#31 何とかするの
午後の土手を一台の自転車が走っている。空は曇っていた。残暑続きの近頃にしては、少し肌寒かった。
自転車を漕いでいるのは、男子高校生のふりをした女子高校生。もとい、陽樹の恰好をした陽華である。
河岸にクレーン車やパワーショベルが見えた。土手で工事をしているのだ。陽華の走っている一本道の、すぐ脇にフェンスが張ってある。陽華は自転車を降りた。
押して歩いてゆく。フェンスには「立入禁止」と書かれた、 横幅一メートルくらいの金属板が固定されていた。青い枠で縁取られている。文字は赤色の丸ゴシックだった。どちらも色褪せていない。板の表面には傷一つない。
陽華は自転車を置いた。フェンスの向こうを眺める。対岸には白い霧がかかっていて、よく見えない。でも、川のこちら側なら見通せた。パワーショベルで掬った土砂を、ダンプカーの荷台に載せている。土を崩す音が、地響きのように地面を伝って陽華の足元まで届いた。
陽華は真下に目をやった。断崖絶壁。ここから落ちたらひとたまりもないだろう。彼女はクラクラして、「立入禁止」の板に手をかけた。表面が凹み、ベコッと金属っぽい音を立てた。
少し歩くと、工事の説明板があった。読んでみると、台風対策の堤防工事であるらしい。開始日は今月。まだ始まったばかりだった。
そろそろ戻ろう、ときびすを返す。足の裏に違和感を覚えて、後ずさる。地面に妙なイボがあった。陽華は首をかしげ、それを目で辿ってみた。すぐ隣に大きな切株があった。イボの正体は、木の根っこだったのだ。
そして、陽華は気づいてしまった。切株の周囲に桜の葉っぱが散らばっていた。
「どうして、こんなこと」
陽華は膝から崩れ落ちた。切株は、あの桜の木だったのだ。あの木陰で、何度も陽樹とどら焼を食べたのに。工事の邪魔になるので、切ってしまったのだろう。
陽華の上空を風が吹いた。葉っぱのさざめきは聞こえなかった。もっとずっと高い空を、雲が一面、無言で流れている。
切株は、陽華の膝ほどの高さしか残っていなかった。彼女は断面には触れなかった。冷たくなった樹皮をそっと撫でた。
*
「ただいまー」
玄関の扉の閉まった。靴を脱ぐ音がする。
「あら、陽華ちゃん。お帰りなさい」
リビングにやって来た制服姿に、陽樹の母が微笑む。当人は苦笑した。
「何言ってんの、ママ。俺だよ」
「……そう」
アイロンがけ中の母の脇を通り過ぎる。アイロンから「はあっ」と、人間が息を吸い込むような音がした。母は振り返って呼びかけた。
「あ、そう言えばはるちゃん」
「何ですか? ……あっ」
陽華は自分の口を隠した。今度は母が苦笑した。
「十七年間育ててきた息子だもの。間違えるわけないじゃない」
そう言ってアイロンをスタンドに戻す。陽華はおそるおそる鞄を下ろした。母は彼女の目を見て、言った。
「陽華ちゃん。……はるくんのことで、お話したいことがあるの」
*
陽樹は外にいた。
夕日が背中に沈んでゆく。長い黒い自分の影を見つめながら、彼は歩いていた。
ふと、影が見えなくなった。振り返ると、夕日が雲に隠れている。西の遠くの空に、横長の褐色の雲が寝そべっていた。陽樹の周囲は薄暗くなっていた。
「明日は雨だな」
陽樹は呟いた。
彼は、一軒の家の前で立ち止まった。表札には行書で「片岡」と書いてあった。塀の向こうから犬がワンワンと吠えかける。
陽樹は呼鈴を鳴らした。「はあい」とくぐもった少女の声が聞こえる。スリッパで廊下を駈ける音。
玄関を開けたのは夏海だった。彼女は陽樹を見た途端、黙った。陽樹は軽く手を上げて、挨拶した。
「ちょっと遊びに来た」
夏海は彼を睨み、「入って」と言った。
「ありがとう」
門を開け、犬の頭を撫でる。
「やあシンちゃん、久しぶり」
きなこ色の尻尾を振る。犬は嬉しそうだったが、陽樹は悲しそうだった。
「まだ、おばさんもおじさんも帰ってこないから。私の部屋で待ってて」
夏海は台所で食事の用意をしていた。彼女はまだ制服姿である。近くの床には学校の鞄が放ってあった。テレビはつけっぱなしで、夕方のニュースが流れていた。
陽樹は階段を登った。
ドアを開けると、寒色系で統一された小綺麗な部屋に出た。陽樹の部屋よりもっと小さい。カーテンは青色だが、彼の部屋のような濃い色ではない。もっと深くて澄んだ、海の色だった。
「お待たせ」
夏海が来た。陽樹は部屋の真ん中にちょこんと正坐していた。
「今朝から変に寒いから、温かいのを」
丸い座テーブルにマグカップを置く夏海。紅茶のいい香りが漂って、陽樹の鼓動が速くなった。彼は赤面した。
「……悪いね」
「あんたが忙しい時間に押しかけて来たんでしょう?」
香りが搔き消えた。
二人はテーブルを挟んで向き合った。階段からテレビの音が流れてくる。ニュースの話題は、西日本で猛威を振るう台風だ。強風で物が壊れたり、河川が増水したり、被害はひどいものらしい。
「今日、陽華ちゃんが学校に来てたよ」
夏海が言った。陽樹は俯いて、ぽつりぽつりと言った。
「おととい、秋兎と喧嘩したんだ。『勉強を頑張る』って俺が夏休みに宣言して、秋兎はそれを応援してくれて。でも、それを裏切っちゃった……悪いのは俺のほうなんだけど」
「悪いと思ってるなら、どうして謝らないの?」
夏海が言った。
「どうして自分だけ逃げて、陽華ちゃんに押しつけるの」
「それは、秋兎が――」
「卑怯者」
夏海が静かに言った。陽樹は固まった。何も言えなかった。
彼女は繰り返した。
「卑怯だよ。ほんとに卑怯だよ。あんた、いつからそんなになっちゃったの? 何も考えずにどんどん行動して、未来のことは知らんぷり。はたからは行動力があるように見えるけど、その場だけの突発的なもの。自分の行動に責任感がない」
陽樹の背筋が石像のように硬くなった。
「それでいて、普段は天使みたいに優しい声で囁く。私も、正直言って、あんたの優しさには何度も騙されそうになったよ。でもそれは、侠気に裏打ちされてない単なるハリボテ。ほんとうのあんたは、何もできやしない。いつも殻に閉じ籠って受身でいる。――あの時もそうだった。傘を壊されて、めそめそしていたくせに」
夏海の声で紅茶が波打った。陽樹の肩が震えていた。彼の目に涙が溢れた。
夏海は鋭い目つきで陽樹を睨んでいたが、しばらくして、陽樹の隣に坐った。
「いつまでも籠ってちゃダメ。外に出なくちゃ」
言葉は優しかったが、表情はきついままだった。
うん、うんと陽樹は頷いた。頷くたびに、ぽったんぽったんと雫が落ちて、ズボンの膝に染みをつくった。
彼女は続けた。
「あんたらしくないって言ってるの。私が傘をあげたあと、はるき、いじめっ子に立ち向かっていったよね? 逃げずに、自分から行動したよね。あの井上陽樹はどこへ行ったの」
陽樹は初めて顔を上げ、訊ねた。
「何とかなるかなあ……?」
夏海は首を横に振って、訂正させた。
「『何とかなる』んじゃないよ。井上が、『何とかする』の」
階段のおくからテレビの音が絶えず流れている。ニュースは気象情報に切り替っていた。
スーツを着た気象予報士が、天気図の前で注意喚起をする。
「この台風は明日の夕方、関東地方に最も接近するでしょう。近隣にお住まいの方は、外出を控えてください」




