#26 深樹が……
窓から深樹がジャンプして、黒い橋を飛び越えた。対岸にいた陽樹がそれを受け止めた。
「気をつけてよ」
「ありがとう、お兄ちゃん」
陽樹はベッドに寄りかかり、お餅を食べるのを再開した。
「今日は珍しいね」
深樹が言うと、陽樹は食べながら答えた。
「たまに食べてるよ。どら焼ほどじゃないけど、おいしいから好き」
「お姉ちゃん。長さが足んない」
深華の声がした。兄弟は窓の向こうを見た。
深華が、窓と窓の間にものさしを架けようとしている。彼女が言う通り、ものさしは黒い橋の三分の一にも満たなかった。
「代りなるようなものがあるといいんだけど……」
陽華がノートを眺めながら、顎にシャープペンシルを添える。
陽樹は心当りがあった。
「前に、窓を下ろすのに使ったロープは?」
「それなら使えるかも」
陽華が言った。
「たしか、わたしの部屋にあったと思う! 探してくる」
そう言って、深華が部屋の外に出た。
深樹が、桟に放置されたものさしを指差す。
「頑張れば測れるよ。ぼくの三角定規と組合せて」
陽華が微笑んで言った。
「やってもいいけど、気をつけてね」
陽樹は窓のほうを見て、黒い空間や青いカーテンを眺めていた。
「ねえ陽華。折角くっついたのに、どうしてまた離れちゃうの?」
彼の言葉に、陽華は眉根を下げた。
「私もさみしいよ」
「そういう意味じゃなくて」と陽樹がかぶりを振った。
「さみしいのはもちろんだけど、今のは質問だよ。世界と世界がどうして離れるのかっていう、仕組を知りたいなって」
「素人の考えでよければ」と、陽華は彼のほうを向いた。
「以前はたしか、ミイくんがどら焼で説明してくれてたけど……」
深樹が顔を上げる。彼は、ベッドに腰掛けて自分の筆箱を探っていた。
「お餅でいいかな」
陽樹がお皿を持って、黒い橋を飛び越えた。
「あの時は、どら焼を宇宙に見立ててたよね。今回は、このお餅が宇宙だと思って」
陽華が、包みを半分ほど外しながら言った。陽樹がうんうんと頷く。
彼女は左右の手に一つずつお餅を持った。
「こっちのお餅が陽樹たちの世界。こっちは私たちの世界。二つの世界はとってもそっくりなの。どちらにも地球があって、太陽があって、天の川もアンドロメダも――」
深樹はその話に耳を傾けながら、カチャカチャと三角定規を取り出した。窓に沿わせる。
そして、対岸のものさしを見た。
「私たちは普通、このお餅からは離れられないの。でも、重力だけはお餅の外にも伝わる。二つの世界は、お互いの重力でだんだんと近づいていきます」
お餅とお餅が、ゆっくりとすれ違う。
「世界はこの二つだけじゃないから、力がいろんな方向からかかって、進路が曲がり、正面衝突はしません。そしてついに、去年のクリスマスイブに」
「くっついた!」
陽樹が声を上げた。深樹はものさしに手を伸ばした。
お餅同士の接続部が、びよーんと伸びる。
「この、伸びて細くなってるところが、黒い橋。黒い橋も、お餅の一部には変わりないから、私たちはこの中を自由に行き来できるの」
陽華は、お餅とお餅とをどんどん遠ざけた。お餅が伸びる伸びる。
「ねえ陽華、どうして止まらないの?」
陽樹がお餅を指し、訊ねた。陽華は言った。
「急には止まれないの」
深樹の指は、あと少しのところで届かなかった。ものさしに狙いを定め、身を乗り出す。
お餅の接続部が、伸びると同時に細くなる。
「橋がどんどん長くなって、極限まで細くなったとき、ついに」
「わあっ!」
深樹が悲鳴をあげた。陽樹は駆け出していた。
「深樹!」
パシッと音が鳴った。兄がその手をつかんだのだ。
陽華は立ち上がった。お餅は床にぽとりと落ちた。
ものさしが音もなく落ちていく。暗闇の中でキラリと光を反射させて、そして見えなくなった。真っ暗な世界で、深樹の足が風に揺れる。
兄の脇に入り込み、陽華も深樹の腕をつかんだ。引き揚げようとするが、腕力がない。彼女は眉間に皺を寄せた。
深樹の顔は蒼白だった。自分の身に何が起ったのか、理解するのが遅れたらしい。大きく目を見開いて、自分の足を見た。
陽樹は叫んだ。
「下を見るな!」
深華が戻ってきた。「あったよ」とロープを掲げ、立ち止まる。姉と兄が窓をのぞき込んでいる。
深樹がいないことに気づき、彼女は状況をすべて理解した。
陽樹が歯を食いしばり、足で踏ん張る。その足が、じりじりと布団の上を滑ってゆく。
深華はロープを構えて駆けつけた。
「深華!」
姉はロープに手を伸ばした。でも、妹は無視して、陽樹の腰にロープを巻きはじめた。
「み、ミイちゃん? 何してんの」
陽樹が動揺し、片足を上げる。もう片方の足も浮いた。陽華が「あっ!」と気づいて彼の脚につかまる。全体重をかけて陽樹にぶら下がり、落ちるのを食い止めた。
陽樹の腰にはロープが結びついている。
深華は部屋の向かいへ走った。ロープを思い切り引っ張り、ドアノブに括りつけた。
次の瞬間、バン!とドアが開いた。ロープがぴんと張り、陽樹が宙に浮く。
「わあっ」
「きゃっ」
陽華は床に尻餅をついた。陽樹のほうを見上げる。彼の足はベッドから離れていたが、陽樹がそれ以上窓から落ちることはなかった。
「ミイくん、両手でつかまって」
窓を覗き込み、陽華が手を差し出した。深樹は彼女を見て、それから兄を見た。陽樹は両手で弟の片手を握っている。ベッドにしっかりと立っていた。ロープはたるんでいた。
深樹は口を小さくあけて陽華の手を見詰めていたが、唇をなめて自分の手を上げた。それを陽華が握った。
「せーの!」
兄と姉とで同時に引き揚げる。深華は陽華の腰に手を回し、加わった。
深樹が窓に足をかけた。部屋に降り立つ。それに深華が抱きついた。
深樹はびっくりしたように深華の顔をのぞき込んだ。彼女は目に涙を浮かべていた。
「よかった……ホントによかった……」
「ミイちゃん、ありがとう。お兄ちゃんも、陽華お姉ちゃんも」
深樹が言った。陽樹は腰のロープを解き終えた。
陽華と陽樹は、ほっとしたように顔を見合せた。




