#27 木蔭と休憩
夏休みの或る日。
夏海は段ボール箱を抱えて階段を登っていた。二箱を重ねており、視界が遮られる。一段上がるたびに、中から「カタン」とか「ちゃぷん」という音がした。
彼女は一段々々ゆっくりと登っていた。
「持つよ」
そんな声とともに、脇から腕が伸びてきた。夏海の手元がヒョイと軽くなる。視界も開ける。誰かが二箱をいっぺんに奪ったのだ。
彼女は拍子抜けたように隣を見た。陽樹が段ボール箱を抱えて、今にも潰れそうになっている。
「ぜんっぜん重くないよ!」
彼は汗を流しながら言った。夏海は溜息をついて、一箱奪い返した。
「ばかみたい」
陽樹は「ふう」と息をはいた。二人並んで階段を登る。一人のときより登るのが速くなった。
「これ、どこまで持ってくの?」
陽樹が訊ねた。夏海は「教室まで」と答えた。
彼はまた訊ねた。
「中身は何?」
彼女は、答える代りに言った。
「開けたらわかるよ」
箱を教卓に置き、夏海と別れる。
教室では、クラス総員急ピッチで作業を進めていた。黒板には大きな文字で「榛樹祭 9月6日/7日」と書かれている。「榛樹祭」というは、この高校の文化祭の名前である。
「陽樹!」
秋兎が教室に入って来た。陽樹は適当に返事をした。
「にゃーん」
「ペンキと刷毛、届いたか」
「……はい?」
首をかしげる友人に、秋兎は説明した。
「おれたち装飾担当だろ。実行委員によると、もうそろそろ届くらしいんだけど……」
秋兎の目が、教卓の段ボール箱に留まる。陽樹はそれを開けた。
ペンキの缶と刷毛が入っていた。
「いつまでもこのままじゃいけないんだ」
廊下で段ボールを塗りながら、陽樹が真剣な表情で言った。隣で箱を解体していた秋兎は、彼の横顔に訊ねた。
「『このまま』って?」
「それは……いろいろだよ」
陽樹はちょっと弱気な声を出した。
「体育祭で俺がやらかしたのは、秋兎も知ってるだろ? それから数学と、英語と、古典と、化学と、物理、日本史、地理、」
「勉強全般と言えよ」
秋兎が突っ込んだ。
「ともかく、俺は失敗しすぎなんだ。こんなどうしようもない人間のまま、陽華と別れるのはあまりにも情けないし、すごく恥かしい」
陽樹は刷毛を握って、言葉に力を込めた。
「例えば、テストで77点とるとか……点数を目標にするのはよくないかな。夏休み明けの数学の試験で、基礎問だけはしっかり解くとか。ようするに、時間の許すかぎり、俺は成長したいんだよ」
ブルーシートにペンキがぽたりと滴る。
秋兎は圧倒されたように彼を見ていた。
その時、教室から声がかかった。
「井上くん。今、時間空いてる?」
実行委員の女子生徒だった。陽樹は立ち上がって「大丈夫だよ」と答えた。
彼女はホッとしたように頷いて、言った。
「井上くん、絵が上手だったよね。もしよかったら、当日屋外に設置する、クラスの看板を描いてほしいんだけど……」
陽樹は快く引き受けた。
「モチのロンだよ!」
幅が二メートル近くある、横長のベニヤ板だった。床に寝かせた看板を前に、陽樹は腕まくりをした。刷毛にちゃぷんとペンキをつける。
秋兎はどこかへ行ってしまった。夏の陽の射し込む廊下で、一人看板を描いてゆく。
夏海が手をうちわにしながら歩いてきた。陽樹は汗を拭きながら絵を描いている。彼女は通り過ぎ、一度は教室に入ったが、すぐにジャージを羽織って戻ってきた。
「井上。何か手伝うことある?」
夏海が訊ねる。陽樹は顔を上げ、チョークで引いた線をなぞった。
「看板の、この線から上を青で塗ってほしいな」
「わかった」
刷毛を取った夏海に、陽樹は「ありがとう」と言った。
「別に」
夏海は額にハンカチを当てた。
クーラーの効いた教室で休憩中、秋兎が陽樹に近づいてきた。右手には何やらビニール袋を提げている。
「あっ、秋兎。どこ行ってたんだよ」
陽樹が抗議すると、彼は「ごめんごめん」と言って持ってきた袋を差し出した。
「向かいのスーパーで買ったやつだけど、やるよ」
確認してみると、中身はどら焼だった。
陽樹が「わあ!」と喜びの声を漏らす。
「テスト勉強、するんだろ。それでも食べてがんばれ」
応援する秋兎。陽樹は力強く頷いた。
上履を脱ぎ、靴を出す。
外に出ると、昇降口に日傘をさした少女が立っていた。
「陽華。どうしてここに!」
驚く陽樹に、彼女はいたずらっぽく笑った。
「遊びにきちゃった」
自転車を押し、土手を並んで歩く。二人の背後には入道雲がそびえていた。
「おまつり?」
「そう。夏祭があるの」
土手の桜の下で陽樹は汗を拭いた。陽華は頷いた。
「もしよかったら、陽樹も来ない?」
彼は目を輝かせた。
「うん、行く行く!」
緑色の桜が真下に黒い影を落とす。昊天の映った川面を白鷺がぱしゃりぱしゃりと歩いている。駅周りのビルの谷間から、車のクラクションが微かに聴こえた。
「安月夜も呼んでいいかな」
陽樹が言った。陽華は「うん……いいけど」と、戸惑いつつ返事をした。
「やったー!」とガッツポーズをとる陽樹。
その時、二人の背後から声がした。
作業服を着た三人組が土手の階段を登ってくる。桜の木を何度も指差して、何やら議論をしているらしい。
二人は顔を見合せた。三人が登ってくる前に、陽樹と陽華はその場を後にした。
家に戻って、陽樹は電話をかけた。片手にはジュースを持っている。
「もしもし、安月夜?」
受話器の向こうで、夏海が「何」と返事をする。
「よかったら、また窓の向こうへ行かない? お祭があるんだ」
「お祭?」
陽樹は楽しげに頷いた。コップをテーブルに置くと、氷がカランと音を立てた。
「そう。向こうの世界でも神社で夏祭をやるんだ。一緒に行こうよ!」
夏海はしばらく黙った後、小さな声で「行く」と答えた。
スキップを踏むように階段を登る。二階には熱い空気が溜っていたが、陽樹の表情は清々しかった。
回転椅子に飛び乗る。一周回って机に向かう。網戸の先でミンミンゼミが鳴いていた。
ニコニコしながら教科書を眺めていた陽樹だったが、一分もしない内に頭を抱えてしまった。シャーペンを咥えて、腕を組み、背をもたれて天井を見上げる。
体を起すと、レジ袋が目に留まった。高校の向かいにあるスーパーのロゴが書いてある。中を覗いてみると、どら焼が入っていた。
深樹が兄の部屋の前を通りかかった。扉が全開である。教科書は机に放り出され、兄はベッドに寄りかかってくつろいでいる。
「お兄ちゃん、何してるの」と、弟は心配そうに訊ねた。
「休憩」
陽樹は悪びれる様子もなくどら焼を食んでいる。
「夏休み明けのテスト、大丈夫なの?」
陽樹は目を瞑って言った。
「何とかなるでしょ」




