表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ぼくと執事と守りたい街  作者: たかと
29/33

過去

 龍館に帰ると、執事はぼくを担いだまま風呂場に連れて行った。一階には数十人が同時に入浴できそうな大浴場がある。強引に服を脱がされ、裸でそこの中に放り込まれた。そして執事に身体を洗われた。石鹸の泡が傷にしみた。


 入浴を終えた後、ぼくは応接間に呼ばれた。そこでりょうちゃんから治療を受けたあと、執事は突然しゃべりだした。


 それはあの事件の真相だった。


 おれがこの龍館の担当を任されたのは十五歳のときだった。当時高校に通う予定だったおれは、突然の通達に戸惑いを隠せなかった。もちろん自分の運命は知っていたし、過酷な修行も経験済みだった。いつかは自分も執事として働くという覚悟は決めていた。それは高校を三年間通った後になると思っていたが、その時は予想以上に早くにやってきた。


 その理由はおれの能力にあった。自分で言うのもなんだが、ほかのやつらに比べておれの能力は優秀で飛びぬけていた。協会には血筋によってわかれた多くの派閥があり、それぞれが自分の贔屓する者を押すような仕組みになっているが、そのときばかりはおれ一本でまとまったらしい。誰からも異論は出なかったと後で聞いた。これは珍しいことだ。龍館を任せられることは名誉であり、一族の誇りとなる。金銭的な利益も相当なものだ。それを放棄するというのは、簡単にできることではない。そこでは毎回他者を蹴落とすような醜い争いが繰り広げられると聞く。


 とにかくおれは高校をやめ、この地にすぐにやってきた。断わるという選択肢は最初からなかった。おれはそのために生きてきたし、周囲の期待も裏切ることはできない。


 この龍館は全国各地にあるそれの中でも、非常に手ごわい存在として知られていた。短期間で執事が死んでしまうという噂はおれの耳にも届いていた。その周囲では犯罪が絶えることはなく、町の住人は日々怯えて暮らしていた。前の執事が死んだのもカゲクイに精神を蝕まれたからで、それゆえにおれに対する町の住人の感情は期待と不安が混ざり合う複雑なものだった。


 執事が軽く死んでしまうということは、当然、お主人のなり手もいないということだ。普通の常識を持っていれば龍館に近づきたいとは思わないだろうし、最初から命を投げ出しにくるようなやつにはふさわしくはない。なんとしてもこの町を平和にしたい、と思いつつも、おれひとりでは正直不安だった。当時、十五歳。いくら厳しい修行に耐えたとはいえ、本番でその力が発揮できるかどうか、自信はなかった。


 あいつが現われたのは、そんな不安をまだ拭いきれていないころだった。龍館にきてひと月ほど経ったある日、普段は静かな玄関の扉がノック音を響かせた。お主人だ、ととっさに思った。なり手が少ないとは聞いていたが、訪問者の用件はそれ以外に思いつかなかった。扉を開けてみると、そこにはひとりの女が立っていた。髪の長い、物静かそうな女だった。


 ――あ、ぼくは執事の葛西といいます。お主人希望者の方ですよね。


 期待を込めて聞くと、女はそうよと答えた。おれはそれを聞き、ほっと胸を撫で下ろした。そして女を中へと招きいれた。


 女の身元はすぐに判明した。女は異能者の家系に属するものだったからだ。とはいえ、能力は持っていない。りょうがそうであるように、異能者の家系であるからといって、すべてのものが力を持つわけではない。


 そういった力のない者の人生は大きくわけて二つある。家とは縁を切って普通の人生を歩むか、それともお手伝いさんとして龍館にかかわり続けるかだ。女が選んだのは前者だった。


 女の名前は上月雪野といった。年齢は二十一歳。いまは家を離れ、大学に通っていた。それがなぜお主人になりたいのかと聞くと「一度離れてみて、龍館の大切さがわかったから」だと言う。


 女の過去に問題はなく、適性検査もすんなりと通過した。異能者と血の繋がりがあっても、肝心の力がなければお主人として機能することはできる。合格だと告げると、女は喜んでいた。


 そうして本格的にはじまった執事としての新たな生活は、順調な滑り出しを見せた。おれが就任してから犯罪はぐっと少なくなり、女がお主人になってからはさらに減った。平和という表現が大げさでないほどに町は安定し、健やかさを取り戻した。人々の顔には笑顔が浮かぶようになった。


 女の評判も悪くはなかった。犯罪を減らしたという功績だけではなく、個人として好かれている部分があった。龍館に閉じこもらずによく町へと繰り出し、地元の住人と交流を重ねていた。普段は決して愛想のいい人間ではなかったが、お手伝いさんの修行を経験した成果もあるのだろう。女は町の住人に好印象を与えた。


 このまま穏やかな毎日がつづくと、いつの日か思うようになっていた。女とすごす龍館での日々は、何事もなく過ぎていった。執事として淡々と雑務をこなし、女は女でお主人としての振る舞いを自覚していた。それは執事として生きることを義務付けられたおれにとって、これ以上のない至福の時間だった。


 それがいつしか油断につながったのかもしれない。十五という年齢はあまりにも若すぎた。年齢を言い訳にしたくはないが、もっと人生経験をつんでいればあのような事件は起こらなかったかもしれない。


 それはある事件から始まった。住宅地にある家の窓が、何者かによる投石によって割られたというものだった。殺人者と隣りあわせで生きてきたような町にとっては小さな事件だった。怪我をしたものはなく、誰かのいたずら程度だという認識が広がった。ほとんど話題にもならなかった。


 それでも、おれはその事件が妙に気になった。気にするほどのことではない、そう自分に言い聞かせても、しこりのようなものは消えなかった。その不安が的中したと知ったのは、その事件から二ヶ月も経ったあとのことだった。

 事件はその後も起こり続けた。遊び場の遊具が壊され、動物に対していたずらが行われた。車のバンパーが曲げられ、バイクの鏡が割られた。そういった小さな犯罪はやむどころか、徐々に増加傾向をみせていた。


 カゲクイの感染者が激減したとはいえ、「普通の犯罪」はこの町でも起こりえる。いくら小さな事件が頻発しても、町の住人は子供のいたずら程度に受け止めていた。普通の犯罪ならそれほど怯えることはない、窓ガラスが割れる程度ならかわいいもの、町の住人の危機感のなさが、かえっておれを苛立たせた。何か大きなことの前触れのような感じがしてならなかった。


 おれが一連の事件の犯人を上月だと疑い始めたのは、そのころからだった」


 執事はそこでいったん言葉を止めた。


「お主人が犯罪行為をする、と聞けばまさかと思うかもしれない。おれも当初はそう考えていた。お主人が邪悪な思想をもてばたちまちカゲクイの餌食となってしまう。上月は最初の事件があったときから何事もなく生活していたし、状態も正常であることは確認できた。


 それでも疑惑は消えなかった。その一つの根拠は事件が発生した日時と、上月の町へ出る時間が一致していたからだ。ただの偶然で済ませるには一致する回数が多すぎた。それだけではない。勘だ。なんとなく上月が怪しいとおれの勘が告げていた。


 上月をお主人として迎えて一年が過ぎていた。その間、上月に対して不信感を抱くような出来事はなかった。しかし、そう、なんとなく、こいつはどこか普通の人間とは違うんじゃないか、そういう疑いがおれの中に生まれていた。言葉で説明するのは難しい。どこかが違う、何かが違う、そんな疑惑とも言えない妙な引っ掛かりを感じていた。もちろん、そんな感情を出せば封印に影響してしまう。だからおれは表面上、そして内面でも平静であり続ける努力を忘れなかった。


 直接確認する勇気はなかった。だからおれは町へ出る上月の後をつけることにした。何度か繰り返しても、怪しい動きはなかった。おれはバカなことをしていると反省した。そうだ、そんなことはありえない、お主人である以上、犯罪に手を染めるようなまねはしない。おれの早とちりだった、こんなことはもうやめよう、そう決意した直後、町で一つの事件が起こった。


 殺人だった。


 上月が出かけている時間に、人が殺された。


 それはおれが上月に尾行をやめた次の日のことだった。まるでおれの尾行をあざ笑うかのように、人が殺された。龍館に帰ってきた上月はその情報を伝えても平然とした顔をしていたが、間違いないとおれはそのとき、確信した。

 こいつが殺したのだ、と。


 ――町で、人が殺されたそうです。

 ――そう。お主人としてもっとがんばらないといけないわね。


 おれはそれでも聞けなかった。お前が殺したのか、とどうしても確かめることができなかった。怖かった。もし認められたらどうすればいいのか、見当がつかなかった。お主人が殺人者となれば、大変な騒ぎになることは目に見えている。龍館の存在意義はもとより、一歩間違えば執事やメイドの否定にもつながりかねない。なによりも町の住人を混乱させてしまうことが恐ろしかった。


 おれは尾行を再開した。こうなったら毎日でも、上月の行動に目を光らせるしかない。どんなにつらくても、龍館を空にしてしまう時間が長くても、町の住人が殺されなければいい。上月が犯行を行う現場を取り押さえれば、それですべてが終わる。何日でも、何ヶ月でも、とにかく後をつけよう。そして証拠をつかむんだ。


 当時のおれは、ただただ、この一連の事件を終わらせたい一心だった。結果的に、そういった心に生じた隙が、あの両親の事件へと繋がってしまったのだろう。それはもしかすると、自分の甘さを覆い隠そうとするあせりからくるものだったのかもしれない。その後のことまで考えようとはしなかった。


 尾行の成果はすぐに現われた。再開した当日、狙ったかのように、上月は犯行に及んだ。


 それは雨が強く降る日だった。上月は昼食後に町に出かけた。買い物が好きな女だった。当初はそれほどでもなかったが、龍館での暮らしになれてくると、湯水のように金を使った。着もしない服やアクセサリーを買い込み、閉じられたままの雑誌が積みあがっていた。その日も買い物に行くといって家を出た。おれはもちろん信じなかった。


 雨が降り出したのは夕方からだった。上月は店に立ち寄るだけで買い物はせずに、手ぶらで町を歩いていた。辺りは完全に闇に包まれ、雨をはじき返すアスファルトに人影はなかった。上月は傘をささず、タクシーをさがすそぶりもなく、歩道をずぶぬれで歩いていた。


 その動きが急に変わったのは、バス停を通り過ぎようとしたときだった。一台のバスがそこにとまり、ひとりの女子高生が降り立った。判断が遅れた。物陰にかくれていたおれは、見つからないことを優先するばかり、町の住人を守るという本来の目的を見失っていた。いや、そこに至っても、まだおれは上月を信じようとしていたのかもしれない。


 上月は瞬間的に身を翻すと、傘をひろげたばかりの女子高生の背後を取った。その動きはすばやく、おれに物陰から飛び出す余裕すら与えなかった。女子高生の首に腕をまわし、上月は言った。


 ――常に周囲を気遣うお手伝いさんのスキルを甘くみたわね。


 完全に気づかれていた。予想していたとはいえ、おれは衝撃を隠せなかった。あらゆる技能を身につけたはずが、こうも簡単に欺かれたことに、衝撃を受けていた。


 ――何をするつもりですか。

 ――見てわからないの?


 おれは上月の目を見つめた。相手の真意を探るためではない。カゲクイに感染したものは、明らかに目の色が異なるからだ。


 上月はやはり、正常だった。そこに感染した兆候はなかった。


 ――無駄よ。わたしは感染者ではないの。


 おれは困惑した。この感情の揺れは、覆い隠すことはできなかった。


 ――一連の事件の犯人は、あなただったんですね。

 ――ええ、そうよ。

 ――この前の殺人も。

 ――気づいていたのでしょう。


 そう、改めて確認する必要などなかった。それはもうすでに確信していたことだ。


 ――なぜ、そんなことを。

 ――復讐よ。


 上月は言った。


 ――復讐?


 女子高生の表情が苦悶にゆがんでいる。首が締め付けられている。


 ――誰に対する、復讐ですか。

 ――一族に対する。


 そうして上月は自分の半生を語り始めた。


 わたしが生まれた上月家は、数ある異能者の家系の中でも際立つ存在だった。その昔にカゲヌシを倒した七英雄のひとりに連なる血筋のものとして、協会内部にも絶大な影響力を誇っていた。


 優秀な血統を現すかのように、上月家に生まれる子供には、才能に恵まれたものが多かった。そのほとんどが異能者であり、生まれながらの天才であると、胎児のころから宿命付けられていた。その中でわたしは、なんの力もなく生まれてきた普通の人間だった。普通が許されない上月では、それは異常なことだった。


 わたしには姉と妹がいた。二人とも異能者としての力を持っていた。姉とも妹とも関係は良好で、力がないことを恥じるわたしを、二人はいつも勇気付けてくれた。お手伝いさんも立派な仕事であると、そう言って励ましてくれた。


 姉と妹は立派なメイドを目指し、日夜修行に励んでいた。幼子のころからそう将来を定められていた二人には、他の道を選ぶ選択肢は最初からなかった。姉も妹も、使命感を強く持っていた。二人とも才能を広く認められ、特に姉にたいする期待は大きかったように思う。


 あるとき、その姉が死んだ。高校三年生の秋に自ら首をつった。自殺だった。


 当時のわたしは、愕然とした。あまりにも唐突な出来事だった。姉に自殺をするような兆候はなく、動機もつかめなかった。わたしにとって姉は頼れる血縁者で、何事にも動じない心の強さを持った人物として憧れてもいた。自殺にはあれほど縁遠い人もいない、と後から何度も思った。


 わたしは高校入学と同時に家を出た。姉の死をきっかけにお手伝いさんにも見切りをつけ、ひとりで生きていくことを心に誓った。異能者でないわたしに、上月家も執着はしなかった。縁を切った上月家からの支援は当然なく、バイトに精を出しながら日々を暮らしていた。幸いというべきか、上月家での英才教育のおかげで、成績は常に上位だった。お手伝いさんとしての修行の成果か、バイトも苦にならなかった。


 それなりに名門として知られる大学にストレートで進み、一般人としての生活は順調に推移していた。友人や彼氏もできた。遊びを覚え、姉のぶんまで幸せになろうと思って過ごしていた。しかしそれがまやかしの日常であることは薄々感づいていた。姉のことを想うたび、わたしの胸に去来する不思議な感覚の正体に、気づき始めていた。


 姉の死の真相は後日知った。それを教えてくれたのは妹だった。大学の生活も一年が経とうとしたところに、突然妹が訪ねてきた。家を出てからは連絡を完全に絶っていたので、久しぶりの再会だった。わたしはさっそく部屋に招きいれた。


 部屋に落ち着くと、妹はわたしに向かって一通の手紙を差し出した。その中には姉直筆の便箋が入っていた。妹は何も言わなかったが、これを読んでほしいという意思表示であることは明白だった。わたしは便箋に目を通した。


 そこに書かれていたのは、姉が自殺にいたるまでの経緯だった。姉らしい繊細な文字で手紙はつづられていた。内容自体は簡潔だった。淡々と、しかし、おさえられない感情がにじみ出るかのような文面がわたしの心を打った。


 自分が死を決意したのは恋をしたからだ、とそこには書いてあった。同じ高校に通う同級生の男の子の告白を受けて好きになり、しかし一族からは猛烈な反対を受けた。メイドの道は諦め、普通の人生を送りたい、という願いは聞き入れられることはなかった。だから死を選ぶ、という内容の文面だった。恋。わたしはその表現にとてつもない違和感を覚えた。姉には似つかわしくない言葉だと思えた。姉は非常に真面目な人で、メイドとして働くことを嘱望していた。メイドとして働くとなれば、恋は必然的にできなくなる。そんなことは昔からわかっていたはずで、いまさら恋路を邪魔された程度で死を選ぶとは思えなかった。


 妹は死ぬ直前に姉からこの手紙を渡されたと言う。メイドとして働く前に必ず目を通してほしいと言われ、ずっと机の奥に隠していたのだという。メイドになる前、というのを妹は直前だと理解したらしい。四年間、ずっと机にしまい続け、高校卒業を間近に控えて手紙を開いたらしい。


 なぜこの手紙を見せにきたのか、とわたしは聞いた。妹は自信がなくなったと答えた。この手紙を見た途端、それまで当然と考えていた道が本当に正しいものだったのかわからなくなった。形のないもやもやとした不安が急にこみ上げ、全身をしばりつけている。恋をしているわけでもないのに、この手紙にはなぜか共感できてしまう。


 妹はその後、姉と同じように自殺した。その訃報をある人から聞いたとき、わたしはようやく気づいた。思い出した、というべきかも知れない。姉が死を選んだ原因がどこにあったのかを。


 最初に言ったように、上月家は異能者の中でも名門と認識されている。英雄の血筋としてのプライドがある。それを廃らせるわけにはいかないというプレッシャーも同時に抱えている。天性の力を周囲に見せつけ、若くして龍館を任せられなければならない。その強迫観念を共有した大人たちがあることを思いついた。


 メイドや執事が優秀かそうでないかを線引きするとき、重要な要素としてあげられるものは何? それは結局のところ、心の強さに収束する。確かに異能者本来の力は重要。カゲクイを見つけ、退治し、その精神攻撃に立ち向かえる強さは、才能によって大きく左右される。しかし、才能だけですべてが決まるわけではないのも事実。心が軟弱であればそこにつけいる隙を与えてしまう。攻撃や防御能力が高くても、それを効果的に発揮させなければ意味がない。


 では、そもそも心がなければ良いのではないか、一族の人間はあるときそう考えた。心を壊してさえしまえば、異能者としての完成品を作り出せるのではないか。カゲクイが精神寄生体である以上、心の動揺がなければ、間違いは起こりえず、龍館も正しく機能するのでは、と。名門を維持するための結論がそれだった。


 心を壊す。


 具体的にどんなことをするのか、それはわたしの口からはとても言えない。人権や尊厳を無視した行為であるとしか、表現のしようがない。その方法を何も分らない子供の頃から施すことにより、上月家は完璧な異能者を作り出してきた。そういう非道なことを、名誉のためだけに上月家は行っていた。


 姉の死の直後、一族の人間がこぞって姉を批判していたことを思い出す。そういえばその中には、男に現を抜かしたなんて言葉があったかもしれない。上月家の本分を忘れた最低の人間という烙印を押され、まともな葬儀もあげてもらえなかった。


 しかしそれは間違いだ。姉はまぎれもなく心の強い人間で、上月の将来を誰よりも心配していた。だからこそ、ああいう選択をしたのだということを、一族の人間は誰も知ろうとはしなかった。


 姉は真の天才だった、とわたしは確信している。だからこそ死を選ぶという決断をしたのだと理解できる。何も知らない子供の頃から教育を施され、踏み砕かれたはずの心は、決して死んではいなかったのだ。瀕死の状態であっても、完全に息が絶えたわけではなかった。好きだと言ってくれた男の子の一言によって、強靭な魂が本来あるべき人としての感情を呼び覚まし、忘れかけていた自分を取り戻した。それは真の心の強さを持っていたからにほかならない。自ら命を絶つことにより、姉はそれを証明してみせたのだ。反抗する心があることを一族に示し、明確な態度で姉妹の目を覚まさせようとした。


 おそらく普通の環境で育っていたならば、姉は自分の運命を素直に受けれたはずだ。たとえ想いを寄せる人物がいたとしても、町の平和を守るために自分の欲望を切り捨てた、姉はそういう本質を持った人だった。あのような教育を受けなければ、姉は最高のメイドとして語り継がれたかもしれない。無理やり自我をおさえつけようとしたからこそ反発が生まれ、悲劇を生んだ。


 ――それでも、君が人を殺す理由にはならないじゃないか。

 ――わたしも同じだったということ。


 わたしも結局のところ、上月家の人間だった。姉や妹と同じように、幼い頃、そういう口にはできない教育を受けていた。その記憶がそのとき、ふいに甦った。わたしに能力がないとわかっていても、一族は諦め切れなかった。隠れた能力に期待し、心を壊す実験をした。


 うすうすは勘付いていた。確かにわたしには友人も恋人もいた。しかしそれは自分が普通であることを証明するための存在でしかなかった。彼らに対する愛情や友情が偽りのものであることは、誰よりも自分が知っていた。そういう演技をするための道具であって、心の底から望んで得たものではない。時折胸に去来する空虚感とでも呼ぶべき絶望の正体は、姉の手紙を読んでから確信に変わった。


 わたしの心も壊れていた。姉と妹が死に、ようやくその事実に気づくことができた。強い人、と友人によく言われたわたしは、ただの機械でしかなかった。上月家によって生み出された中途半端なポンコツなロボットがわたしの正体だった。


 中途半端なだけに、憎い、という感情をかすかに感じ取ることができた。いや、それが本当に憎さからくるものかどうかはわからない。おそらく違う。あくまでそれらしき感情に当てはめているに過ぎない。ではこの感情の正体は? 普通の社会ではもう生きられないという自覚が、誰にも手を出すことのできない本能が、わたしに生きる意味を教えた。


 一族に復讐することが、最後に人間らしくいられる行為だった。これまでの自分を否定しなければ、どの道次には進めなかった。では、具体的にどうすればいい。直接マスコミに発表してもつぶされるだけ。


 結論はすぐに出た。龍館に対する信頼を失墜させればいい。そもそものシステムを否定すれば、一族は生きていくすべを失う。自分たちのようにひどい扱いを受ける子供もいなくなる。


 龍館やお主人はこの国にとって聖域にほかならない。それがなければこの国は一気に混乱に包まれ、国家は崩壊する。それだけに協会は絶大な権力を握っていると言われている。その権力の傘によって利益を受けるものたちはみな同罪だった。どこの一族で似たような行為が行われているかわからない。であれば、すべてつぶすしかない。


 お主人が人を殺せばどうなるだろう。これほどスキャンダルな話題はない。カゲクイに感染した一度きりならともかく、殺人者として龍館で生活していた事実が明らかになれば、さすがにもみ消すことはできない。これが最適な方法だ。


 ――あなたの勘は冴えていた。並みの執事であれば、先入観が邪魔をしてわたしを疑うようなことはなかったはずよ。


 上月は力を緩めようとはしなかった。女子高生の顔は青ざめ、口はだらりと開いていた。


 躊躇っている暇はなかった。それでもおれの脚は動かなかった。そんなおれを嘲るように上月は笑った。


 ――あなたの能力に敬意を表して十秒あげるわ。その間に決断しなさい。この十秒の間ならわたしは一切抵抗しない。でも、十秒後には確実にこの子の命が失われる。どちらを選ぶかは、あなたしだいよ。


 上月はカウントダウンをはじめた。十、九、八。


 ――そんなの、そんなのできっこないよ!


 ――七、六、五。


 おれの目には知らず涙が溢れていた。それがどんな理由で出たものかはわからない。上月の過去に同情したのか、苦しむ女子高生を哀れに思ったのか、極限の選択によって強いられた緊張のせいか、そのどれであったとしても、最後におれの意識を支配したのは、叩き込まれた執事としての責任感だけだった。四、三、二。無意識に身体は動き、一気に上月との距離を詰めたおれは、次の瞬間にはその細い首をつかんでいた。片方の腕で倒れる女子高生を抱きとめたまま、上月の首を締め上げた。上月は宣言どおり一切抵抗しなかった。全身から力が抜けるのはあっという間だった。


 ――ありがとう。


 その後、事件はカゲクイに感染したお主人の暴走として片付けられ、真相は闇の中に葬り去られた。女子高生も当時の記憶はなく、声が聞こえるほどの近くに人もいなかった。おれはひとりの犠牲者も出さずに事件を解決したとして英雄扱いを受けることとなった。


「あの日の後悔は、いまも消えてなくならない」


 と執事は続けた。


「あの状況で、あいつを殺すことは避けられない判断だった。一度感染者として発狂すれば正常に戻ることはない。周囲にそういう認識がある以上、生かすことは町の人間が許さない。だがもし、最初の段階で気づくことができたなら、いや、気づいた時点ではっきりと指摘ができていれば、ああいった結末にはならなかったかもしれない。いたずら程度の段階なら、日常に引き返すことも可能だったのではないか、おれにはそう思えてならなかった。おれがもっと厳しく接していれば、厳しく追及していれば、最悪の事態は回避されたのではないか。いまでもその後悔は消えてなくならない。あいつは、もしかすると、必死に助けを求めていたのではないか、そう感じるからだ。殺人を犯す前にとめてほしかった、そういう願望がおれに疑惑を抱かせたのではないか、おれにはどうしても、あいつが異常者のようには見えなかった」


 執事は立ち上がり、最後にこう言って部屋を後にした。


「これがあの事件の真相だ。龍館の封印が弱まったのは、上月という女の過去に、おれが圧倒されてしまったからだ。その結果カゲクイが発生し、貴様の両親が死ぬことになった。これを聞いてもお主人でいたいと思うならそうしろ。出て行くというなら、それも構わない。三日やろう。それまでに決断するといい

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ