#23 笑うな
窓の外で雨が降っていた。窓には蛍光燈の光が反射して、美術室の様子が映っている。
「陽樹」
秋兎がとなりから陽樹を小突いた。雨空を眺めていた陽樹は、ゆっくりとまばたきをして、秋兎に虚ろな目を向けた。
秋兎は吹き出した。
「なんて顔してんだよ。お前の好きな美術だろ」
バシバシと背中を叩く。陽樹は前を見た。
二枚式の大きな黒板の前で、美術の先生がデッサンのコツを説明している。陽樹は天井のほうを見て、ふわふわとしている。心ここに在らず、といった感じだ。
「……何かあったのか?」
秋兎が心配するように訊ねる。陽樹は小さく頷くと、眉をハの字にして、語り出した。
授業の終りを告げるチャイムが鳴った。
「そうか。そんなことが」
秋兎が席を立ち、重々しい表情で言った。陽樹は気持を吐き出して、少し身軽になったのか。スケッチブックを抱いて困ったように笑った。
「奇跡みたいに、偶然に出会ってさ。せっかく友達になれたのに。急に別れなくちゃいけなくなるなんて……かなしいよ」
最後のほうは、とても小さな声だった。並んで歩き出して、秋兎はうんうんと頷いた。
「悲しいよな」
陽樹は頷いて、目をうるませた。
「ほら、大丈夫大丈夫」
秋兎が言う。その言い方が、幼い子供をなぐさめるようで、陽樹は余計に大丈夫ではなくなった。
「秋兎ってさ……絶対、俺のこと見下してるよね?」
ぐすんと言って、陽樹が訊ねる。
秋兎は答えなかった。
「……今すぐ別れるわけじゃねえだろ? 何をすべきか考えながら、残りを過ごすことさ」
「あばよ」と手を振って、秋兎が美術室を出る。陽樹はハンカチで涙を拭いて、それを追った。
美術室の外に、秋兎はもう居なかった。代りに、見憶えのあるボブショートが待ち構えていた。
「……安月夜」
突然の登場に、陽樹は困惑気味な様子である。一方、夏海は腕を組み、微動だにしない。
「……安月夜?」
あまりにも静かなので、よくできた作り物だと思ったのか。陽樹はスケッチブックの角でちょんちょんと彼女をつついた。
「私で遊ばないで」
「ひゃあ、ごめんなさい!」
頭を守ってしゃがみこむ。夏海は彼に名刺ほどの小さな紙切を突きつけた。
「これは何」
彼女は無表情で問うた。
まじまじと見て、陽樹が「あっ」と声をあげる。あづき屋のポイントカードだった。
「家に帰って、見つかんないなと思ったら!」
「井上のなんだね」
冷静に言われて、陽樹はスケッチブックで口元を隠した。
「どこで手に入れたの」
陽樹はたじろぎ、誤魔化そうとした。
「昔、お店でもらったのを記念に……」
「むかし?」
夏海が食い気味に繰り返した。
「今年の一月が、あんたにとってはそんなに昔なの? 最新の日付が体育祭当日なのは、つまりどういう意味?」
日付入の赤いスタンプが、カードの桝目にずらりと並んでいる。
陽樹は黙り込んでしまった。引っ込んでいた涙が、目の奥で熱くなった。
「体育祭中、どこに行っていたのか教えなさい。言葉で言えないなら、私を案内して。私をそっちに連れて行って」
夏海の目は、真剣そのものだった。
陽樹は涙を飲んで頷くしかなかった。
*
雨の中を歩く四つの傘があった。陽樹、夏海、陽華、そして夏漣である。
日没までかなり時間があるのに、外は夜中のように暗かった。厚い雲で日が届かないのに加えて、電燈もまだ点いていないから、アスファルトの路面は真っ黒に見える。
陽樹が窓をくぐった時、夏海はわずかに驚いたような表情になった。でも、陽華の顔を見てからは平然とした態度を貫いている。すべてのことを理解してしまったようにも見えた。夏漣に会っても、それが誰なのか、自分とどういう繫りなのか、一瞬でわかったらしかった。
前方をゆく桜柄の傘を、夏海はどんな気持で見ていたのだろう。
角を曲り、視界が開ける。
暗闇の中にひとつだけ、煌々と光るものがあった。
店先の犬小屋。入口の暖簾。壁沿いには茶色い枯草が伏せていた。烏野豌豆だった。
今までジッとしていた夏海が、ふらふらと店に向かって歩き出す。夏漣は彼女を呼び止めようとした。陽華が迷いつつ陽樹の表情をうかがった。陽樹は唇をかみ、何も言わなかった。
夏海は見上げた。幾筋もの雨垂が「あづき屋」の看板に染み込んでいる。
傘を落とす夏海。ぴちゃんと水が撥ねる。黒い傘が水溜りに浸かる。
夏漣の母が店から出てきた。髪の濡れた夏海を見て、ひどく驚く。
「どうしたの? こんなところにいたら風邪を引きますよ」
夏漣の父もやって来て、戸惑いながらも店内に招き入れる。
夏海は二人の顔を見て、店に入る前に、その場で泣き崩れてしまった。
夏漣も陽華も困惑したように陽樹の顔を見た。
陽樹は明かした。
「あいつは中学生のころに、両親を亡くしたんだ」
夏漣が身じろぎする。
「夏漣くんと同じように、家は和菓子屋だったんだけど……そのお店も、火事で燃えちゃって」
あづき屋の壁際で、枯れた烏野豌豆が雨に濡れていた。陽華はハッと息をのんだ。
陽華が道に迷ったときに見つけた、あの空き地。あれは、夏海が以前暮らしていた、あづき屋の跡地だったのだ。
雨があづき屋の屋根を叩く。
三人は和風カフェでテーブルを囲んでいた。夏海はまだ泣き続けている。
「この世界では、お母さんもお父さんも生きていて。温かい家があって。それなのに、どうして私だけ……」
恨むように言う夏海を、陽華はおろおろしながら見守っている。
陽樹はそっと席を立ち、夏漣を部屋の外に連れ出した。夏漣は暖簾を背にして、陽樹の話に耳を傾けた。
「あいつは家族を亡くしてから、ちっとも笑わなくなってたんだ」
そう明かした陽樹は、いつもより切羽詰まっているように見えた。大きなものを飲み込むように、夏漣は一つ頷いた。
「夏漣くんのことを話したら、絶対にショックを受けると思って、今まで遠ざけてたんだけど……こんなことになっちゃって」
言葉に力を込め、頼るように。
「あいつを笑わせたい」
夏漣は、小さな声で「わかった」と言った。
数分後。夏海の前には色とりどりの和菓子が並べられていた。どれも、陽樹が夏漣に作ってもらったものだ。
陽華が口元をおさえ、目をキラキラさせる。
陽樹はハキハキと言った。
「ねえ、みてみてみて。これ、どらケーキ!」
黒いお皿を引き寄せる。夏海は一瞥した。
「向かいの席の、あの、夏漣くんが考えたお菓子だよ。お父さんがOKを出してくれて、目出度く採用されたんだ。ほら、お品書きにもあるでしょ。『どらケーキ』って」
卓上メニューを置き、箸をとる。陽華は口を開け、それを目で追った。
陽樹が至福の声を洩らす。
「たまらないね。見てよ、このやわらかな生地を! 低反発枕みたいでしょ。一口食べてごらん。小豆ソースを果物と絡めると、甘くて酸っぱくて、本当にやみつきになっちゃうんだ」
夏海の目から、ぽろぽろと涙がこぼれる。
どら焼を天に掲げ、ひと喰みする陽樹。
「う~ん、最高。やっぱり、どら焼はあづき屋でなくっちゃね! 部位によって味が変わるんだよ。はじめは、生地から香るほのかな蜂蜜の甘み。一口、二口、かみ切るごとに口の中に広がるの。そして、中心部の漉餡」
陽樹は、どら焼を半分に割った。餡のかおりが店内を包む。夏漣は黙ってその空気を吸った。
「はい、どーぞ」
片方を陽樹が差し出す。
夏海は首を振った。
「いらない」
陽樹の動きが止まる。
「泣顔を見ておきながら、となりで笑うな。たくさん笑えるあんたたちが憎い。もう、二度と顔を見せないで」
陽樹はどら焼を落としてしまった。半月形のどら焼がコロンと畳に転がった。
涙目の夏海を見て、夏漣は唇をかんだ。




