#35 今すべきこと
陽樹は雨の中、自転車を飛ばしていた。
自動車の渋滞の脇を立ち漕ぎですり抜けてゆく。フードが風で外れても、被り直さない。
歩道を行き交う人の数が増えてきた。陽樹は速度を緩めて、桜柄の傘を探した。
似たような傘はときどき見つかった。でも、桜ではなくて水玉だったり、星模様だったり。色味が少し違ったりした。陽華はなかなか見当たらなかった。
「どこへ行っちゃったんだろう……」
きょろきょろしていて、誰かとぶつかった。前を歩いてくる傘に気づくのが遅れたのだ。
「ご、ごめんなさい」
陽樹は頭を下げた。相手は言った。
「……陽樹」
秋兎だった。
陽樹は逃げた。それを秋兎が引き止めた。
「離してくれ」
わめく陽樹を秋兎が問い詰める。
「傘もささずに、何してるんだ。追試の勉強は?」
「それどころじゃないんだ」
陽樹は言った。
「追試も、仲違いも、後回しだ。早くしないと間に合わなくなる」
秋兎が驚いた顔をする。
「陽華がどこかへ……」
陽樹は、言いかけて止まった。周りには大勢の人が歩いている。
「思い出した。ぶつかってくれてありがとう」
自転車に跨り直し、去ってゆく。
「ちょっと、待てよ!」
秋兎は手を伸ばした。迷う素振りを見せたあと、陽樹を駆け足で追いかけた。
*
陽華は諦めかけていた。
彼女の疲労も、フェンスの強度も、限界である。陽華は下を見た。
桜模様の傘がゆらゆらと揺れている。そのずっと下で、濁流がごうごうと音を立てる。
顔が赤くなった。雨と汗が混じり、ワイシャツが肌にぺたりとくっついている。陽華の細い腕では、ぶら下がっているだけでも精一杯なのだ。
いっそのこと、落ちてしまったほうが楽かもしれない。
「下が水なら……助かるよね。痛くない、よね」
恐怖に震える声で、自分に言い聞かせる。
陽華が目をつむり、片手を離した、その時だった。
「陽華!」
上空から声がかかった。へりを見上げて、陽華は目を見開いた。
陽樹だった。
「待っててね! 今助けるから!」
川べりを風が吹き抜ける。
自転車を駐めた陽樹は、断崖絶壁に膝立ちした。陽華に向けて手を伸ばすが、もちろん届かない。手は風を撫でるだけである。
足から降りようとした陽樹を、陽華が止めた。
「降りないで!」
「カチャン」と、留具がまた一つ外れる。ぐわんと低い音を立て、フェンスが風に煽られた。
「わあっ」
陽華は恐怖から声を洩らし、フェンスにしがみついた。
陽樹が汗を流す。
「ちょっと待って」
ポケットに手を突っ込み、しゅるしゅるとロープを繰り出した。雨が打ち付け、手が滑り、もたつく。
陽華は急かした。
「はやく!」
ロープを垂らす。前後左右、風のせいで不規則に揺れる。
陽華はロープに触れた。ロープが逃げ、手は風をつかむ。ギギ、と金属の曲るイヤな音がした。
陽華は息をひそめ、ロープを睨んだ。風がやんだ一瞬を見計らって、捕まえる。
途端、陽樹の手元がズンと重たくなった。陽樹はぬかるみで滑り、尻餅をついた。崖にずるずると引き込まれてゆく。
「陽華、ちょっと離して!」
陽華は急いでフェンスに戻った。「立入禁止」の看板に手をかける。
陽樹が叫んだ。
「陽華! そこは!」
ガチャリ、とさっきとは違う音がした。
「きゃあ!」
看板が外れ、陽華の体すれすれを横切る。彼女はそれを避け、かろうじてフェンスにつかまり直した。
看板が崖を転がるように落ちてゆく。ここの河岸は、陽華が思っていたほど切り立ってはいなかった。やはり垂直に近いけれど、傾斜がついている。
看板は川底にぶつかり、大きくひん曲ってしまった。
陽華の心臓がばくばくと脈打つ。
陽樹は土手の上で慌てた。
「どうしよう。どうしよう」
頭を抱えて真剣な目付になるが、答は出ない。ロープを握ったまま往ったり来たりする。足元を見ていない。地面に妙なイボがあることに、陽樹は気づかなかった。
陽樹は根っこにつまづいた。地面に前のめりに倒れる。顔を上げると、そこに切株があった。
陽樹は自分の腰にロープを巻き付けた。そして、そのもう一端を切株に縛りつけ、固定した。
陽華が息を殺して待っている。
彼はフェンスの脇をずるずると降りて行った。ロープがぴんと張り、命綱になった。
素早く、でも慎重に。
崖面には滝のように水が伝い流れていて、滑りやすかった。桜柄の傘があった。開かれたままフェンスに引っ掛かっている。その手前に陽華がいた。
接続部が、じわじわと歪んでゆく。
陽樹は傘に目をくれず、彼女に手を差し伸べた。震える彼女を見つめて、無言で頷く。陽華は彼の手を握った。でも片手だけだ。もう一方の手も、両足も、フェンスから離れていない。
「ほら、両手でつかまって」
陽樹が言った。陽華は訊ねた。
「傘は? 陽樹の宝物なのに」
彼は迷わず答えた。
「陽華のほうが大切だよ」
彼女は決心したように頷き、フェンスを蹴った。
次の瞬間、「カチャン」と音がした。陽樹に飛びつく陽華。フェンスが急降下してゆく。二人はそれが掠らないよう、脇に離れた。
大きなしぶきを上げて川に落ちる。傘も濁流にのまれ、あっという間に見えなくなってしまった。




