#30 ばらばらばら
午前授業のおわりを告げるチャイムが鳴った。
二年七組の教室で、秋兎は頰杖をついて紙袋の中身を覗いていた。高級そうな紫色の袋で、金色の和柄が描いてある。
彼は顔をあげて、遠くの席の陽樹を眺めた。
「井上」
夏海が陽樹に声をかけた。テストの結果に見入っていた陽樹は、慌てたように答案を机に伏せた。
「どうしたの? 安月夜」
引きつった笑顔でその場を立つ。夏海は陽樹について教室を出た。小声で心配そうに訊ねる。
「陽華ちゃん、大丈夫だったの?」
彼は廊下を歩きながら、ああ、と思い出したように頷いた。
「うん。ピンピンしてたよ」
夏海はホッとしたように溜息をついた。陽樹が「あっ」と声をあげ、立ち止まる。
「そう、陽華たちのことなんだけどね」
夏海は彼の顔を見て、首をかしげた。
中庭のベンチで、二人は隣合って昼食をとった。
夏海は箸を置き、言った。
「そっか……じゃあ、夏漣くんとも会えなくなるんだ」
調理実習室のほうを見る夏海。俯いていた陽樹が、決心したように顔を上げた。
「でも、当日だって正午までは行来できるでしょ。実は今朝、『陽華の文化祭へ遊びに行こう』って、秋兎と約束したんだ」
夏海は陽樹を見た。彼はどら焼の袋を握りしめ、言った。
「もしよかったら、安月夜も、どうかな」
彼女はウンウンと頷いた。
「いいんじゃない? みんなで行ったら楽しそう」
「えっと、あの、そういう意味で言ったんじゃなくて」
陽樹があたふたしながら立ち上がる。
「俺が言いたかったのは、その、二人で廻りたかったんだ。文化祭を、キミと」
言葉はしりすぼみに小さくなった。彼は顔を赤らめて、自分の唇をなめた。
きょとんとしていた夏海は、聞き終わって、手を差し出した。
「いいよ。一緒に廻る」
夏海の口角が上がった。陽樹はびっくりしたような、嬉しいような表情を見せた。二人は手をつないで歩きだした。
廊下を歩く二人。
生徒が三、四人、二年七組の教室からぞろぞろと出てきた。
「それ、マジ?」
夏海の脇を男子生徒が歩き去る。
「ほんとほんと。新学期セールとかで、購買の品物が値引だって」
陽樹の耳に、女子生徒のそんな声が入る。
「和菓子なんて全品半額だってさ」
行こう行こう、と駆け抜けてゆく皆。
教室に夏海が踏み込む。でも、陽樹は皆の背中に釘付けだった。
「購買で、どら焼が……半額?!」
陽樹がパッと夏海の手を離し、引き返してゆく。
夏海が「あっ」と声を漏らす。陽樹の姿はすでに見えなかった。
彼女は手を握りしめ、目を吊り上げた。
教室では、秋兎が友人の帰りを待っていた。陽樹の机から、ひらひらと答案が舞い落ちる。彼はそれを「よっ」と空中でキャッチした。
ふと、赤い丸印に目が留まった。答案をよくよく見て、秋兎は絶句した。
陽樹がニコニコしながら戻ってきた。どら焼を沢山胸に抱えている。
一方、秋兎は腕組をして陽樹を睨んでいた。
「秋兎。どうしたの? そんな怖い顔して」
陽樹が笑いながら訊ねる。
「どうしたもこうしたもねえ。こんな高いもん買って損したわ」
秋兎は紙袋を突き渡した。袋は陽樹の胸に当って、床に落ちた。中身が飛び出る。陽樹はそれを拾おうとして、気づいた。銘菓のどら焼だった。
「陽樹が『頑張る』というから、応援したのに。結果が出たら、祝ってやろうと思ったのに。こんな裏切はないだろう」
秋兎の手には陽樹の答案があった。赤いペンで丸が書いてある。でもそれは、正答を意味する「○」ではない。零点の「〇」だった。
「『何とかなる、何とかなる』って、全然なんとかなってないじゃないか」
陽樹の世界から音が消えた。
*
陽樹は自分の部屋で体育坐りをしていた。顔を自分の膝に押し当てたまま、一言も発しない。
陽華は彼の隣に坐っていた。彼女は訊ねた。
「つまり、秋兎くんに叱られたの?」
陽樹は頷いた。そして言った。
「陽華にしばらく、また入れ替わってほしい」
陽華は小さく息を吐いた。
「叱られて、凹んで、それで『会いたくない』って……まるで赤ちゃんだよ。陽樹らしくないよ」
陽樹は返事をせず、指示した。
「陽華の制服と鞄を、俺のベッドに置いといて。俺のやつは、もうそっちに置いてある」
「ちゃんと会って、謝らなくちゃ」
陽華が彼の手を取る。陽樹はその手を振りはらった。陽華は動きを止めた。
彼は言った。
「陽華には、俺の気持なんてわからないよ」
彼女は立ち上がり、目に涙を浮かべた。
「もう知らない」
陽華が窓の向こうに消える。部屋はしんとした。学校の鞄と女子用の制服が、ベッドの上に無造作に置かれていた。
陽樹は下を向いたまま、紫色の紙袋に手を伸ばした。中に入っていた箱を開けると、どら焼が目についた。詰合せだった。みな、落ち着いた白色の紙に包まれている。
陽樹はその中から一つ手に取って、包装を外した。びりびりと乱暴に破いた。
小さな口でひとはみする。咀嚼する。
「全然おいしくない……甘ったるい」
餡子のかおりが充満して、残暑の熱気と混ざった。日めくりカレンダーは九月三日だった。
部屋の外から、深樹がそれをこっそり見守っていた。なんと声をかければいいのか、弟の彼にはわからなかった。
一方、陽華は和風カフェにいた。
「そう。そんなことが」
秋卯が陽華の頭を撫でる。長い髪がはらりとこぼれた。
夏漣がお盆を持って畳に坐っている。彼は半分、諦めたように俯いた。




