#39 窓の向こうへ行かなくちゃ
甲州街道で、井上家の車は渋滞に巻き込まれていた。
前にも後ろにも動かない。陽華の母はハンドルから手を離し、前のトラックのナンバープレートを眺めていた。
六人乗りの車内にいるのは、陽華の両親と深華、陽樹、夏海、そして秋兎である。陽華の姿はなかった。陽樹は窓から遠い空をみつめている。深華は眉根をさげ、それを見守っていた。
腕時計を何度もみて、首筋を搔く秋兎。
その時。夏海が外を見て、声を洩らした。
「夏漣くん!」
一同は外を見た。
車の後方。自転車に乗った夏漣が、歩道沿いを猛スピードで走ってきた。車内の面々に気づき、急ブレーキをかける。しかし止まりきれず、通り過ぎて、前方のトラックの影に見えなくなった。
六人は呆然とした。
「秋卯!」
秋兎が窓にへばりつく。陽樹も後方を見て、呟いた。
「……陽華」
夏漣を追いかけるように、秋卯と陽華も自転車でやって来たのだ。
助手席の窓を開け、父が尋ねる。
「文化祭はどうしたんだい」
陽華は言った。
「ごめんなさい。でも、じっとしてられなくて」
秋卯がそれとなく言った。
「ここに自転車が三台あるよ。三人はどうやって帰るのかな」
三人はお互いの顔を見遣った。夏海が意味深長に言った。
「何とかなりそうだね」
「ちがう。何とかするんだ」
一同は声のした方を見た。引き返してきた夏漣が、自転車を華麗に停止させたところだった。
秋兎が頷く。
「夏漣の言う通りだ」
「決まったね」
秋卯が笑顔で言い、陽華もつられて笑った。
「さあ、窓の向こうへ行かなくちゃ!」
陽樹が拳を掲げた。五人も「おー!」と拳を天に掲げた。
陽華は両親にアイコンタクトをとった。二人は優しそうに微笑んでくれた。秋兎、夏海。最後に陽樹が車を降りる。
夏漣は陽華の両親に言った。
「三人は僕たちに任せてください」
陽樹と深華がハイタッチを交し、そのまま指を絡ませた。深華が車内から言った。
「陽樹お兄ちゃん。ミイくんによろしくね」
陽樹は力強く頷いた。
「伝えるよ」
二人の手と手が離れる。
続いて、深華は陽華に言った。
「お姉ちゃん。陽樹お兄ちゃんをよろしくね」
陽華も頷いた。
*
「秋卯、すごく速かった!」
陽華が自転車から降りて言った。秋卯は息を弾ませて笑った。
「すぐバテて、秋兎くんに替ってもらったけどね」
六人で玄関へ急ぐ。門は開けっぱなしで、自転車は鍵を差しっぱなしである。夏漣の自転車が倒れてしまったが、誰も振り向かない。
「陽華。鍵を」
陽樹が言った。陽華がポケットをさぐり、顔を真っ青にする。
「今日……学校に、家の鍵、持って行ってない」
陽華が言った。夏漣は言葉を失った。
陽樹は意味がわからず、ぽかんとしている。
「……どういうこと?」
訊ねる陽樹に、陽華は説明した。
「今日は自転車の鍵しか持って行かなかったの。学校に両親が来るから、『家族と一緒に帰ればいいや』って……それで、家の鍵を外して、リビングのテーブルに置いたの」
「な、な、な」
陽樹がガクガクと震え出す。秋卯が目を丸くして言った。
「陽華、ウソでしょ?」
「ごめんなさい! ごめんなさい!」
陽華は何度も頭を下げた。
状況を把握していない夏海が訊ねた。
「どうなってるの。鍵はどこ?」
夏漣が引手を握りしめ、叫んだ。
「この、扉の、向こうだ!」
秋兎は腕時計を見て呟いた。
「あと五分しかない」
「車に戻る時間はないよね」
秋卯が冷静に言った。
「ここまで来たのに……」
絶望したように、夏海が膝から崩れ落ちる。
陽樹は言った。
「ねえ、陽華」
陽華は彼を見た。陽樹の肩は、まだちょっと震えていた。
「あの黒い窓をくぐれば、俺の部屋なんだよね」
二階を指す。東側の窓が真っ暗に見えていた。
「そ、そうだよ」
陽華が頷く。陽樹は提案した。
「あの窓に、外から飛び込めばいいんだ」
「二階だよ? どうやって登るの!」
夏海が疑問を呈す。
「あんなところに猫が」
秋兎が指差す。青毛の猫が屋根の上で丸まっていた。陽樹は両手を挙げ、歓喜した。
「ドラだ!」
「ドラちゃん!」
陽華と抱き合って喜び合う。
夏漣は塀に目を遣り、頷いた。
「そうか。屋根に飛び乗って、窓まで登ればいいのか」
七姫組がつぎつぎと塀に登ってゆく。
猫が塀に飛び移った。その横を秋兎たちが登ってゆく。
「ドラ、ばいばい」
塀の上で陽樹が手を振った。ドラは「にゃあ」と鳴いて道路に降り立った。陽樹がバランスを崩し、落ちそうになる。
「おっと」
陽樹は落ちなかった。見ると、夏漣が支えてくれている。
「よそ見は禁物だ」
「……ありがとう」
陽樹が屋根に飛び乗り、登り始める。夏漣はそれを見送ったが、陽樹が振り向くことは、二度となかった。
屋根の上には陽華もいた。彼女はすいすい登りながら言った。
「あの日は風が強かったけど、今は微風だから、ロープがなくても大丈夫だね」
秋兎が小声で呟いた。
「はたから見たら、おれたち泥棒みたいだな」
四人は屋根を登り切った。陽華の髪がふんわりと風を含んだ。そよ風だった。
四人で窓を覗き込む。真っ暗な空間の中に、四角い青空がぽつんと浮かんでいる。
「井上の部屋じゃないよ」
夏海が言った。秋兎が考察する。
「部屋から窓をくぐると、向こうの部屋に出る。外から窓に入ったら、屋根の上に出るんだろう」
「その通り」
陽華が言った。陽樹が顔をしかめる。
「どうしよう、渡れないよ。はしごも部屋の中にある」
「三メーター強ってところか? 行けるだろ」
秋兎が言った。陽樹は変な声を出した。
「ふぇえっ」
「走幅跳だと思えば。私でも行ける距離だよ」
夏海が冷静に言った。陽樹は動揺した。
「ウソでしょ? みんな、この距離跳べるの?!」




