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窓の向こうへ行かなくちゃ  作者: 半ノ木ゆか
第7話 颱風の下で
33/41

#33 フェンスを越えて

 陽樹は部屋に戻り、ベッドに寄りかかった。


 ロングヘアーのウィッグを櫛で梳く。さっき、お風呂に入るついでに洗ってきたものだ。


 この髪はプラスチック製なので、静電気で絡まりやすい。毛先から少しずつ梳かしてゆくのがコツである。


「これを被る必要も、もうなくなるんだね」


 陽樹は誰に向けるでもなく言った。雨の音にかき消されて、陽樹自身も少ししか聴き取れなかった。


 ウィッグスタンドに引っ掛けて自然乾燥させる。陽樹はベッドで横になり、それを眺めた。遠くから見ると陽華の後ろ姿のようである。陽樹はくすくす笑い出した。


 お腹を抱えて寝返りをうつ。青いカーテンに目が留まった。陽樹の表情が消えた。


 陽華が「もう知らない」と背を向けて出ていってから、二人は一度も会話をしていない。家の中ですれ違うことはあっても、目すら合せない。二人はまだ仲直りできていないのだ。


 入れ替わりについては、理由を伏せて家族に伝えていた。もっとも、深樹と深華だけは、その理由を知っている様子だった。


 寝ながら伸びをする。手が枕元の何かに当った。手繰り寄せて見ると、今日、学校へ持って行き忘れたレインコートだった。


 近くの壁には、新品の窓ガラスが立てかけてあった。東の窓とぴったり同じ大きさだった。


 天井を見上げる。一面に水玉模様があった。窓についた水滴が室内に影を落としているのだ。雨粒はどんどんガラスにくっつく。窓がガタガタと音を立てている。水玉が、蛇のようにしゅるしゅると床に下っていった。


 陽樹は合羽の袋を抱きしめた。


 もし、これを抱枕にして、布団を被って寝てしまえば、じき夜になる。ここなら雨に濡れる心配がないし、陽華にも謝らなくて済む。明日の昼まで持ちこたえたら、永久におさらばなのだ。


 もし、これを着て学校へ向かったら、通学路のどこかで陽華に会えるだろう。自転車なら、渋滞なんてすり抜けられる。陽樹のほうが、陽華の母より脇道に詳しいし。でも、陽華にどんな顔を見せればいいのか、陽樹にはわからなかった。


 チクタクと時計の音がした。


 陽樹は頭を抱えた。合羽を脇に放り投げる。直後、「ちゃらん」という軽い金属の音がした。陽樹はそちらを見た。


 合羽の入った袋が床に転がっている。そのそばに、キラリと光る小さなものが落ちていた。のっそりと立ち上がって、歩み寄る。陽樹はそれを拾い上げて、息をのんだ。


 ヘアピンだった。桜の花をかたどった飾りがついている。陽華が土手の桜の下で、陽樹にプレゼントしてくれたものだった。


 陽樹はヘアピンをじっと見つめたあと、机の上に置いた。ショートパンツを脱ぎ捨て、自前の服に着替える。レインコートを羽織り、ピンを取って、それで前髪を留めた。



 七姫駅前に突風が吹いた。


 下校中の生徒や学生、仕事帰りの会社員がぞろぞろと歩いている。陽華はそれをすり抜けながら、いつ傘がぶつかるのではないかとソワソワしていた。


 二十分ほど前まで、彼女は高校の近くのバス停にいたのだ。


 でも、この颱風のせいか、来るバス来るバス満員ばかり。人混みの苦手な陽華は、陽樹の家まで歩いて帰ることにした。


 車で迎えに来てもらおうとも考えたが、電話をかけることができなかった。バスを待っているあいだずっと携帯をいじっていたので、電池が切れてしまったのだ。


 ときおり、歩行者橋廊ペデストリアンデッキに強い雨が叩きつけた。女子高生たちがきゃーきゃー言いながら屋根の下に駆け込む。


 右脇を紺色の傘が通る。陽華は桜色の傘をかしげた。すると、左脇のビニール傘にぶつかってしまった。傘越に相手の顔が見える。


 陽華は「ごめんなさい!」と目を瞑って言った。傘の柄を抱いて足早に去る。そうして、川のほうへと逃げていった。


 土手には陽華しかいなかった。陽華は息を弾ませながら川面を見た。


 コーヒー牛乳のような色だった。水嵩も増している。風に吹かれていた岸の草が、今は濁流のなかで揺れていた。


 上流に向かって歩いてゆく。周りに障害物がないので、強い風をもろに受けた。陽華は傘が裏返らないよう、風上に石突を向けていた。


 風向きが変った。傘の持ち方も変える。でも、柄から手を離した一瞬のすきに、風が傘をさらっていってしまった。


「あっ」


 陽華は思わず声を出した。


 傘が宙で一回転する。背景に青白い大きな雲が広がっていた。桜色の傘が飛んでゆく。空には他に何もなかった。


 傘がだんだんと高度を下げてくる。落ちてくるところを捕まえようと、陽華は土手を走っていた。傘が降り立った。陽華がやって来る。その間に、緑色のフェンスが張ってあった。


 陽華はその向こうを見た。堤防改修の工事現場である。台風で作業は中断しているらしく、誰もいない。


 傘は手が届く距離にある。陽華はぬかるんだ地面にしゃがみ、フェンスに指先を挿し込んだ。傘の手元にちょんと触れることができた。でも、穴が小さすぎて取り出せない。


 陽華はフェンスに沿って歩いた。途切れ目なく続いている。すぐ、真新しい注意書きを見つけた。青い看板に「立入禁止」の赤い文字。降り注ぐ雨で表面が濡れている。


 フェンスに足をかける。靴先を器用に使い、よじ登った。乗り越えるとき、土手の切株を見下ろした。陽華は唇を舐め、フェンスの向こうに降り立った。


 看板の裏側が目の前にあった。フェンスにしがみつきながら、ゆっくりゆっくり蟹歩きをする。看板を過ぎると、フェンス越しにさっきの切株が見えた。


 陽華が歩いているのは崖っぷちである。人がやっと歩けるほどの、ほんのわずかな幅しかない。足元のずっと下で、増水した川が音を立てながら流れてゆく。


 傘のすぐ近くまでやって来た。露先がフェンスにひっかかって、都合よく落ちないでいる。陽華はその場でじわじわとしゃがんだ。地面の泥に深い足跡がつく。彼女が引っ張るので、指を絡ませたフェンスがギギギと音を立てた。


 片手をフェンスから離す。ドキドキと陽華の鼓動が速くなった。傘の柄をつかみ、やっと立ち上がった時だ。


 足元が崩れた。陽華は「きゃっ」と悲鳴を上げて、両手でフェンスにしがみついた。泥の塊が落ちていき、濁流に飲み込まれた。


 川はごうごうと音を立てている。


 陽華は傘をしっかりと握っていた。彼女の口から「はあ」と力のない溜息が漏れた。

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