#36 天井の星
陽樹は土手で自転車を漕いでいた。その背中に、陽華がぐったりともたれかかっている。
まだ風は強いが、小雨になっていた。陽華はウィッグを取っていた。長い髪がなびく。温雨香が匂っている。
西の空に雲はなく、ほの明るい夕焼色を帯びていた。
「心にもないこと言っちゃって、ごめんなさい」
陽樹は謝った。陽華は黙ってそれを聴いていた。向き合っていないので、お互い表情は見えない。
「陽華は、俺のためを思って注意してくれたのに、それを無視しちゃった。……俺が間違ってたよ。今は、ほんとうに反省してる」
二人を風が包んだ。陽華が口を開いた。
「陽樹のあの態度には、怒ってるよ。今も」
陽樹が少し俯く。
「怒ってるし、戸惑った。『陽華にはわからない』なんて言われて、意味がわからなかったし」
陽華は一拍おいて、続けた。
「でも、あの後にね。陽樹の昔のこと、教えてもらったの。陽樹のお母さんに」
陽樹は意外そうに顔を上げた。二人がそんなことを話していたなんて、ちっとも知らなかったからだ。
「辛かっただろうこととか、嬉しかっただろうこととか、みんな聴き終えて。……同情した、っていう表現は、違うよね。陽樹のこと、確かに私はわかってなかったんだって、理解したの。だから、そこだけは私もいけなかったなって、思い直せた。『同情』して、『許した』んじゃないの。『理解』して、『反省』した」
陽樹は数秒黙ってから、言った。
「ありがとう。理解してくれて」
「なにそれ」
陽華は抑揚のない声で言った。
彼はまた謝った。
「手を払っちゃって、ごめんなさい。『陽華にはわからない』なんて言ったことも」
「他の子には、あんな態度、取らないでね」
陽華が言った。彼は「取らない。もう、絶対にしない」と誓った。
「次に会ったら、秋兎に謝るよ」
決意を表明した陽樹に、間髪入れず指摘する。
「それが普通だよ」
沈黙が流れた。
陽樹は静かに言った。
「ありがとね、陽華」
陽華は声を出さず、笑った。
「こちらこそ。助けてくれて、ありがとう」
背中合せで、二人は同時に吹き出した。
陽樹の家に着くころには、辺りは暗い青色になっていた。玄関燈が淡く光っていた。
扉が閉まる。その向こうで、二人は迎えられた。
「二人とも、ぐしょ濡れじゃない! こんなに服も汚しちゃって」
「お兄ちゃん、陽華お姉ちゃん、お帰りなさい。みんな待ってるよ!」
*
夜。真っ暗な部屋で、陽樹はベッドに寝転がりながら言った。
「起きてるんでしょ?」
窓越しに、陽華は「うん」と答えた。彼女もベッドで横になっていた。もっとも、灯を一切消しているので、お互いの顔どころか窓すらよく見えないのだけれど。
陽華は続けた。
「明日が文化祭だと思うと、眠れなくて」
陽樹は「いよいよだね」と言った。それから「ちょっとさみしいな」と洩らした。
「……うそ。本当はすごくさびしい」
「私も、さみしい」
陽華が言い、辺りは静かになった。外で虫が鳴いていた。
陽華は天井を見上げて、言った。
「真っ暗な部屋でね。うとうとしながら見上げていると、天井に星が見えることがあるの」
「……おお、見える、見えるぞ」
そんなに早く見えないよ、と陽華が笑う。
「きっと、寝惚けて夢を見てただけなんだけど……朝日を浴びて外に出ると、思い出すの。天井の向こうには、本物の星空が広がっていたんだって」
陽樹も無言で天井を見上げた。
「橋が途切れて、もう会えなくなっても。姿が見えなくなっても。声が聴こえなくなっても。私はずっとここにいる」
陽樹は頷いた。
「俺もずっとここにいるよ」
陽華は「おやすみなさい」と言った。少し経ってから「またね」と言い直した。
陽樹も言った。
「うん、またね」
しばらくして、寝静まった。




