お昼のこと
このごろの昼食は平穏に過ぎることが多い。最近まではよくアキラやその子分に購買にまで買いに行かされることが少なくなかった。しかもその立て替えた代金を支払わないこともあってぼくはだいぶ困っていた。
ところがここ最近はおとなしい。いわゆるパシリに使われることもなく、昼食を落ち着いて取れるような状況が続いていた。たぶんこれはお主人になった影響なのだと思う。時期も一致している。
「おい、一之瀬」
だからこの日、廊下からぼくの名前を呼ぶ声を聞いたとき、心臓が飛び出しそうなほど驚いた。それは教室の机でコンビニで買ってきた菓子パンを食べようとしたときだった。扉のほうを見るとアキラと目が合った。
「こっちこいよ」
ぼくの目の前が一瞬真っ暗になった。最悪なことに財布にはいま、それなりのお金がある。執事からもらったお金だ。これをとられたら大変なことになる。
ぼくはどうしようかと迷い、結局椅子から立ち上がった。抵抗する気にはなれず、教室内に揉め事を持ち込みたくもなかった。廊下に出ると、アキラはいつになく神妙な顔で言った。
「お前、いったい何したんだよ」
「え、なんのこと?」
どうやら昼食を買って来い、という命令ではないらしい。周囲を見れば、子分らしき姿もない。アキラはひとりだった。それで今回の用事がいつものとは違うことを確信した。
「とぼけんのか」
「だから、ぼくにはなんのことか」
「ふざけんなよ」
アキラがぼくの胸元をつかみ、そのまま壁に押し付けた。シャツを握り、そのまま首を締め上げるようにした。
「お前、あいつらにいったい何をしたんだ」
「あ、あいつ」
あいつというのはきっと子分たちのことだ、とぼくは思った。
「どいつもこいつも、突然お前と関わり合いになるのは嫌だっていい出したんだよ。お前、なんかしただろ」
「そ、それは、たぶん、ぼくがお主人だからで」
「お主人だあ?」
アキラは顔をしかめた。
「あんなのただのアルバイトだろうが。建物に住むだけがそんなにそんなに偉いって言うのか。なあ、どうなんだよ!」
大多数の町の住人とは違い、アキラにとってのお主人は重要な位置を占めてはいないようだった。
「ぼ、ぼくに聞かれても」
「お前以外誰が知っているっていうんだよ」
アキラはぼくの首をさらに締め上げた。息ができなくなるほどきつかった。一向にアキラは力を緩めようとはせず、ぼくの首はどんどんと圧迫されていった。
「貴様、そこで何をしている」
かすんでいく意識の中でも、その声が誰のものかわかった。低いけれどよく通る澄んだ男性の声。自然に閉じていた目を開けると、執事の姿を視界の端で確認した。
「その手を離せ」
「ああ? 誰だおま――」
次の瞬間、何が起こったのかわからなかった。気づくとぼくは壁に背中を預ける形で廊下に座り込んでいて、アキラのうめくような声に目を開けた。すると目の前には執事が立っていて、ぼくに向かって手を差し出していた。
「立てるか」
ぼくは手を借りずにひとりで立ち上がった。執事はマスクをつけていて、そういえばりょうちゃんが風邪気味だとか言ってたのを思い出したけれど、ぼくの頭を占めていたのはそんなことじゃなかった。報道部であの話を聞いて以来、こうして正面で向き合うのははじめてだった。何も言わずに執事を見ていると、腕を押さえて床にうずくまっていたアキラがこちらに向かってきた。
「てめえ、なにすんだよ!」
執事の肩をつかんで振り向かせると、アキラは拳を放った。執事は避けなかった。固く握られた拳が執事の頬にめり込んだ。
執事は倒れなかったし、よろけもしなかった。殴られた顔がすこし傾いただけで、平然と立っている。
「気が済んだか?」
「っ!」
アキラは敵意むき出しの目で執事を睨んでいる。そこには殴ってもまったくダメージの受けた様子がない相手への驚愕も垣間見えた。
「なんだよお前、いったい誰だっつうんだ!」
執事は答えずにぼくのほうを向いた。マスクからわずかに覗く頬は少し赤らんでいた。
そこで騒ぎを聞きつけた教師が廊下の向こうから駆けつけてきた。ぼくはこのまま教室に戻るわけにもいかず、とりあえず執事の手を引いてその場を離れた。