#32 バス停
陽華は自転車の鍵を弄びながら外に出た。鼻先で雫が跳ね、校舎内に引っ込む。陽華は土砂降の雨と自転車の鍵とを見比べた。つまんで持つと、どら焼型のキーホルダーが振子になった。陽華は鍵を制服のポケットにしまい、桜柄の傘を開いた。
バス停には長蛇の列ができていた。高校の生徒や先生が傘をさして順番待ちをしている。雨が横殴りなので、屋根の下にいる人も傘をささねばならなかった。
四車線の道路を自動車が途切れることなく行き交っている。大きなトラックが目の前を通った。ショートヘアーのウィッグがなびいて、陽華は頭をおさえた。
バスがやって来た。早くから待っていた人は、ホッとした様子でICカードをかざし、乗り込んでゆく。列がじれったく進む。
次第に車内が混雑し、バスのドアも閉ざされてしまった。小さくなってゆくバスを見送って、陽華は溜息をついた。
自動車が行き交う。びしょ濡れの道路に、短命なわだちが生れては消えていった。列の人々は、みんな携帯電話をいじっている。陽華もそれを真似た。ふと、目が留まる。ズボンが濡れて、裾の部分だけ色が濃くなっていた。
「くしゅん」
陽華は口元をおさえた。
二台目のバスがやって来た。「シュー」という音を立てて扉が開く。吊革につかまっていた人たちが、まだ乗れるよ、と濡れた床面をあけ渡してくれた。列の前から六番目にいた陽華は、カードをポケットから取り出し、構えた。
でも、五人も乗り込むとバスはいっぱいになってしまった。陽華の前に並んでいた女子生徒は、ドア越しに申し訳なさそうな顔を見せた。陽華はカードをしまい、笑って見せた。
結局、二台目のバスにも陽華は乗れなかった。
車が行き交う。雨風はますます強まり、タイヤが大きな水しぶきを上げる。バスを待つ人は、傘が飛ばされないよう、しっかりと柄を握っていた。
交叉点の横断歩道を色とりどりの傘が渡っていった。陽華はそれを羨しそうに眺めていた。
陽華は自分の腕を見た。鳥肌が立っていた。制服のズボンは膝まで濡れている。
列の後方にいた男子生徒が、道路の先を指さした。三台目のバスが、時刻表より大幅に遅れてやって来たのだ。
ドアが開いて、陽華は言葉を失った。ほとんど満員だった。あと一人、乗れるかどうかという状態である。
陽華が乗るのをためらっていると、サラリーマン風の男性が彼女の顔を覗き込んだ。今まで、陽華のすぐ後ろで待っていた人だった。
陽華はふと思い出して、「どうぞ」と言うように、扉を手のひらで指した。男性は会釈してバスに一人乗りこんだ。運転手が目視で確認し、ドアを閉める。バスはまた遠ざかっていった。
雨脚はさらに強まった。車がワイパーを盛んに動かしながら、大きな水しぶきを上げて陽華の前を通り過ぎた。傘を盾にして、それを被るのは免れようとしたけれど、間に合わなかった。ズボンもワイシャツもずぶ濡れになってしまった。陽華はむすっと口を結び、道路の先を見た。バスは見えなかった。
濡れた手を湿ったハンカチで拭き、携帯電話を取り出す。電源釦を押すが、画面は真っ暗なままである。電池切れだった。
四台目のバスがやって来た。車内の様子に、陽華は眉をハの字にした。今にも車体がはち切れそうだった。
ドアが開く。ドア付近に立っていたおばさんが、バスから足を踏み外しそうになる。自分の後ろにいた人たちに向き直って、陽華は「どうぞ、どうぞ」と言うように、笑って明け渡した。
笑顔のまま後ずさり、ある程度離れると、前を向いて逃げるように去っていった。途中、「くしゅん」とくしゃみをする。人混みも寒いのもキライな陽華だが、今回は寒いほうを選んだのだった。
*
「ただいまあ」
玄関で聞こえた声に陽華の父が駆けつける。
「陽樹くんお帰……どうしたのそんなびしょ濡れで」
「自転車で帰ってきました。合羽は家に置きっぱなしでした」
ロングヘアーのウィッグから水を滴らせている。
父は「これだから男の子は」というような表情で陽樹の鞄を奪った。
「教科書なんかは向こうで乾かしておくから、きみはお風呂に入りなさい。まずこれで頭を拭いて。風邪引くよ」
「はあい」
受け取ったタオルに髪の水分を吸わせる。「やっぱりママに似てるな」とひとりごとを言いながら、洗面所に入る。
バスタオルで頭を拭きながら、陽樹が洗面所から出てきた。体からは湯気が立っていた。
「あの、これ、陽華の服だと思うんですけど」
ショートパンツ姿でリビングに入る。見慣れた顔を見て、陽樹は立ち止まった。
「あら、はるくんお帰りなさい」
深樹とその母がテーブルで料理をしていた。おそらく、どら焼を作っているのだろう。
「……どうしてここにいるの? 陽華の家なのに」
バスタオルで白い太ももを隠し、陽樹は尋ねた。母が答える。
「お別れ会の準備。こっちで開くことになったの」
「お兄ちゃん、おかえり」
深樹が静かに言った。陽樹は無言で頷いて、階段へと消えた。
窓に入ろうとすると、カーテンの隙間からヌッと男の顔が覗いた。陽樹は尻餅をついた。
「はるくん、お帰り」
「……パパ!」
陽樹の父が段ボール箱を持って降り立った。箱の中身は紙の花である。父は言った。
「前日ギリギリまで入れ替わってるなんて、きみらは愉快だね。おっ、その服似合ってるよ」
陽樹は目をぱちくりさせながら、彼が手を振って部屋を出てゆくのを見送った。陽樹はカーテンをめくった。
カーテンの先は暗い。二メートルほど先に、陽樹の部屋の窓が見える。二つの窓の間にはアルミ製のはしごが架かっていた。
陽華は「離れるのが、どんどん速くなってる」と言った。
世界と世界がすれ違うのに、正の加速度が生じていているのだという。橋の幅がゼロに近づくにつれて、窓と窓の遠ざかるスピードはぐんぐん増してゆくのだと語っていた。
陽樹は四つん這いではしごを渡り、自分の部屋に降り立った。
陽樹の家はしんとしていた。ただ、雨が屋根を叩く音がする。その中に、ひっそりと人の息づかいが聴こえてきた。陽樹はゆっくりと階段を降り、一階を覗いた。
深華がテーブルの席に着き、一人で部屋の飾りを作っていた。専用の紙を折って作る、紙の花である。ピンクや白、水色に黄色と、色とりどりの花に囲まれている。まるで、花畑にたたずむお姫様のようだった。
陽樹の踏み込んだ足が、ぎい、と床を鳴らした。深華が薄暗闇で顔を上げ、言った。
「陽樹お兄ちゃん、お風呂出たんだね」
窓一面に水滴が附いていた。その奥で、庭の植木が強風に揺さぶられている。
陽樹は湿った地毛を触って、尋ねた。
「陽華はどこにいるの」
「それが、まだ帰ってなくて」
深華は不安そうに言った。
「ママが迎えに行ったんだけど、この台風でそこら中が渋滞だし。それ以前に、携帯が繋がらなくて、お姉ちゃんが今どこにいるのか検討もつかないし。……学校を出たことは、先生に訊いてハッキリしてるんだけど」




