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窓の向こうへ行かなくちゃ  作者: 半ノ木ゆか
第7話 颱風の下で
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#35 今すべきこと

 陽樹は雨の中、自転車を飛ばしていた。


 自動車の渋滞の脇を立ち漕ぎですり抜けてゆく。フードが風で外れても、被り直さない。


 歩道を行き交う人の数が増えてきた。陽樹は速度を緩めて、桜柄の傘を探した。


 似たような傘はときどき見つかった。でも、桜ではなくて水玉だったり、星模様だったり。色味が少し違ったりした。陽華はなかなか見当たらなかった。


「どこへ行っちゃったんだろう……」


 きょろきょろしていて、誰かとぶつかった。前を歩いてくる傘に気づくのが遅れたのだ。


「ご、ごめんなさい」


 陽樹は頭を下げた。相手は言った。


「……陽樹」


 秋兎だった。


 陽樹は逃げた。それを秋兎が引き止めた。


「離してくれ」


 わめく陽樹を秋兎が問い詰める。


「傘もささずに、何してるんだ。追試の勉強は?」


「それどころじゃないんだ」


 陽樹は言った。


「追試も、仲違いも、後回しだ。早くしないと間に合わなくなる」


 秋兎が驚いた顔をする。


「陽華がどこかへ……」


 陽樹は、言いかけて止まった。周りには大勢の人が歩いている。


「思い出した。ぶつかってくれてありがとう」


 自転車に跨り直し、去ってゆく。


「ちょっと、待てよ!」


 秋兎は手を伸ばした。迷う素振りを見せたあと、陽樹を駆け足で追いかけた。



 陽華は諦めかけていた。


 彼女の疲労も、フェンスの強度も、限界である。陽華は下を見た。


 桜模様の傘がゆらゆらと揺れている。そのずっと下で、濁流がごうごうと音を立てる。


 顔が赤くなった。雨と汗が混じり、ワイシャツが肌にぺたりとくっついている。陽華の細い腕では、ぶら下がっているだけでも精一杯なのだ。


 いっそのこと、落ちてしまったほうが楽かもしれない。


「下が水なら……助かるよね。痛くない、よね」


 恐怖に震える声で、自分に言い聞かせる。


 陽華が目をつむり、片手を離した、その時だった。


「陽華!」


 上空から声がかかった。へりを見上げて、陽華は目を見開いた。


 陽樹だった。


「待っててね! 今助けるから!」


 川べりを風が吹き抜ける。


 自転車を駐めた陽樹は、断崖絶壁に膝立ちした。陽華に向けて手を伸ばすが、もちろん届かない。手は風を撫でるだけである。


 足から降りようとした陽樹を、陽華が止めた。


「降りないで!」


「カチャン」と、留具がまた一つ外れる。ぐわんと低い音を立て、フェンスが風に煽られた。


「わあっ」


 陽華は恐怖から声を洩らし、フェンスにしがみついた。


 陽樹が汗を流す。


「ちょっと待って」


 ポケットに手を突っ込み、しゅるしゅるとロープを繰り出した。雨が打ち付け、手が滑り、もたつく。


 陽華はかした。


「はやく!」


 ロープを垂らす。前後左右、風のせいで不規則に揺れる。


 陽華はロープに触れた。ロープが逃げ、手は風をつかむ。ギギ、と金属の曲るイヤな音がした。


 陽華は息をひそめ、ロープを睨んだ。風がやんだ一瞬を見計らって、捕まえる。


 途端、陽樹の手元がズンと重たくなった。陽樹はぬかるみで滑り、尻餅をついた。崖にずるずると引き込まれてゆく。


「陽華、ちょっと離して!」


 陽華は急いでフェンスに戻った。「立入禁止」の看板に手をかける。


 陽樹が叫んだ。


「陽華! そこは!」


 ガチャリ、とさっきとは違う音がした。


「きゃあ!」


 看板が外れ、陽華の体すれすれを横切る。彼女はそれを避け、かろうじてフェンスにつかまり直した。


 看板が崖を転がるように落ちてゆく。ここの河岸は、陽華が思っていたほど切り立ってはいなかった。やはり垂直に近いけれど、傾斜がついている。


 看板は川底にぶつかり、大きくひん曲ってしまった。


 陽華の心臓がばくばくと脈打つ。


 陽樹は土手の上で慌てた。


「どうしよう。どうしよう」


 頭を抱えて真剣な目付になるが、答は出ない。ロープを握ったまま往ったり来たりする。足元を見ていない。地面に妙なイボがあることに、陽樹は気づかなかった。


 陽樹は根っこにつまづいた。地面に前のめりに倒れる。顔を上げると、そこに切株があった。


 陽樹は自分の腰にロープを巻き付けた。そして、そのもう一端を切株に縛りつけ、固定した。


 陽華が息を殺して待っている。


 彼はフェンスの脇をずるずると降りて行った。ロープがぴんと張り、命綱になった。


 素早く、でも慎重に。


 崖面には滝のように水が伝い流れていて、滑りやすかった。桜柄の傘があった。開かれたままフェンスに引っ掛かっている。その手前に陽華がいた。


 接続部が、じわじわと歪んでゆく。


 陽樹は傘に目をくれず、彼女に手を差し伸べた。震える彼女を見つめて、無言で頷く。陽華は彼の手を握った。でも片手だけだ。もう一方の手も、両足も、フェンスから離れていない。


「ほら、両手でつかまって」


 陽樹が言った。陽華は訊ねた。


「傘は? 陽樹の宝物なのに」


 彼は迷わず答えた。


「陽華のほうが大切だよ」


 彼女は決心したように頷き、フェンスを蹴った。


 次の瞬間、「カチャン」と音がした。陽樹に飛びつく陽華。フェンスが急降下してゆく。二人はそれが掠らないよう、脇に離れた。


 大きなしぶきを上げて川に落ちる。傘も濁流にのまれ、あっという間に見えなくなってしまった。

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