#22 騒ぎのあとに
目指すはテークオーバーゾーンだ。緑のTシャツを着た生徒が駆けてくる。よかった。間に合ったのだ。
陽華が土埃を上げて滑り込み、バトンを受け取った。
ぎりぎりまでスタンバイしていたアンカー代理は、突然の陽華登場に呆然としていたが、駆けてゆく背中を見て、ガッツポーズをした。
「井上さん、がんばれ!」
カーブにいた井上家が、その声に反応した。
「あれって陽樹くんかな?」
父が言った。母がビデオカメラをズームにする。緑のTシャツを来た少女が、ポニーテールをなびかせて迫ってきた。
「……違う」
深華が首を振った。
「お姉ちゃんだ」
三人は声を張り上げた。
「陽華、頑張れ!」
「お姉ちゃん、がんばれ!」
「陽華!」
母が手を振った。カメラから目を離し、直に陽華の顔を見た。通り過ぎるのは一瞬だった。
校舎から三人の先生が出てくる。颯爽と駈け抜ける陽華を見て、しばし呆然とする。保健の先生は、両側から睨まれてしまった。
陽華は陽樹のように、前の選手を抜かすことはできなかった。後ろの選手に抜かされることもなかった。ただ一周、自分のノルマを走り切った。
緑団は三位だった。
秋卯は陽華に「頑張ったね」と言った。陽華は「ごめんなさい、ごめんなさい」と言いながら、秋卯の胸の中で泣いた。
その光景を、夏漣が屋上から眺めている。空は夕焼けだった。彼の背中で、陽樹がくーくーと寝息を立てている。
夏漣は溜息をついた。そして、思いついたようにショルダーバッグからどら焼を取り出した。半分に割り、陽樹の鼻のそばで持つ。
陽樹の小鼻がひくひくと動いた。お目目がパッチリと開き、一心不乱にどら焼にかぶりつく。
「喰ったな」
夏漣が言った。陽樹はぎっくりとして彼の顔を見た。どら焼はもうぺろりと平らげてしまっている。
「い、いくらですか」
陽樹はポケットを探った。しかし、「お金なんてどうだっていい」と返された。
「謝罪会見を開いてもらおう」
*
「しかられちゃった」
キーホルダーを指で回しながら陽樹があづき屋から出てきた。顔は笑っているが、声は沈んでいる。
「結果オーライじゃない? 私は怒ってないよ」
秋卯が軽い調子で言った。陽樹が「うーん」とうなる。陽華は申し訳なさそうに自転車を押していた。
もう日は暮れていた。しかし、星は見えなかった。夜道に電燈が等間隔に浮かんでいた。
「私のわがままで、迷惑を……」
「陽華は悪くないって!」
陽華の頭を秋卯がなでなでする。
「じゃあ、私はこっちだから」
自転車に跨る秋卯を、陽樹が呼び止めた。
「大丈夫? 家の前まで一緒に行くよ」
秋卯は「いいのいいの」と手を振った。
「玄関まで一分もかからないし。それより、二人も早く帰りなさいよ。はるきゅんなんてぶっ倒れたんだから、ちゃんと休まなきゃ駄目」
陽樹は「あっ、はい。わかりました」と、なぜか敬語になった。
秋卯が暗闇に消える。
二人も自転車に乗り、ペダルを漕いだ。ライトが点く。
「秋卯ちゃんってあんな子だったんだね。きのうは、ちょっと変な子だと思っちゃった」
陽樹が言った。陽華が突っ込む。
「私たちのほうが、ずっと変な子だよ」
二人は声をひそめて笑い合った。
陽華が言った。
「でも、そうやって毎日かわっていくんだね。いろんな人と出逢って、お互いのことを知って……私たちも」
青信号が黄色に変わる。二人は減速した。地面に足をつけ、頷く。
「俺たちは、どうなるんだろう?」
信号が赤に変わった。
二人が家に戻ると、深樹が大慌てで玄関にやって来た。
「大変だよ!」
靴を揃える暇もなく、手を引かれる。
陽華の部屋には深華がいた。冷めた表情で陽樹を見遣る。陽樹は心当りがなく、首をかしげた。
深樹が東の窓を指差す。陽華はベッドに飛び乗り、窓の下辺を確認した。
「一日でこんなに離れちゃうなんて、おかしいよね?」
深樹が言った。陽樹は窓を見て、目をしばたかせた。
黒い部分の幅が、今は二十センチ近くあった。橋が明らかに長くなっていたのだ。
「正の加速度」
陽華が言った。三人の視線が集まった。
陽樹の目を見て、彼女は続けた。
「『等加速度運動』って、授業で習わなかった? 時間が経つごとに、動きがどんどん速くなるの。初速度が小さすぎたから、ここまで広がるまで、私でも気付けなかった」
「俺のせいだ」
陽樹が言った。
「昨日、ミイちゃんが気づいてたのに……ごめんなさい」
陽樹がうつ向いた。深華がそれを見て、言った。
「一日だけしか違わないよ」
陽樹は顔を上げた。
「昨日のうちに気づいてたとしても、たぶんどうにもならなかったよ。わたしだって、何にもできなかったし」
深華が諦めるように言った。四人は窓を見上げた。
窓の上辺と上辺も、同様に離れていた。陽華の部屋と陽樹の部屋のあいだに、真っ暗な空が出現していた。
風が上へと吹き抜ける。四人の髪がなびいた。暗闇は高く高く、手が届かないところまで広がっているようだった。
「橋がちぎれかかってるんだ」
陽樹がつぶやいた。深樹が頭をかかえる。
「どうしよう。このままだと、ぼくたち離ればなれになっちゃう」




