#40 別れではなく
秋兎は地面を見下ろした。玄関に秋卯がいた。
「まだ間に合うよ!」
声を張り上げる彼女に、彼は返した。
「まだ二分あるから、伝えておこうと思う。短かったけど、貴重な時間だった。君に会えてよかった!」
秋卯も言った。
「わたしも、今日いろんな話ができてよかった! はるきゅんと仲良くね!」
秋兎は大きく頷いて、窓のほうを見た。陽樹と夏海は窓を明け渡した。
「ついてこいよ」
秋兎の言葉に、陽樹は戸惑いつつ頷いた。陽華が手を振った。
「じゃあね!」
「あばよ!」
秋兎が窓に消える。秋卯は「さようなら!」と見送った。
夏海は軒先から見下ろした。
「あづき屋、復活させろよ! お元気で!」
夏漣の声が聞こえた。屋根に隠れて、陽樹からは姿が見えない。
夏海は叫んだ。
「元気でね! お母さんとお父さんに、毎日『ありがとう』って伝えてあげてね!」
夏海はしばらく夏漣のほうを見てから、窓の向こうに飛び込んだ。
陽樹の番になった。
「どら焼を食べ過ぎるなよ!」とか「自転車で爆走しないでね!」とか、口々に言う声がした。
黒い橋はどんどん細くなっていた。じきに幅がゼロになるだろう。
陽樹は立ち上がった。窓の前で二人は向き合った。
陽華がこくりと頷いた。陽樹は「さようなら」と言おうとして、言い直した。
「またね」
陽華も笑って返した。
「うん。またね」
振り返らず、助走をつけて窓に飛び込む。
陽樹の部屋の窓は、さっきより遠ざかっていた。四角い出口も、さっきよりちょっと小さい。そこそこ小さい。
いや、小さすぎる。
「落ちる! 落ちる!」
窓の桟に手をかける。陽樹の体のほとんどは、いまだ黒い空間にあった。脚をじたばた動かす。
夏海と秋兎が彼を引き揚げる。
「二人とも、こんなことにはならなかったの?!」
陽樹が訊ねた。秋兎が答えた。
「なったさ! おれは一人で這い上がったけど!」
陽樹の背後に、陽華側の出入口が開いていた。さっきよりもっと遠くにあった。さっきより、ずっと小さな四角だった。そこに陽華の顔は見えないし、夏漣の声も、秋卯の声も聞こえない。ただ、青空の断片が、暗闇で静かに遠のいてゆく。
夏海は叫んだ。
「井上早くして! 今、出口が消えたら、井上が真っ二つになっちゃう!」
陽樹は目を回しながら、這いつくばった。
「せめて、股上は持ち帰りたい!」
二人は陽樹を一気に引き揚げた。彼の全身が明るみに出る。次の瞬間、窓が爆発し、三人は屋根の上で吹き飛ばされた。
カーテンがぱたぱたと旗めく。
爆発音を聞いて、深樹と両親が階段をかけ上がる。
「はるくん、なっちゃん、あっくん、怪我はなあい?!」
陽樹の部屋に、彼の母が飛び込んできた。夏海が靴を脱ぎながら言った。
「大丈夫です。ギリセーフです」
秋兎と陽樹も、すでに部屋に上がっていた。背中合せで床に坐っている。二人とも疲弊し切った様子だった。
「はるくん、おかえりなさい」
父が静かに言った。陽樹は「ただいま」と返した。
「……窓が」
深樹が言った。六人の視線が、奥の窓に集まった。東側の、あの青いカーテンだ。
陽樹がゆっくりと立ち上がる。秋兎は、ふらふらと歩いてゆく背中を見た。陽樹は窓から顔を出した。
青空の下に、閑静な住宅街がひろがっていた。道の先からトラックが走ってきて、家の脇を通り過ぎてゆく。
秋の風が陽樹の火照ったほほをなでた。短髪がさらさらとなびき、日の光を反射させた。
みんな、それを黙って見守っている。
陽樹の肩にぽんと手が乗った。振り返ると、秋兎がいた。
「きっと上手くやってるさ」
彼の言葉に、陽樹は大きく頷いた。そして笑った。
「私たちも学校、行かなくちゃね」
夏海が言った。「あっ!」と、男子二人は声を上げた。
「文化祭中だってこと、忘れてたね」
「また自転車で戻らねえと」
「お邪魔しました!」
夏海がお辞儀をして去る。秋兎もそれに続いた。
「二人とも、あんまり急ぐと危ないよ」
父が階段を覗き、声をかけた。
陽樹は改めて弟と対面した。
「深樹。ミイちゃんが『よろしくね』って」
深樹は目をぱちくりさせたあと、心から嬉しそうに言った。
「ありがとう」
母が心配するように言った。
「文化祭、間に合うのかしら」
父も気を配る。
「パパが車で送ろうか」
陽樹は笑って答えた。
「一人でも行けるよ」
その時、外から秋兎の声がした。
「陽樹! 早く来ないと置いてっちゃうぞ!」
きっと二人は玄関だ。陽樹は窓から身を乗り出して、叫んだ。
「さきに行っていいよ! すぐ追いかけるから!」
窓の向こうへ行かなくちゃ(終)




