#7 宇宙の中心
「ミイくんもどら焼が好きなの?」と、陽華が何気なくたずねた。
深樹は答えた。
「持ち歩くほどじゃないけどね」
「も、もちあるく……?」
困惑する陽華に、陽樹が「おうよ」と、コートのポケットからどら焼を取り出した。陽華は「わっ」と驚いて、引いた。
「いつもポケットに入れてるの……?」
「どら焼は肌身離さず一緒さ」
もちろん、というように陽樹が言う。
「陽華お姉ちゃんは、お兄ちゃんと一緒じゃないの?」
首をかしげる深樹。
陽華は遠慮がちにうなずいた。
「私、どら焼は好きだよ。でも……ね。今日持ってくる必要、あったのかな」
どら焼を食べながら、どら焼を買いに行く男子高校生。スカート着用。
「そっか。陽華はどら焼、持ち歩かないのか」
陽樹が目を丸くする。
「よく似てるけど、ちょっとずつ違うみたいだね。世界も、みんなも」
深樹が言い、三人は困ったように笑った。
「そういえば、陽樹の傘、かわいいよね。桜柄?」
陽華が傘をかしげ、陽樹を見上げた。淡いピンク色の傘をかかげ、彼は鼻を高くする。
「へへん、いいでしょ。俺の大切な傘なんだ。たからもの」
深樹はそれを見て、ひとこと。
「……女の子みたい」
兄はムスッとして。
「またあ、深樹はそういうこと言う」
二人のやりとりに、陽華はくすっと笑ってしまった。
「別にいいじゃないか。男が可愛くしたって」
陽樹が抗議するように言う。彼女は笑うのをやめた。
「女子が髪をまとめたり、編み込んだりするでしょ。ああいうの憧れるんだよなあ」
夢見るように言って、くるくると傘の柄を回す。陽華はまた彼の傘を見た。小間に描かれたこぼれ桜が、光にかざされて影になっている。
「あれ? みぞれ、やんでるよ」
深樹が天を撫でて、白い傘をはずす。陽樹と陽華も空をあおいで、傘をたたんだ。雲が引いて、太陽が顔を出していた。
三人で歩道をすすむ。長靴で踏むと、ぴちゃんと霙が飛んで、黒濡れたアスファルトがむき出しになった。
陽樹が思い出したように言った。
「ねえ深樹。今朝も窓を通るとき訊きそびれたんだけど。窓のあいだの、あの真っ暗な空間。あれ何?」
そんなのあったっけ?という顔で、陽華は二人の少しうしろを歩いている。
「ああ、あれは……橋だよ」
「ハシ?」と、陽樹は素っ頓狂な声をあげた。
「箸じゃないよ。世界と世界をつなぐ、架橋なの」
よくわからないよ、という様子の陽樹。兄のずっと手にしていたどら焼を、深樹は指さした。
「お兄ちゃん。このどら焼を、宇宙だと思って」
「どら焼が、宇宙……?」
陽華は二人と歩調を合せた。
「たとえ話だよ。このどら焼が、ぼくたちの住んでる世界。地球も、太陽も、空の星も、みんなこのどら焼の表面にあるの」
陽樹は、どら焼の焼目のなかに、幾多の星々がきらめいている空想をした。
「おお……見える、見えるぞ」
「でね。この宇宙によく似た、別の宇宙があったんだよ」
兄のコートを指差す。陽樹がポケットをさぐると、どら焼のつつみが出てきた。
「この二個が、お互いにすれ違ったり、近づいたりするの。で、うまく行くと……」
二つのどら焼が、キスをする。
「くっついた!」
「このくっついてる部分に、ちっちゃい橋が架かってると思って。それが真っ黒に見えてるの。そっち側がお兄ちゃんの部屋で、こっち側が陽華お姉ちゃんの部屋で……」
ふうん、と相槌を打つ。
「ねえ、陽華」
陽樹が呼ぶ。急に水を向けられた陽華は、「な、なあに?」と、たどたどしく返事をした。
「地球は、太陽の周りをまわってるんでしょ?」
陽華はコクコクとうなずいた。
「俺の部屋がここにあるってことは、地球も、ここにあるんでしょ?」
「そうだよ。お兄ちゃん」
深樹もうなずいた。
「だとしたら、おかしいじゃないか。地球がまわって……どら焼の上で、地球がズレるわけでしょ? 陽華のいる地球も、もう一つのどら焼の上で、もっとズレる。せっかく橋が架かっても、橋なんてすぐちぎれちゃうんじゃない?」
陽華が意外そうにつぶやく。
「するどいね」
「俺、ほとんど理解できたけど、そこだけが納得行かないよ……宇宙の中心に部屋があるならまだしも」
兄の言い分を聞いていた弟が、口をひらいた。
「ねえお兄ちゃん。『地球上に』中心はある?」
陽樹は目をぱちくりさせた。
「ええと。『地球の』中心なら地面の下にあるけど、地球上……北極が中心かな。いや、南極もあるし……赤道のどこかとか?」
しどろもどろになりながら、陽樹は何とも言えない気分になった。
深樹は頭がいい。
「頭がいい」と言っても、語彙が豊富なわけでも、膜宇宙論をマスターしているわけでもない。自分の見たもの、考えたことを、言葉を選んで正確に伝えられるのだ。
一方の兄は、言葉をつむぐのがニガテだ。頭のなかでは、言いたいことをスラスラと話せる。でもいざ口に出そうとすると、頭のイメージをどんな言葉に置き換えればいいのか、分からなくなるのだ。結果、話し終えるまでに時間がかかってしまう。
実際には、落ち着いた口調でそれを相手に感じさせないのだが、周りと比べて凹んでしまうのも、兄の悪いクセだった。
陽樹は深樹に引け目を感じていた。
「ねえ、お兄ちゃん」
深樹はもう一度呼びかけた。
「宇宙に中心はないよ。でも……お兄ちゃんが決めたら、そこが中心になるんだよ」
深樹はそのまま歩いてゆく。陽樹はその場に立ちつくした。
左右に持っていた、二つのどら焼を見つめる。そして、その二つをいろんな角度でくっつけたり、離してみたり。
「お兄ちゃん。はやくしないと置いてっちゃうよ」
「ちょっ、深樹! 陽華! 待ってよ」