#24 雨宿り
翌朝。陽樹がリビングでどら焼をやけ食いしていた。左右に四つずつ持って、ものすごい形相で食らいついている。
深樹は呆気にとられて何もできずにいた。
「おはよう」と言いながら階段を降りてきた陽華は、鞄をどさっと落として、驚いて止めに入った。
「そんなに急いで食べたら、喉に詰まっちゃうよ」
陽樹はしばし黙ったが、今度はエンエンと泣き出してしまった。こんな陽樹は初めて見たので、陽華はびっくりしてしまった。
「あらあら、どうしたの? そんなに泣いちゃって」
陽樹の母が心配したように駆け寄る。
陽樹は母の膝で泣いた。
学校では、夏漣が陽華に頼み寄った。
「僕を、窓の向こうへ連れて行ってくれないか」
陽華は鞄を持ったまま、立ち止まった。
「夏海さんのことを放って置けないんだ」
力強く言われて、陽華は怯えた。
「あの、えっと……夏漣くん」
何かを言おうとしたが、言葉が続かない。どうしたらよいかわからない。
「ご、ごめんなさいっ」
しまいには逃げ出してしまった。
「陽華さん」
夏漣は手を伸ばし、呼び止めようとした。でも、陽華はすでに廊下の彼方に消えていた。
彼は手を下ろして、落ち込むように自分の足元を見た。
陽華はバタバタと上履を脱ぎ、靴を履いた。昇降口から飛び出すと、陽華の鼻でポツンと雫が跳ねた。陽華は校舎に引っ込んだ。
雨が降っていた。
陽華は傘を持っていない。鞄を胸に抱えてきょろきょろしていると、見覚えのある傘が目に留まった。
陽樹が外に立っていた。
土手の桜の下で、陽樹が言った。
「今朝は醜態を晒してしまった」
陽華はどら焼を食べるのをやめ、首を横に振った。
「ううん……ちょっと、びっくりはしたけど」
そして尋ねた。
「夏海さんのこと?」
「それもあるけど……黒い橋のこともある」
陽樹は続けた。
「あいつに嫌われたまま、陽華とも別れて……俺は一体、どうしたらいいんだろう」
そして、思い悩むように自分の顔を覆う。
空は灰色だった。雨が枝葉をすり抜けて、時折二人のもとまで滴り落ちた。
陽華は訊ねた。
「どうしてそんなに夏海さんに構うの?」
陽樹は、幹に立てかけていた自分の傘を手に取った。陽華はきょとんとしてそれを目で追った。
「実はこれ、もともと安月夜の傘なんだ」
陽華は目を白黒させた。
「あいつに初めて会ったのは、小学生の時。親に連れられて入った和菓子屋が、あづき屋だったんだ。何度も通ううちに、俺たちは友達になった」
陽樹が口元を綻ばせる。
「この傘は、俺が中学生のとき――あいつの両親が亡くなるより前に、貰ったんだよ」
「どうして」
陽華が口を挟んだ。
「どうして、傘だったの?」
「それは、前の傘を……」
「『前の傘を』?」
今まで楽しそう語っていた陽樹が、急に顔を強ばらせた。口を閉ざし、目を泳がせている。陽華は首をかしげた。
陽樹がやっと絞り出すように言った。
「……前の傘が、壊れちゃって」
陽華が、なるほどと言うように頷く。
「傘が壊れて、家に帰れなくて、昇降口でめそめそ泣いてるときに、声をかけてくれたんだ。傘に入れてくれて、しかも家まで送ってくれた。別れ際に『別のがあるから、この傘はあげる。似合ってるから』って……その時の、あの優しそうな顔と言ったら」
陽樹は、今度は違う意味で顔を覆った。
「すごく優しそうに、笑って、勇気づけてくれたんだ。あの笑顔にどれほど救われたか。だから、俺は立ち直れたんだ」
陽華を見詰めて、言った。
「今の自分があるのは、安月夜のお陰なんだよ」
陽華は無言でその話を聞いていた。
*
陽樹は自室の灯りを消し、ベッドに飛び乗った。陽華の部屋の灯りが窓から射し込み、陽樹のベッドを照らしている。四角い光のなかで、陽華が真剣そうな顔付をしていた。
「何やってるの」
陽樹が身を起すと、彼女はものさしを構えながら答えた。
「窓と窓の距離を測ってるの。離れる速度がわかれば、橋の途切れる日時が割り出せる」
「手伝うよ」
陽樹は陽華に指示され、ものさしの端を押さえた。陽華は彼のほうをちらちらと見た。
ものさしはプラスチック製で、長さは三十センチメートル。黒い橋よりいくらか長い。
陽樹は目盛を読んだ。
「二十……五、六センチってところ?」
「二十五・三〇センチメートル」
陽華が口に出しながらノートに書きつける。書き終えてから、また陽樹のほうを見た。彼女の体は震えていた。緊張しているらしかった。
「……夏漣くんを、そっちに案内してもいい?」
陽樹はものさしから瞬時に手を離し、目を丸くした。
「どうしたの急に! 変なものでも食べたの?!」
突然手を離したので、ものさしが滑った。二人は慌ててそれを押さえた。陽樹が冷汗を腕でぬぐう。陽華は胸に手を当て、目をつむって息をはいた。もう少しで、ものさしを真っ暗な隙間に落としてしまうところだった。
陽樹は改めて尋ねた。
「案内しても構わないけど、本当にやる気なの?」
他人をあんなに苦手としていた陽華が、夏漣と関わろうというのだ。驚いたり、疑うのも無理はない。
陽華は説明した。
「今日ね、夏漣くんに言われたの。『向こうの世界に行きたい』『夏海さんを放っておけないんだ』って。でも……私、怖くて。ろくに返事もせず、逃げ出しちゃった」
陽樹はそこまで聞いて、慎重に頷いた。
陽華は続けた。
「今日、桜の木の下で陽樹が言ったでしょう? 『あいつに嫌われたまま、陽華とも別れて、どうしたらいいんだろう』って。私も同じだよ。陽樹と入れ替ることも、もうじきできなくなる。体育祭にも、人づきあいにも、一人で立ち向っていかなくちゃ」
陽華がものさしを引き寄せ、自分の膝にのせる。
「これは、私が苦手を克服するチャンスだと思うの。完璧には治せないかもしれないけど……一部でも克服できれば、私のためにもなるし、秋卯や家族への迷惑も減るし。成功すれば、夏漣くんはもちろん、夏海ちゃんのためにもなるだろうから。みんなのために、私は変わりたい」
陽華は言い切った。
陽樹の顔に、陽華の影がかかっていた。彼はしばらく俯いていたが、おもてを上げ、大きく頷いた。
「応援するよ。俺も頑張るよ」
陽華が寝支度を済ませて、部屋の灯りを消す。二部屋とも真っ暗になった。
「またね」
陽樹が軽く手を振る。暗すぎて、その姿は闇に紛れていた。
陽華は返した。
「うん、またね」
カーテンの閉まる音がした。




