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#25 夏漣のたくらみ

 次の日。


 陽華は廊下の壁に寄りかかって、教室のドアに注意を払っていた。胸には空色の便箋を抱えている。


 今は放課後だ。部活動に向かう生徒や下校する生徒たちで校内は賑っている。陽華はびくびくしながら隣を見た。秋卯が「大丈夫だよ」と陽華の手を握った。


 教室から三人組の男子高生が出てきた。そのうちの一人は、他の二人より幾分か背が高く、済ました顔で会話に相槌を打っている。


 夏漣だった。


 陽華は目をつむって深呼吸をした。秋卯がそれを見守る。


 三人組の前に陽華が飛び出した。男子たちはギョッとして立ち止まった。夏漣の前に立ち、おろおろする陽華。


「はっ」と息を飲み、陽華は思い出したように手紙を差し出した。


「あの、昨日のこと!」


 沈黙が流れた。


「お前宛だろ」と、夏漣の友人が顎で促した。夏漣は便箋を受け取り、読みはじめた。通行の邪魔にならないよう、廊下の端に寄る。


 陽華はドキドキしながら返事を待っている。読み進めるうちに、夏漣の表情が変った。口元を綻ばせる。


「ありがとう、陽華さん。今すぐ行こう」


 それを聞いて、陽華は安堵の溜息を漏らした。


冬璃とうり露弥つゆみ。悪いが先に帰ってくれ」と、夏漣が友人たちに言った。二人は頷いて、歩きながらしゃべった。


「どこへ行くんだろう」


「さあ」


 秋卯が出てきて、陽華の手をとった。


「できたね、陽華。伝えられたね」


 陽華は「うん」と頷いて、赤い目をこすった。


「なんだ、久保田。知っていたのか」と、夏漣が拍子抜けする。「きみが僕に伝えれば早く済むものを」


 久保田秋卯はジト目になった。


「結果だけじゃなくて、手段も大切なんですー。これに関しては」


「私も行ったほうがいい?」と、秋卯がいつもの表情で訊ねる。陽華は首を横に振り、夏漣に向き直った。


 小さな声で、つっかえながら言った。


「案内、します」


 二台の自転車が正門をくぐった。


 階段を上がり、夏漣は辺りを見回した。先程とは打って変って校内は静かだった。遠くから絃楽器の音色が流れてくる。


「夏海さんも、もう帰ったのか?」


 夏漣が考え込むように顎に手を当てる。陽華は遠慮勝ちに教室の中を指さした。


 二年七組の教室は、音楽室と同じ四階にある。


 窓際には一人の女子生徒がいた。陽華や秋卯のようなスカートではなく、スラックスを穿いている。夏海だった。


 彼女は何かを思い悩むように外を眺めていた。教室は薄暗く、夏海のほかには誰もいなかった。空には仄白い日光が広がっている。


「何を見ているんだ」


 声に振り返ると、夏漣が立っていた。夏海は二度見した。


「どうしてここにいるの」


 夏漣は親指で自分の背後を指した。


「おやつに誘おうと思ってな」


 引戸が開き、調理実習室に明りが点いた。夏海は左右を見ながら夏漣に続いた。


「勝手に借りていいの?」


「よくない」


 ドン、と調理台に薄力粉を置いた夏漣。夏海は「はあ?」と眉をひそめた。


「『よくない』って……あんた、自分が何をしてるのかわかってるの? こんなところ、調理部に見つかったら」


「調理部は休みだ」


 夏漣は淡々とお菓子を作りはじめた。どうしてここに来たのか、何を作っているのか、夏海が尋ねても、彼はきちんと答えてくれなかった。


「焼いて」


 夏漣がフライパンを寄越す。夏海は眉をひそめた。


「どうして私が。あんたが一人でやればいいじゃない」


 強気に言い返す夏海だが、夏漣も「いいから焼け」と引かない。


 夏海は渋々といった様子でそれを受け取った。


 熱したフライパンに夏漣が生地を流す。


「しばらくすると、生地の表面にぷつぷつと穴が開いてくる。裏返すチャンスだ」


「それくらい知ってます!」


 言った通り、夏海は時機を読んだ。フライ返しを使いこなす。ひっくり返すと、綺麗な茶色の焼目が現れた。


「……上手いな」


 夏漣が感心したように呟く。夏海は鼻を高くした。


「あんたができることは、みんな私にもできるんだから。何でもできるんだから」


 夏漣は餡を練りながら、黙ってそれを聞いている。


 夏海は何枚も生地を焼いた。回数を重ねるうちに、調子に乗ったのか、鼻歌まで歌い出した。夏漣はこっそり微笑んだ。


 二人並んで餡を皮の白い面に塗る。夏漣の作った漉餡である。最後にもう一枚、皮を被せて出来上がりだ。


 湯気立つどら焼を前に、夏海は夏漣へ視線を送った。


「食べないのか」


 彼は無垢な少年のように訊ねた。夏海は迷う素振りを見せたあと、「食べる……もったいないから」と、どら焼をひとつ取った。


 半分に割ると、あんこの香りが調理室に広がった。断面をじっくり見て、夏海はおそるおそるどら焼を食んだ。口がゆっくりと動く。


 突然、夏海の表情が変った。


「……おいしい」


 夏海が笑ったのだ。わずかに口角を上げただけだが、紛れもない笑顔だった。夏漣は驚きの表情を見せた。


「甘くて、なめらかで、ふわふわしていて、本当においしい」


 うつ向きながら、ほほを赤らめながら。


 夏海は一気に半分を食べ終えた。片割れも夢中でぱくぱく。


 皿に手を伸ばす。上目遣いに訊ねた。


「こっちも食べていい?」


「……どうぞ」


 次々と食べ続ける彼女を、夏漣は呆気にとられたように見ていた。


 残りのどら焼もみるみるうちに減ってゆく。しまいには、すっかり平げてしまった。


 夏海は温かいお茶を飲んでいる。顔はいつもの無表情に戻ってしまったが、ほっと息をはいて、和んでいるのはわかる。


 落ち着いたところを見計らって、夏漣が言った。


「実は、僕はきみに話を聞きたくて、今日ここへやって来たんだ。黙ったまま手伝わせてしまって、済まなかった」


 夏海は彼に目を遣った。夏漣は頭を下げている。


「別に……予想と寸分も違わなかったし」


 その言葉を聞いて、彼は顔を上げた。そして続けた。


「おととい、きみは僕たちのことを『憎い』と言ったね」


 夏海の肩がぴくりと跳ねた。


「泣いている自分のそばで笑うなと。笑える僕たちが憎いと。――でも、それは嘘だった」


 夏漣は口だけを動かしている。彼女は言った。


「何が言いたいの」


「僕らが憎いのではなく、さびしいんだろ。ひとりなのが」


 夏海は黙った。何かをこらえるように夏漣を見据えていたが、やがて目を閉じて、ひとつ大きく頷いた。


「ずっと、さみしかった」


 夏海は言った。


「朝起きたら、いつもの自分の部屋じゃないの。それから、目が冴えてきて、だんだんとあのことを思い出して……そっか、あれは夢じゃなかったんだって、わかっちゃう瞬間がすごくさみしい。悲しいより、さびしい。もう何年も経つけど、今でも毎朝。歯磨きしてる時とか、ドアノブに手をかける時とか、日によってまちまちで」


 彼女は淡々と話しているが、声が震えていた。


 夏漣は控えめに相槌を打っている。


「それから、学校。あの事故の直後は、ほんとに病んでて、行く気になれなかった。高校に入ってもまだ落ち込んでて、孤立してたら、変なキャラが一人歩きして、ますますクラスに馴染めないし」


 夏海は悩むように言った。


「気持と行動があべこべになっちゃうの。体がいうことをきかなくて、嫌われるような態度とか、攻撃するような言い方になっちゃう。でも、全部間違いなんだよ。ほんとうは友達を作りたいし、あいつとも、また」


 彼は訊ねた。


「あいつって、誰だ」


 彼女は答えた。


「井上だよ。井上とも、また仲良くしたかった。でも、高校に入ってからは、ずっと冷たい態度を取っちゃって。この前も、あんなことを言っちゃったし。……きっと私、嫌われてる」


「いや、それは違う」と、夏漣が言った。


「パラレルワールドのことを、陽樹くんが今まで秘密にしていただろう。あれは、君が傷つかないよう、君に気を遣っていたんだ」


 夏海は目を見開いた。


「きみに強く言われて、それなりに……少しばかり凹んだはずだが、一時的なもので、問題はない。だから大丈夫さ。彼は夏海さんのことを嫌ってはいないよ」


 彼にしてはゆっくりとした喋り方だった。


 その時、夏海の携帯が鳴った 。文面を確認し、夏漣に告げた。


「井上が……謝りたいって」


「行ってらっしゃい」


 夏海は、ためらう素振りを見せたあと「行ってくる」と、調理室を飛び出した。


 取り残されて、夏漣は言った。


「終ったぞ」


 ギイ、と扉の開く音がした。準備室から陽華が出てきた。二人は黙って視線を交した。


 外はもう随分薄暗かった。


 夏海は一人で住宅街を歩いていた。家々に明りが灯っている。アスファルトを靴が踏みしめる。


 ここに来るのは久しぶりだった。ずっと、彼女が避けてきた場所だ。近づくにつれて、やはりこみ上げてくるものがあった。でも、夏海は歩みを止めなかった。


 道角を曲ると、視界がひらけた。彼はそこにいた。


 草の生い茂る空地の前に、陽樹が緊張した面持ちで待っている。なぜか紙袋を持っていた。


 彼は夏海を見ると、慌てたように袋を背中に隠し、気を付けの姿勢をとった。


 夏海は彼の前で立ち止まり、訊ねた。


「何」


 陽樹は頭を低くして、言った。


「あの、突然呼び出したりしてごめんね。今日は、ちょっと、その、謝りたくて」


「早くして」


「これ、お詫びの気持ちです!」


 陽樹がパッと紙袋を手渡す。夏海はしばらく静止して、何かを言いかけたが、頭かぶりを振って袋を奪った。


「そういう変な気遣いがいらないのよ、バカ!」


 陽樹はおもてを上げ、首をかしげた。夏海は言い直した。


「『ショックを受けるかも』って思って、あえて秘密にしたりとか。定期的にお菓子をすすめてきたりとか。ご機嫌を窺ったりとか。そういうのがウザイって言ってるの」


 しょんぼりしている陽樹に気づき、慌てて付け足す。


「だから、私は、井上のこと……嫌ってないから」


 陽樹の表情が、ぱあっと明るくなった。


「ほんとう?」


「本当よ」


「よかったあ」


 夏海はハアと溜息をついた。


「あんたってほんと単純」


 陽樹がるんるんと歩いてゆく。後ろは振り向かない。夏海はそれについて行った。彼女の口角が少し上がった。


 くさむらの中に枯れた烏野豌豆が横たわっている。暗くてよく見えないが、小さな黒い種が周りに散らばっていた。緑の葉の裏では、揚羽が翅を閉じてすやすやと眠っている。


 澄み渡った西の空には、細い細い上弦の月が浮かんでいた。

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