第5話 積み木の家の破壊者
夏樹が友人の家を訪れます。
夏樹がパリに戻ってから、新たに親交を深めた人物がいる。
パスカルだ。
夏樹は、交換留学中にパスカルのアシスタントを務めている。
年齢の近いせいか、パスカルは友だちのように接してきたが、夏樹は自分の立場を崩すことができなかった。
だが、アシスタントを外れてからは、プライベートでは親しく接することができるようになった。
今夜はパスカルの自宅へ招かれている。
「いらっしゃい。夏樹」
出迎えたのは、パスカルの妻のナタリーだ。
「今日は暑いわね。レモネードを用意するわ」
「ありがとう。ナタリー」
ナタリーは金髪に青い目に柔和な顔立ち。
パスカルより二つ下で、夏樹とはほとんど年が一緒だ
なんとなくパスカルに似ていて、二人が並ぶと兄妹のように見える。
いつも仲睦まじく、
「上手くいく夫婦というのは、似ているものかもしれない」
そんなことを考えた。
そんな夏樹の思考を破るものが現れる。
「ナチュキ!」
よちよち歩きの幼児が寄ってくる。
「コレット!」
夏樹が交換留学中に産まれたパスカルとナタリーの娘だ。
夏樹がコレットを抱き上げると、コレットが嬉しそうに歓声をあげる。
「コレットは夏樹が大好きね」
「うん。ナチュキのお嫁さんになるの」
コレットが、丸々とした手を夏樹の首に回しながら言った。
両親から受け継いだ金髪と青い瞳。
教会の壁に描かれた天使のようだと思う。
「まぁ。パパは?」
ナタリーがクスクスと笑う。
「うん。パパのお嫁さんにもなる」
ナタリーは夏樹の方へ向かうと、
「パスカルはもうすぐ帰るから、しばらく居間で待っていて」
ナタリーに案内され、ソファーに座って待っていると、コレットが、何やらごそごそと彼女の体には大きすぎる袋を持ってきた。
「ナチュキ! これ!」
コレットが持ってきたのは積み木だ。
夏樹と一緒に積み上げて、何やら家のようなものを作っては、壊すということを何度も繰り返しては、歓声をあげている。
「タァー!!」
コレットの声が室内に響く。
時折、思い出したように夏樹のそばに寄ってくると、抱きついてきた。
自分を見守る者の存在確認をしているのだろうか。
幼児特有の、甘い汗の匂いと乳臭さが漂う。
夏樹の子ども時代を思い起こさせる。
大人数の子どもが、一部屋で生活するときの匂い。
夏樹は幼いころ、それが当然のことだと思っていた。
だが成長するにすれ、普通ではないことを知った。
自分は決して、劣悪な環境で育ったわけではない。
親切な職員。清潔な住居。栄養のバランスのとれた食事。
確かに、規則は厳しく、それに不満を持って問題を起こしたことはある。だが、おおむね満足していた。
実の両親による悲惨な事件の報道を見聞きするたびに、自分は幸運だと思っていた。
だが……。同室の子どもたちの瞳。
何かを乞う眼差し。
それが心に焼き付き離れない。
目の前のコレットにはそれがなかった。
満ち足りた子ども。
全世界が自分のためにあると考える、幼児特有の万能感。
「タァッー!」
コレットの叫びが、夏樹を現実に引き戻す。
(子どもってのはありがたいもんだ)
否応なしに現実に引き戻される。
夏樹は、渋々、コレットとともに、何度目かの建築に付き合わされた。
やがて、パスカルが帰宅した。
「また、その遊びか……僕としては、複雑な気持ちだなぁ」
パスカルが目を細めて笑う。
「おかえりなさい」
ナタリーが迎える。
「おかえりなしゃい」
コレットも。
三人が抱き合う様子を夏樹がじっと見つめる。
絵に描いたような幸せな家族。
自分には縁がなかったものだ。
「お帰りなさい。おじゃましています」
パスカルに挨拶をする。
「やあ、夏樹。君は子どもと遊ぶのが上手いなぁ。それに辛抱強い」
パスカルはコレットの飽くなき破壊欲に辟易としているようだ
「俺、チビの扱いは慣れているんです」
「まぁ! ご兄弟がたくさんいたの?」
ナタリーの言葉を聞いたパスカルの表情が僅かに曇る。
夏樹はそれに気づいたが、
「俺……養護施設で育ったんです」
何事もなかったように告げるが、心に子ども時代の孤独が蘇る。
「……まぁ……」
ナタリーは一瞬、困惑したが、
「でも、夏樹はきっといいパパになれるわ」
優しく言った。
「俺?……俺は……まだ結婚もしてないし……」
ナタリーがそっと夏樹の手を握る。
温かい手だ。
表情は柔和で、優しく、温かい。
夏樹は、心が温かいものに包まれるのを感じる。
「きっと温かい家庭が築けるわ」
ナタリーが囁く。
その言葉の響きは、どこか茉莉香に似ているような気がした。
だが、温かい家庭を知らない自分に、それを作ることができるのだろうか?
不安がよぎる。
だが、
「そうだよ。そのために頑張っているんだろう? 恋人と早く結婚したいんだよね?」
パスカルの口調は穏やかで、心の曇りが晴れていくようだ。
「まぁ! そうなの!」
ナタリーの表情がぱっと輝く。
「ねぇ。ねぇ。聞かせてくれない? その方のお話!」
「そうだなぁ。僕も今まで聞いたことがないんだ。彼は自分の話をほとんどしないから」
パスカルがいたずらっぽい笑みを浮かべながら言った。
「お人形のようにかわいいヤマトナデシコらしいよ」
「まぁ!」
ナタリーがワクワクとしながら夏樹の話を待つ。
夏樹は突然、自分にスポットライトが当たったようで、窮屈な気持ちになった。
話すべきだろうか?
話さない方がいいのではないか?
迷うところだ。
「まず聞きたいのは“ナレソメ”だよね。二人の出会いだ」
パスカルが背中を押すように言う。
パリで出会った話はいい。
だが、les quatre saisonsでの再会の話はしていいものだろうか?
パスカルとナタリーが期待に胸を膨らませて、こちらを見ている。
それを裏切ることができない雰囲気だ。
果たして、どうやって話していけばいいものか……。
「出会ったのは、パリのカフェなんです。俺は財布を忘れて……」
茉莉香と初めて出会った日の思い出が蘇る。
それは思い出すたびに、夏樹の心をときめかせるのだ。
茉莉香の黒髪。大きな瞳を縁取る長い睫毛、ふわふわした襟のついた白いコート。
自分を見つめる優しい眼差し。
パスカルとナタリーが温かい目で自分を見守っている。
夏樹は気恥ずかしさの中で、次の言葉を探していた。
ここまで読んでいただきましてありがとうございました。