#34 なんとかする
陽樹がレインコートの釦を留め終えたときだ。
「はるくん」
一階から母が呼んだ。
「はるくん!」
父が呼んだ。
「お兄ちゃん!」
深樹も呼んでいる。陽樹はイライラしたように尋ねた。
「なあに?」
「はるくん、下にいらっしゃい。見てほしいものがあるの」
母の返事に、陽樹は急ぎ足で階段を降りて行った。
「見てほしいものって、なにさ。今それどころじゃ……いい匂いがするね」
リビングには甘い香りが漂っていた。陽華のことなどすっかり忘れてしまったように、とことことテーブルに近づく。
深樹がホットプレートに生地を注いでいる。その隣にいた母が一枚の皿を差し出した。
「ミイくんがね、作ってくれたの。はるくんに味見してほしいって、今呼んだのよね」
母が確認するように言った。深樹はお玉を持ったまま恥しそうに笑った。
「今夜のお別れ会で出すんだって」
雨戸を閉めながら父が付け足す。
陽樹は息をのんで皿の上に見入った。
焼きたてのどら焼が寝そべり、陽樹を誘っていた。形がすこしイビツだし、餡子が隙間からはみ出ているけれど、彼の食欲をそそるには十分だった。
湯気立つどらやき。甘いかおりに、陽樹は思わず手を伸ばした。
その時、父の開けた窓から風が吹き込み、陽樹のほほを冷ました。雨が地面を叩く。木の葉がこすれ、枝の軋む音がした。
雨戸が閉まり、父が鍵をかける。秒針が時を刻む。
「ごめん、深樹」
陽樹は手を引っ込めて、言った。
「俺はいらない」
リビングを静寂が包み、
「ええ~!!」
家族は、マンガのように大きくのけ反った。
「あの、お兄ちゃんが?」
「大好きなどら焼を、断るなんて!」
深樹が言い、父が驚く。深樹は少しだけ残念そうな顔をしていた。
母は心配するように尋ねた。
「どこか具合でも悪いの?」
陽樹は首を横に振り、言葉を選んで説明した。
「実は、まだ陽華が帰って来ないんだ。学校を出てから随分経ってるはずなのに、連絡もつかなくて」
うつむく陽樹を見て、深樹は素直に頷いた。
「これから陽華を迎えに行く」
宣言した陽樹を、父が止めた。
「『迎えに行く』って、ここは颱風の下だぞ。帰って来るのを待っていたほうが」
「陽華だって外にいるんだ」
陽樹が言った。父は噤んだ。
「俺は、窓の向こうへ行かなくちゃいけないんだ」
父は目を瞑って唸っていたが、息子を見据えて、ゆっくりと頷いた。
「わかった。気をつけるんだよ」
「……立派になったのね」
母は目頭を押さえて、泣き出してしまった。
「帰って来たら、みんなでどら焼を食べようね」
弟に告げ、レインコートを飜す。
「お兄ちゃん」
階段に足をかけた陽樹を、深樹が引き留めた。
「本当に大丈夫? なんとかなるよね」
心配するように兄を見上げる。陽樹は訂正した。
「なんとかするんだよ」
階段を駆け上がり、カーテンを押し開き、窓の向こうへ転がり込んだ。
でも、ロープを踏んで足を滑らせてしまった。陽樹は急いで起き上がった。ロープが足にからまっている。
「どうしてまたこんな時に!」
外したロープを、机の引出しに乱暴に突っ込む。ドアノブに手をかけ、ふと立ち止まる。
陽樹はロープを持って部屋を出た。
*
陽華は看板の裏にいた。
傘はまだ畳んでいない。フェンスから手を離さなければならないからだ。
陽華は深呼吸をして、フェンスをよじ登りはじめた。手をかける部分にところどころ泥がついていた。陽華がフェンスを降りる際、靴の裏についていたものが移ったのだ。
髪が濡れて額に貼り付いている。制服は全身びしょ濡れで、腕には鳥肌が立っていた。
「はっ……」
くしゃみが出そうになって、陽華は咄嗟に口を閉じた。鼻がむずむずする。顔が赤くなる。
しばらくその場で止まっていると、だんだんと落ち着いてきた。陽華は「ふう」と息をはいて、登るのを再開した。
陽華の鼻に雨粒が落ちた。
「はっくしゅん」
くしゃみと同時に、陽華は足を踏み外した。「きゃっ」と声を上げる。下半身が宙ぶらりんになる。フェンスがギシギシと悲鳴を上げ、反りはじめた。左右のフェンスにも力が伝わり、彎曲する。陽華は急いで足をかけ直し、上辺に手をかけた。
次の瞬間。陽華の左隣で「カチャン」と音がした。フェンスとフェンスの接続部分が、力に耐えかね外れてしまったのだ。
陽華はフェンスとともにのけ反った。手を離しそうになったが、何とかこらえ、しがみつく。
また、陽華の隣で「カチャン」と音がした。今度は右からだった。
「ねえねえ、嘘でしょ。待って」
陽華はフェンスに言った。
フェンスとフェンスとは、三つの部分でつながっていた。上部と、中部と、下部である。いま外れたのは、右隣のフェンスとの上部の接続である。その前に外れたのが、左の上部。
きっと、次に外れるのは中部だ。左右どちらが先かは分からないが、陽華がフェンスの上辺につかまっているので、上から順に外れるのだ。
六つ外れたら最後。今つかまっているフェンスとともに、陽華は川面へ真っ逆さまである。
とりあえず、陽華は左へ寄ることにした。傘を落とさないよう、慎重に。
「カチャン」と、左中部の接続が外れた。陽華はさらにのけ反った。立っているのが辛い体勢である。彼女は爪先立ちだった。
「カチャン」と、続けて右中部。陽華はそこで、フェンスから足を外してしまった。腕だけでつかまっているような状況だ。真下には濁流。両足が風にぶらぶらと揺れる。
フェンスはだんだんと川のほうへ倒れ込み、ついには上下逆さまになった。
陽華は目をぎゅっとつむった。
フェンスが崖面を叩く。陽華に強い衝撃が伝わった。その反動で、傘が手から離れてしまった。
「あっ!」
陽華は手を伸ばした。
フェンスの端っこに、傘の露先が引っかかる。やじろべえのように傘が揺れ動いた。その下に川面が見える。
陽華はフェンスにつかまり直し、浅い息を繰り返した。
彼女の真上に「立入禁止」の看板があった。今は天地がひっくり返って、文字も逆さまになっている。「禁」の字の「林」の上に、ちょうど陽華の顔があった。
右下部の接続が、ギギギ、と音を立てた。




