……。
「北山君。グラスが空になっているよ」
耕平は夏樹にビールを勧めた。
金色の液体が、静かに泡を立てながらグラスを満たしていった。
グラスを持つ手が次第に冷たくなる。自分が訪れるずっと前から冷やしておいたのだろう。
「それにしても……」
ビールを注ぎ終ると、耕平が口を開いた。
「それにしても……建築士の試験に一度で合格するとは、たいしたものだ。しかもフランスでも……」
「いえ……」
緊張感を崩さないまま、夏樹が返答をする。
「茉莉香は、いろいろとあってね。私の責任なのだが……明るく振舞っていても、どこか影のある娘になってしまった」
自分の責任?
なぜ? 彼は被害者のはずだ。
だが、この人ならば責任が自分にあると考えるかもしれない。
誠実な人間には、よくあることだ。
「妻も調子が悪くなって……家の中がぎくしゃくしてしまった」
「……」
夏樹は黙ったまま、話に耳を傾けた。
「だけどね。茉莉香はすっかり明るくなった。それに合わせて妻も……君のおかげかな?」
「そんなことは……」
茉莉香自身が、努力を重ねてきたのだ。
自分の力などではない。
「君は魅力があるね。人から支持を得られる人間だ」
確かに振り返れば、常に誰かから支援を受けていた。
「頭が切れる上に行動力があり、情熱もある。……私はね、君のような人間が、成功していくのを何度も見てきた。君に初めて会った日、すぐにわかったよ」
「……」
「でもね。そういう人間が人を顧みないこともよくあることなんだ。別に始終気を配れと言っているわけじゃない。仕事に打ち込むことはいいことなんだ。茉莉香もそんな君に惹かれたんだろう」
「……」
「私たちが必要としているのは、成功する人間じゃない。娘を大切にしてくれる男だ。君も付き合っていれば、茉莉香が何を大切にしているかわかっているだろう?」
茉莉香の大切にしているもの。
人の間に流れる温かい空気のようなもの……。
「君には、もう少し時間が必要みたいだね」
自分は認められていないのだろうか?
だが、目の前の顔は穏やかな表情を浮かべている。
もう少し時間が必要。
彼はそう言っているのだ。
ならば、その日は近づいているのだろうか?
資格を取るまでには、まだ間がある。
それまでに自分は変われるのだろうか?
そのとき、
「ただいま。お酒買って来たわよ」
茉莉香と母親の声が玄関からする。
母娘が笑いさざめく声が、音楽のように響き渡る。
「ああ、早く来なさい。除夜の鐘を聞きながら飲もう」
茉莉香の父親が、明るく張りのある声で二人を呼んだ。
そうして四人は再び食卓を囲む。
新しい年が、もうすぐ訪れようとていた。
ここまで読んでいただきましてありがとうございました。
次回から、いろいろと展開がある……かもです。(^-^;