裏切り
服をぬらしたまま町に帰った。夏という季節のせいか、それなりに乾いて目立つこともなかったので、電車にもすんなり乗れた。赤くはれた頬のほうがよっぽど目を引いたかもしれない。凛はなぜかぼくの隣に席をとった。
駅につくと、凛に袖を引かれた。ぼくをどこかへ連れて行こうとした。気迫みたいなものが感じられて、抵抗しても無駄だと悟った。
凛が向かったのは一之瀬家だった。進む方角から途中で気づいていた。目的は不明。ぼくはあえて何も言わずに従った。
「着なさいよ」
家の中に入るとぼくがついこの間まで使っていた部屋につれていかれ、そこで凛に服を手渡された。いつも着ていたTシャツとジーンズだった。
「ほら、早く」
「わ、わかったよ」
いまさら理由を聞く気にもなれなかった。一度濡れた服には違和感があったし、どうせ追い出される運命なら律儀に龍館の規則を守る必要もない。凛に部屋を出てもらい、濡れた服を脱いでそれに着替えた。その途中で扉が開いた。
「あ、開けるなよっ」
「お兄ちゃん?」
慌ててジーンズを引き上げて声のほうを見る。廊下に立っていたのは凛の妹、一之瀬遥だった。
「あ、はーちゃん」
「帰ってきたんだ」
満面の笑顔でとことこと駆け寄ってきたはーちゃん。
「ねえおにいちゃん、いままでどこいってたの?」
淀みのないくりくりした目で見上げられ、ぼくは言葉を失った。はーちゃんは姉の凛とは違って、ぼくに対する嫌悪感はない。
「ねえ、聞いてる?」
「あ、うん、ちょっとね」
「ねえ、ご本読んでくれる?」
「本?」
「うん。昨日かってもらったの。今もって来るね」
「だめよ」
部屋を出て行こうとしたはーちゃんの前に立ちふさがったのは凛だった。
「これからお兄ちゃんと出かけてくるの。遥はうちでお留守番、いいね」
「いや」
はーちゃんは戻ってくると、ぼくの脚に抱きついた。
「お兄ちゃん、はーちゃんと遊ぶの」
「いいから。今日はお姉ちゃんに貸してちょうだい。どうせお兄ちゃんはすぐに戻ってくるんだから」
「え」
「ほんと?」
「ほんとよ」
と答えたのは凛だ。
「だから後で遊んでもらいなさい。今日はお姉ちゃんと最初に約束があるの」
何を言ってるんだよ、と聞きたいところをぼくは「うん」とうなずくことしかできなかった。はーちゃんの目は輝いていて、どんな返事を期待しているかは明らかだった。
そういうわけで凛に外へと連れ出されたぼくは、町へとつれていかれた。ここで言う町とはにぎやかな中心部のことだ。
そこでぼくは様々な体験をした。ファーストフードで食事をしたり、カラオケで歌を歌ったり、携帯電話や服の店に行ったりした。どれもはじめての経験だった。ハンバーガーを食べたのも、カラオケで苦手な歌を歌ったのも、自分の着る服を自分で選んだのも、これまでにしたことがなかった。
ぼくは戸惑い通しだった。凛の目的はわからないし、説明もされない。ただその後についていくのが精一杯で、凛の指示に従って行動するばかりだった。
凛はずっと無愛想で、命令口調でぼくに接していた。これを食べなさいとか、これを歌いなさいとか、これを買いなさいとか、こっちの意思なんかまったく確認しなかった。お金を払うのもぼくの役目だ。自分の分ならともかく、凛のぶんまで買わされた。しかも結構高い服で、ぼくとしてはかなり不満だった。それでも逆らうことができないのはこれまで出来上がった序列なのかもしれない。染み付いた習性はなかなか消えない。なんてわがままなんだ、と思いつつぼくは言うがままにお金を支払った。
いろいろなお店を回っているうちに、そういった不満はいつのまにか消えていた。最初は嫌々と付き合っていたのに、気づくと周囲を見る余裕ができていた。町を歩く人は様々な表情を浮かべていた。なんだかふと不思議な感情がわきあがった。それはいままでに感じたことのない未知の感情だった。それが楽しい、という感情であることに気づいたのは、ずいぶん経ってからのことだった。
「ねえ、これからどうすんのよ」
凛にそんなことを聞かれたのは帰り道でのことだった。駅に自転車を取りに行った後、龍館への道を歩いている。一之瀬家の方向とは違うのに、なぜか凛もついてきていた。あ、そういえばワイシャツなんかを一之瀬家に置き忘れていた、とふと思い出す。
「龍館に帰るんだけど」
「そうじゃなくてっ」
凛は自転車のハンドルに手を置いた。
「あんたがこれからどこで暮らすのかって聞いてんのよ」
「どこって」
出かける前にはーちゃんに対する言葉をぼくは思い出した。凛はぼくが一之瀬家に帰るみたいなことを言っていた。あれはどういう意味なのだろうと、いまさらながらに考えてみる。あれほどぼくを嫌い、家から追い出そうとした凛がぼくの帰りを願っているとはとても思えない。あの発言はきっと、はーちゃんを納得させるためのものだったのだろう。はーちゃんは一応、ぼくになついていたから。
「凛には関係ないよ」
「龍館から追い出されるかもしれないんでしょ」
「どうだっていいだろ」
「帰ってくればいいじゃない」
ぼくが前を向いて二、三歩進んだとき、凛がそんなことを言った。
「そんなんだったら、うちに帰ってくればいいじゃない」
ぼくは足をとめ、後方にいる凛を振り返った。
すでに日は暮れている。辺りは暗く、電灯に照らされた凛の姿が浮かび上がっている。ここは住宅街を離れた県道だ。ほとんど車が通らないのに、立派な道路がずっとのびている。今歩いているのは道路の中央。片側には斜面の上の高台に住宅街があり、もう一方には野原が広がっている。その野原の向こうにはうっすらと雑木林が見え、それが段々と濃くなって森になる。その森には龍館が建っている。
「そろそろ帰ったほうがいいよ」
ぼくは凛の言葉を無視した。
「もうずいぶん暗いし、この辺りも危険だから」
「ちょっと、人の話聞いてんのっ」
「じゃ」
一刻も早く立ち去りたい気分だった。ぼくはサドルにまたがった。ペダルを踏んでこぎだそうとすると、後ろから首根っこをつかまれた。そのまま自転車から引き摺り下ろされ、アスファルトの上に尻餅をつく。自転車が横向きに倒れた。
「だから、なんでそんなに乱暴なんだよ!」
ぼくは道路に座ったまま腰の辺りをさすり、凛を批判的な目つきで睨んだ。
「ママがあんたのこと、あれほど想ってるとは思わなかった」
凛はぼくを見下ろしている。
「むしろ逆だと思っていた。突然知らない男を子供だと押し付けられて、迷惑してるんだろうと思っていた。だってこれまでにあんたを特別扱いなんてしてこなかったし、なにかと厳しく接していたから、あんたのこと嫌いなんだって思ってた。あたしと同じように家族とは認められないんだと、そう思い込んでいた」
「……」
「でも違った。あんたが家を出て行ったとき、ママはすごく取り乱した。誕生会に遅れて帰ってきても家族の行事に参加しなくても何も言わなかったママが、そのときは激しく取り乱した。父さんがいくらなだめても聞く耳を持たなかった。すごく意外だった。龍館からの電話をとったのはあたしで、あんたがお主人になるために家を出て行ったことを伝えても、ママはたぶん「ふーん」くらいで済ませると思っていた。これで家計が楽になるくらいのことも言うんじゃないかと心の中では想像していた。凍りついたママの表情を見たとき、あたしは自分の間違いにようやく気づいた」
「……」
「誰よりもあんたのことを心配していたのはママだった。それに気づいたとき、あたしはまず不愉快に思った。あんたは家族じゃないし、家族になろうとする努力もしなかった。そんなやつのために心を痛めるママが許せなかったし、それ以上にうちを混乱させるあんたが許せなかった。ママが事故に遭ってからはなおさらあんたのことが嫌いになった」
「お前は、その前からずっとぼくのことを嫌ってたじゃないか」
ぼくは立ち上がってそう言った。自転車は倒れたままだ。
「そうよ。ずっとあんたのこと嫌いだった。うちに来たその日からなんとなく気に入らなかった。実際に暗くてほとんどしゃべらないし、自分の気持ちをはっきり言葉にできないタイプってあたし苦手なの。なんだよこいつっていらつくことばかりだった。でもそれってあんたにも責任があるんじゃないの。あんたのほうから歩み寄ったことなんて一度もないじゃない。こういう言い方すると自分にはつらい過去があるからなんていうかもしれないけど、うちにお世話になると決断したのはあんたなんでしょ。だったらあんたも我慢すべきところがあるはずでしょ。そういう努力、あんたしたことあるの」
凛の言い方は癇に障る。けど、そこには事実も含まれている。
「入院して数日経ったある日、あたしはママに病室に呼ばれた。それまでも家族で毎日お見舞いに行ってたけど、その日はあたしひとりだけが呼ばれた。ベッドの横の椅子に座ってもなかなか切り出そうとしないママがしばらくして言ったのは謝罪の言葉だった。あたしに対して、ママは「ごめんなさい」って言って必死に上半身を折り曲げた。あたしはびっくりしたと同時に涙が出た。どうしてママが頭を下げたのか、その理由が一瞬でわかったから。そしてあたしがそれまでこだわっていたことが、本当につまらないことだったと気づかされたから。そしてもう一つ、わかったことがある。心の底から謝るってことが、どんな言葉よりも意味をもつ場合があるってことを」
そう言うと、凛は一度唇をきっと結んでから続けた。
「ごめん」
「え?」
「あたしも悪かったわよ。あんたに当たってばかりで、悪いことしたと思っている。自分のことばかり押し付けて、あんたの気持ちとかは考えなかった。だから、ごめん」
「いまなんて言ったの?」
凛がぼくを平手でぶった。
「この距離で聞こえないわけないでしょ!」
「いやだって、本当に聞き間違えかと思ったから」
ぼくは頬をさすりながら言った。言葉は確かに聞こえていたけれど、あまりにも唐突だったし、凛の顔もなんだか険しいから完全に理解するのに時間がかかった。凛は照れくさそうにそっぽを向いていて、それを見るとおかしくて自然と頬が緩んだ。
「何笑ってんのよ」
「あ、ごめん」
ついそう謝ると、ごめんという言葉はためらいなく続けることができた。こうして凛の前で笑ったのははじめてで、それだけでなんだ胸がすっきりして、これまでのわだかまりがすっと消えた気がする。
「うん、ごめん」
「ちょっと、いまのがまさかさっきのあたしに対する返事じゃないでしょうね」
「そうだけど?」
「ふざけてんの。それで納得すると思ったら大間違いよ」
ぼくは一度澄んだ空気を思い切り吸って気分を落ち着けた。簡単に謝ることは許さないと凛は言ってる。それだけいろいろ考えたということなのだと思う。ぼくも素直に自分の気持ちを伝えないといけない。
ぼくは目を閉じて過去を振り返った。
そして凛に正直な気持ちを、なるべくわかりやすく伝えた。両親が殺されたときの気持ち、施設での暮らしやおじさんおばさんとの出会い、佐伯選手にどんな影響を受けたか、一之瀬家で暮らしていたときどんなことを考えていたか、龍館での毎日をどんなふうに過ごしているかを語った。
「そ、それなら、まあ、うん」
ぼくの話を聞き終えると、凛は頬を赤くしてまたそっぽを向いた。しばらくどこかを見続け、やがてつぶやくようにして言った。
「で、どうすんのよ。帰ってくるわけ」
「いいの?」
「別に、あんたが決めればいいじゃない」
一之瀬家での暮らしがふいに頭に浮かんだ。それは以前の記憶ではなかった。ぼくという存在が自然に溶け込んでいる、まったく新しい姿だった。穏やかな時間を共有できる、どこにでもいるような家族の姿。ぼくがたぶん、ずっと追い求めてきたのは、そんな普通さだった。
ぼくもあの家族の一員になることができる、失った家族を取り戻すことができる、そんな理想を現実として捉えたとき、龍館で過ごした日々が強烈な印象を伴ってぼくの頭を支配した。執事やりょうちゃん、それに町の人たちの顔が浮かんだ。
ぼくは首を振った。本当の家族が前にすれば、それらは些細なことでしかない。執事はぼくを追い出そうとしているし、りょうちゃんはほかでも働ける。町の人たちだって仕方がないとわかってくれる。
「まあ、時間をかけて考えればいいわよ。うちがなくなるわけじゃないし」
「そうだね」
そう言いながらぼくは龍館のほうをちらりと見た。
「お主人にまだ未練がありそうね」
「そんなことないよ」
うん、そんなことない。執事はぼくを認めないと言ったんだ。協会側がどう言おうと、ぼくをクビにすることには変わらない。龍館にはどうせ長くはいれない。無理なものにしがみついていても、意味はない。
「もう、すっきりしてるし」
「そう。じゃあママのお見舞いも行くのね」
「一緒に?」
「あ、あんたの好きにすればいいじゃない」
「うん、わかった。まずはひとりで行ってみる」
「そ、そう」
「じゃあ、はい」
そう言ってぼくは手を差し出した。凛はきょとんとした顔でぼくを見返した。
「何よ、この手は」
「何って、握手だけど」
「はあ? あんた何恥ずかしいこと言ってんのよ。この年で仲直りの握手なんて、そんなことできるわけないでしょ!」
「年齢は関係ないと思うけど」
「うっさい。できないったらできないのよ!」
ぼくは無理強いせずに手を引っ込めた。
「じゃあ、もう帰る」
「ここからひとりで? 送ってく?」
「何馬鹿なこと言ってんのよ」
「でも危険だよ」
「うっさい。あんな森の中にひとりでいくあんたのほうがよっぽど危険でしょうがっ」
「龍館の周りに変な人はいないよ」
「慣れっておそろしいわね。あんな不気味な洋館、いくら地元を守っているとはいっても近づきたいとは普通思わないわよ」
「とにかく一緒に帰るよ。ワイシャツとか置いたままだし、はーちゃんにも挨拶しておきたいから」
「そ、そう」
「それに、自転車ならすぐに帰れるからね。時間もそんなに気にしなくていいよ」
「じゃあ、そのままうちに住んだら」
凛がさらりとそんなことを言った。ぼくはその発言を意外なものには思わずに、真剣に検討することができた。基本的にお主人というのは二十四時間以上龍館をあけてはいけないことになっている。ここで一之瀬家に戻れば、いまの立場ではもう、お主人は完全に失格だ。
「そっか、そうだよね」
重大な決断になるはずなのに、あっさりとそう答えていた。
「わかった。そうするよ」
「いやいやいや、お見事」
来た道を凛とともに引き返そうとしたとき、後ろの闇の奥から人の声とともに拍手が響いた。それは男の声で、龍館への道のほうからした。目を凝らすと、電柱の陰から人影が現われた。大きな人影がのっそりと光の下に現われる。
それはアキラだった。
「さすがだな、凛。お前、役者の才能あるんじゃねえか?」
アキラはこちらに歩いてくる。
「まさか、こういう手に打ってくるとわな」
「あ、あんた、どうしてここに」
「おまえんち寄ったらよ、悠太くんと出かけたなんて言うじゃねえか。だから龍館とかいうところにでもいってんのかと思ったんだよ。で、その帰りってわけだ」
「そ、そうなの」
なんだか凛はそわそわしている。ぼくが怯えるならともかく、アキラの彼女である凛は喜ぶべきじゃないのか、と思った。
「それにしても、おめでとう、悠太くん」
アキラはぼくのそばにやってきて、肩に腕をまわした。黒くて太い腕はダンベルのようにずしりと重い。
「一之瀬家に復帰するようで、おれからもお祝いさせてもらうよ」
「う、うん」
アキラはぼくと凛のやりとりをすべて聞いていたようだ。電柱の陰にでも隠れていたのだろう。
「それで凛、賭けはお前の勝ちっていうことだよな」
アキラは腕をまわしたまま言った。密着していると香水のにおいが鼻をつく。
凛の表情が険しくなった。
「アキラっ」
「おいおい、どうしたよ。そんな大きな声出さなくても聞こえるっつうの。ほら、いくらだっけ」
アキラはぼくから身体を離し、悪趣味な財布を取り出した。そこからお札を二枚ほど抜いた。
「こんくらいでいいか? いくら賭けたかは忘れちまってよ」
「賭け?」
そう聞くぼくに、アキラはにたりと笑った。
「おや、悠太くんはご存知ないのかな」
「もういい、帰るよ」
凛がぼくの腕をとって引っ張っていこうとした。
ぼくは一歩も動かなかった。
アキのほうに顔を向けた。
彫りの深い顔立ちが、光に浮かび上がっている。
「じゃあ教えてあげよう。おれと凛はさ、賭けをしてたんだよ。どちらが早く悠太くんをお主人から引きずりおろすことができるかで」
「――え」
「まあ、おれはそんなに乗り気じゃなかったけどさ、凛はどうしてもって言うわけだ。よっぽど腹に据えかねたのか、生意気な弟で遊んでやろうと思ったのかわからねえけどな、とにかく、賭けをしたことは間違いない」
「本当なの?」
ぼくは凛に顔を向けた。凛はしばらくうつむいたあと、
「ほんと」
そう言ってうなずいた。その返事を、ぼくは冷静に受け止めることができた。
ついこの前まで冷たかった凛が、急に態度を改めることのほうがおかしい。ぼくはこの四年間で受けた仕打ちを、一気に思い出していた。一之瀬家でも学校でも生きた心地がしなかった。そうだ、凛が突然やさしくなるなんてことはない。そこには打算とか何かがあるに決まってる。
「へえ、そんなにお金がほしかったんだ」
「お金っていうより、そのときは、あんたが憎かったのよ。勝手に家を出て行って家族を混乱させたあんたが、まるで英雄みたいに扱われることが納得いかなかった。どうにかしてやめさせたいと思って、ついそんな賭けにのったの。でも、いまは違う。後悔している」
「いまは違う?」
ぼくは鼻で笑った。しおらしく語る凛の態度は下手な演技にしか見えなかった。
「人間、そんな簡単に変わらないよ」
ぼくは自転車の向きを変えた。
「あんた、どこ行くのよ!」
「うちに帰るんだよ!」
「それって、いったいどこのうちよ!」
どこの? ぼくはいま、どこに帰ろうとしているんだ。龍館? 一之瀬家? どちらも違う。どちらにも、ぼくの居場所はない。どちらにも帰ることはできない。ぼくは自転車のハンドルを握ったまま、そこに立ち尽くした。
「あんた、うちに、一之瀬のうちに帰ってくるんでしょ。さっきそう言ったじゃない!」
涙目でそう訴える凛。ぼくはその涙にたまらなく心をかき乱された。つい片手で凛を突き飛ばしてしまった。
「――っ」
凛は転倒して道路に尻餅をついた。ぼくの脳裏に一瞬、入院するおばさんの映像が浮かんだ。病院なんかに一度も行ったことがないのに。ぼくは激しく頭を振って、自転車に飛び乗ろうとした。アキラがそれを阻止した。
「なあ弟くん、お姉ちゃんをいじめちゃだめだろう」
自転車のサドルに手を置いてアキラがそう言い、凄むような表情をした。
「つうか、人の彼女に何してくれてんだよ」
これまでと違って、アキラは全然怖くなかった。ぼくの神経は麻痺していた。
「どけよ」
「ああ?」
「どけって言ってるんだよ!」
「お前、自分で何言ってんのかわかるのか」
「どけろといったんだ」
アキラが片手を突き出した。手の平で胸を押され、ぼくはよろめいた。
「調子に乗ってんじゃねえよ!」
倒れる寸前で胸倉をつかまれ、ぼくの身体が宙に浮かんだ。アキラは片手でぼくを持ち上げている。
「腹立つんだよ、てめえの顔見てるとよ、てめえの顔見てるだけでいらつくんだよ!」
「手を離せよ」
次の瞬間、ぼくの身体は吹き飛んでいた。アキラのパンチは凛のそれとは比べ物にならない威力をもっていた。顎の骨が砕け散るような激痛を味わいながら、ぼくは道路をごろごろと転がった。
ぼくはすぐに立ち上がった。アキラには眼もくれず、自転車に歩み寄ろうとした。
自転車にはなかなかたどり着けなかった。アキラの暴力が執拗にぼくを襲った。顔や腹をなぐられ、倒れると今度は足で踏みつけられた。何度立ち上がっても同じだった。やがてどこを殴られているのかすらもわからなくなり、感覚は麻痺していった。凛の悲鳴を遠くに聞いたような気がした。
意識がかすんでいく中で、それでもぼくの脚はどこかへ向かおうとしていた。どんなに殴られても、その意識だけは消えることがなかった。その目的地がどこなのかはわからない。ただ、向かわなければならないという焦りがぼくの背中を押していた。
ぼくは歩いていた。アキラの暴力はいつしかやんでいた。目の前は暗闇で、それが夜の暗さなのか視界が狭まったからなのか、どちらとも判断がつかない。右足と左足を交互に進め、地面を踏みしめている感覚にぼくは勇気付けられた。
どこまでも歩いていけそうな気がした。身体は軽く、ずっと走り続けても平気そうだった。駆け出そうとしたとき、突然全身から力が抜けた。足首をひねるようにして道路に崩れ落ちた。すぐに立ち上がった。数歩歩いただけでまた倒れた。アスファルトに手をつき、足を持ち上げた。人でも背負ってるかのように身体は重かった。そのつらさに耐え切れず、何度も地面に顔をつけた。それでも前へ進むことは諦めなかった。ぼくは何度でも立ち上がり、少し進んで倒れるというのを繰り返していた。
「いまが何時かわかっているのか」
ふいに前方に現われた障害物に顔をぶつけると同時に、そんな声が耳に届いた。それが執事のものであると、ぼくにはすぐにわかった。
執事の端正な顔を目にしたとたん、失われていた感覚を一気に取り戻した。全身に痛みを感じると同時に、心は複雑な感情に満たされた。
「何しに来たのさ」
執事はぼくをじっと見下ろしていた。
「いつまで出歩いているつもりだ。遅くとも九時前には帰宅しろといっておいたはずだ」
「そんなのこっちの勝手だよ。どうせ追い出されるなら、規則なんて守る必要ないじゃないか」
「……」
「邪魔だよ、そこ」
ぼくは執事の横を通り抜けようとした。
執事はぼくの肩をつかんだ。
「どこへ行くつもりだ」
「どこだっていいじゃないか。きみには関係ないよ」
「途中で仕事を投げ出すつもりか」
「きみはぼくを不要だといったじゃないか。ぼくから帰るところを奪ったじゃないか!」
執事が眉を寄せた。
「いいよ。もうぼくはお主人をやめる。だから、かかわらないでよ」
僕は歩きたかった。どこまでもただ歩き続けたかった。それには執事が邪魔だった。
「貴様の意見を聞いてる暇はない」
執事はわずかにかがむと、ぼくの腹部に腕をまわした。執事の身体を強引にわきにどけて歩き出そうとしていたぼくは気づくと肩に乗せられていた。そうしてかつぎあげられたぼくは意に反して龍館に向かうことになった。




