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窓の向こうへ行かなくちゃ  作者: 半ノ木ゆか
第7話 颱風の下で
34/41

#34 なんとかする

 陽樹がレインコートの釦を留め終えたときだ。


「はるくん」


 一階から母が呼んだ。


「はるくん!」


 父が呼んだ。


「お兄ちゃん!」


 深樹も呼んでいる。陽樹はイライラしたように尋ねた。


「なあに?」


「はるくん、下にいらっしゃい。見てほしいものがあるの」


 母の返事に、陽樹は急ぎ足で階段を降りて行った。


「見てほしいものって、なにさ。今それどころじゃ……いい匂いがするね」


 リビングには甘い香りが漂っていた。陽華のことなどすっかり忘れてしまったように、とことことテーブルに近づく。


 深樹がホットプレートに生地を注いでいる。その隣にいた母が一枚の皿を差し出した。


「ミイくんがね、作ってくれたの。はるくんに味見してほしいって、今呼んだのよね」


 母が確認するように言った。深樹はお玉を持ったまま恥しそうに笑った。


「今夜のお別れ会で出すんだって」


 雨戸を閉めながら父が付け足す。


 陽樹は息をのんで皿の上に見入った。


 焼きたてのどら焼が寝そべり、陽樹を誘っていた。形がすこしイビツだし、餡子が隙間からはみ出ているけれど、彼の食欲をそそるには十分だった。


 湯気立つどらやき。甘いかおりに、陽樹は思わず手を伸ばした。


 その時、父の開けた窓から風が吹き込み、陽樹のほほを冷ました。雨が地面を叩く。木の葉がこすれ、枝の軋む音がした。


 雨戸が閉まり、父が鍵をかける。秒針が時を刻む。


「ごめん、深樹」


 陽樹は手を引っ込めて、言った。


「俺はいらない」


 リビングを静寂が包み、


「ええ~!!」


 家族は、マンガのように大きくのけ反った。


「あの、お兄ちゃんが?」


「大好きなどら焼を、断るなんて!」


 深樹が言い、父が驚く。深樹は少しだけ残念そうな顔をしていた。


 母は心配するように尋ねた。


「どこか具合でも悪いの?」


 陽樹は首を横に振り、言葉を選んで説明した。


「実は、まだ陽華が帰って来ないんだ。学校を出てから随分経ってるはずなのに、連絡もつかなくて」


 うつむく陽樹を見て、深樹は素直に頷いた。


「これから陽華を迎えに行く」


 宣言した陽樹を、父が止めた。


「『迎えに行く』って、ここは颱風の下だぞ。帰って来るのを待っていたほうが」


「陽華だって外にいるんだ」


 陽樹が言った。父は噤んだ。


「俺は、窓の向こうへ行かなくちゃいけないんだ」


 父は目を瞑って唸っていたが、息子を見据えて、ゆっくりと頷いた。


「わかった。気をつけるんだよ」


「……立派になったのね」


 母は目頭を押さえて、泣き出してしまった。


「帰って来たら、みんなでどら焼を食べようね」


 弟に告げ、レインコートを飜す。


「お兄ちゃん」


 階段に足をかけた陽樹を、深樹が引き留めた。


「本当に大丈夫? なんとかなるよね」


 心配するように兄を見上げる。陽樹は訂正した。


「なんとかするんだよ」


 階段を駆け上がり、カーテンを押し開き、窓の向こうへ転がり込んだ。


 でも、ロープを踏んで足を滑らせてしまった。陽樹は急いで起き上がった。ロープが足にからまっている。


「どうしてまたこんな時に!」


 外したロープを、机の引出しに乱暴に突っ込む。ドアノブに手をかけ、ふと立ち止まる。


 陽樹はロープを持って部屋を出た。



 陽華は看板の裏にいた。


 傘はまだ畳んでいない。フェンスから手を離さなければならないからだ。


 陽華は深呼吸をして、フェンスをよじ登りはじめた。手をかける部分にところどころ泥がついていた。陽華がフェンスを降りる際、靴の裏についていたものが移ったのだ。


 髪が濡れて額に貼り付いている。制服は全身びしょ濡れで、腕には鳥肌が立っていた。


「はっ……」


 くしゃみが出そうになって、陽華は咄嗟に口を閉じた。鼻がむずむずする。顔が赤くなる。


 しばらくその場で止まっていると、だんだんと落ち着いてきた。陽華は「ふう」と息をはいて、登るのを再開した。


 陽華の鼻に雨粒が落ちた。


「はっくしゅん」


 くしゃみと同時に、陽華は足を踏み外した。「きゃっ」と声を上げる。下半身が宙ぶらりんになる。フェンスがギシギシと悲鳴を上げ、反りはじめた。左右のフェンスにも力が伝わり、彎曲する。陽華は急いで足をかけ直し、上辺に手をかけた。


 次の瞬間。陽華の左隣で「カチャン」と音がした。フェンスとフェンスの接続部分が、力に耐えかね外れてしまったのだ。


 陽華はフェンスとともにのけ反った。手を離しそうになったが、何とかこらえ、しがみつく。


 また、陽華の隣で「カチャン」と音がした。今度は右からだった。


「ねえねえ、嘘でしょ。待って」


 陽華はフェンスに言った。


 フェンスとフェンスとは、三つの部分でつながっていた。上部と、中部と、下部である。いま外れたのは、右隣のフェンスとの上部の接続である。その前に外れたのが、左の上部。


 きっと、次に外れるのは中部だ。左右どちらが先かは分からないが、陽華がフェンスの上辺につかまっているので、上から順に外れるのだ。


 六つ外れたら最後。今つかまっているフェンスとともに、陽華は川面へ真っ逆さまである。


 とりあえず、陽華は左へ寄ることにした。傘を落とさないよう、慎重に。


「カチャン」と、左中部の接続が外れた。陽華はさらにのけ反った。立っているのが辛い体勢である。彼女は爪先立ちだった。


「カチャン」と、続けて右中部。陽華はそこで、フェンスから足を外してしまった。腕だけでつかまっているような状況だ。真下には濁流。両足が風にぶらぶらと揺れる。


 フェンスはだんだんと川のほうへ倒れ込み、ついには上下逆さまになった。


 陽華は目をぎゅっとつむった。


 フェンスが崖面を叩く。陽華に強い衝撃が伝わった。その反動で、傘が手から離れてしまった。


「あっ!」


 陽華は手を伸ばした。


 フェンスの端っこに、傘の露先が引っかかる。やじろべえのように傘が揺れ動いた。その下に川面が見える。


 陽華はフェンスにつかまり直し、浅い息を繰り返した。


 彼女の真上に「立入禁止」の看板があった。今は天地がひっくり返って、文字も逆さまになっている。「禁」の字の「林」の上に、ちょうど陽華の顔があった。


 右下部の接続が、ギギギ、と音を立てた。

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