始まりの日
ぼくはその建物を見てあっけにとられていた。三階建ての古い洋館が目の前にそびえていて、その蔦を這わせた外観はまるで手の込んだお化け屋敷だった。もちろんここはテーマーパークの敷地内ではないし、そもそも人が住めるような場所でもない。
ぼくがいま立っているのは深い森の中だった。雨が激しく降っていて、無数の葉が水滴を散らしている。普段立ち寄る機会のない町外れにある森に入り、唯一の道、舗装もされていない土の地面が丸出しの獣道みたいな細い道を通ると、ふいに道が途切れてこの洋館が姿を見せた。緑の木々に囲まれた広場の中、高い鉄柵の向こうにたたずむ不気味な洋館。半分くらいは疑いながらここまでやってきたぼくは驚くと同時にほっとしてもいた。
――ほんとにあったんだ。
しばらく立ち尽くして気分が落ち着くと、安堵のほうが胸を埋め尽くした。疑う気持も強かったから、とにかく嘘じゃなくてよかったというのが率直な感想だった。薄暗い森の中にいるという恐怖もまだ少しあったけれど、期待のほうが勝っていた。なによりいまさら逃げ出すわけにもいかないという事情がぼくの背中を押した。帰るべき場所はもうない。
よし、行こう。そう決意を固めて歩を進めた。コンクリートを土台にした鉄柵の間にあるアーチ状の扉に鍵はかけられていなかった。甲高い音を出す門を抜けると、それなりの広さのある前庭に出る。石畳の道が洋館の扉まで伸びていて、ぼくはそこを慎重に歩く。
洋館の扉にはインターホンらしきものはついていなくて、丸いわっかのノッカーだけがついている。ぼくはそれを鳴らした。コンコンと音がする。誰も出てこない。ふたたび鳴らす。それを繰り返す。ぼくにはその音が中にいる人を呼び出すものではなく、周囲の森に響かせるものに感じられた。眠っているなにかしらの獣を呼び出してしまうのではないかと怖くなって、誰か出てきてはやく、とノックを連続させる。現在の時刻は六時ちょっと前で、いい具合に日が傾いている。夜に移り変わる時間帯というのが一番怖いという話を聞いたことがあるし、妙なタイミングで風が吹き始めて森がざわついている。背筋が寒くなって、ノックする手に力がこもる。
何回ノッカーを鳴らしても誰も出てこない。人がいる気配すらしない。ぼくは我慢できずにノブを回した。意外なことにそれはすんなりと回って、扉が開く。ぼくは躊躇いながらも前に進んだ。中は外観同様洋風で、広々としたホールや緋色の絨毯が敷かれた幅広の階段、シャンデリアなどは映画のセットみたいだった。
「あの、誰かいませんか」
周囲を見回しながら声を上げる。恐々としたぼくの声がホールに反響するだけで、返事は返ってこない。誰もいないのかな、と不安になる。確かに連絡はいれていなかったけれど、情報誌にはそれでいいと書いてあった。面接は随時受付とそう記してあったし、夜中でも構わないとも書いてあったのだ。
ぼくはさらに先へと進む。先といってもホールは広いからそこの真ん中くらいだ。そこに立って改めて周りを見回して、これからどうしようかと考える。部屋はたくありそうだから、声が届いていないだけなのかもしれない。奥のほうにいるならなおさらだ。とりあえず手近な扉でも開けてみようかな、そう思ったときだった。
「貴様、何者だ」
すっと耳に声が入ってきた。ふいに間近で聞こえたその声に、ぼくは最初驚かなかった。誰かいるんだ、よかった、とまず胸を撫で下ろした。それからどこだろうと首をめぐらせ、人影が見当たらないことを不審に思った直後、後ろに誰かがいることに気づいた。その気配があまりに突然に現われたので心臓がドクンと跳ね、うわっと声には出さずにそんなふうに口を開けて振り返った。
「ここで何をしている」
そこにいたのは端整な顔立ちの若い男性だった。細身の身体を燕尾服で包んでいる。正装が似合う長身で、年齢は二十歳ちょっと。若干長めの前髪からのぞく鋭い切れ長の目がぼくを射抜いていた。
ぼくはとっさにここへ来た理由を答えられなかった。言葉を出せないまま口をパクパク開けていると、
「貴様、学生か」
と男性はぼくの服装を見て言った。学校帰りにここにやってきたぼくは高校指定のブレザーを着ていた。
ぼくは何も言わずに縦に首を動かした。
「こんなところに何をしに来た」
「あ、あの」
ぼくはそこでいいことを思いついた。驚いたと同時に手放した学生カバンを拾い上げ、中からあるものを取り出して男性に渡そうとした。
「こ、これを見てきたんです」
ぼくが男性に差し出したのは、店などに無料で置いてあるアルバイトの情報誌だった。
「これは」
男性は雑誌を受け取り、一瞬だけ眉ひそめた。
「ああ、そういえば広告を出すとか言ってたな。ということは貴様」
ページをめくることもなく、男性は言った。
「お主人希望者か」




