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窓の向こうへ行かなくちゃ  作者: 半ノ木ゆか
第4話 桜と共に駈け抜けて
21/41

#21 ほんとうに僕が脱がすのか

「アンカーがいないって、どういうことなんだ」


 校庭の真ん中で陽華のクラスが揉めていた。番の済んだ走者が集まり、しゃがんだまま相談をしていた。


 リレーもいよいよ終盤だった。歓声は衰えるどころか白熱している。


「代理の走者を立てようか」


 誰かが言った。それを夏漣が止めた。


「彼女は必ず来る」


 もう一度、力強く言った。


「今に来る」


 ジャリ、と地面を踏む音がした。議論をしていた生徒たちも一斉に振り向いた。陽華の恰好をした陽樹がトラックに入ってきたところだった。


「ほら来た」


 でも、彼は千鳥足だった。長いポニーテールが左右に不規則に揺れていた。


 秋卯は一人立ち上がり、陽樹と対峙した。でも、陽樹は気づかなかった。目の焦点も定まっていないらしい。


 次の瞬間、彼は石につまづいた。夏漣が口を開けて立ち上がる。支えを失った看板のように、陽樹は顔面から倒れた。


 一同は息をのんだ。


「はるきゅん!」


 保護者席もどよめく。


 秋卯は彼の上体を起こし、揺さぶった。陽樹はガクンガクンと前後に首を振った。でも、反応はない。よく見ると白目をむいている。


「気絶してる……」


 本部の教師陣がざわつきはじめた。


 駆け寄ってきた夏漣に、秋卯は振り向いた。


「救護テントに連れて行かれたら、はるきゅんの女装がバレちゃう」


 数人の先生が駈けてくる。夏漣は陽樹をお姫様抱っこして、秋卯とともにリレーを抜け出した。


「あなたたち、怪我人をこちらに引き渡しなさい!」


 保健の先生が追いかける。でも、二人はすでにトラックの向こう側だった。渡ろうにも、走者がびゅんびゅんと横切ってゆく。なかなか渡れず、もどかしそうにしていた。


 プールの先のひっそりとした木陰で。バケツにたっぷりと汲んだ水を、秋卯が陽樹の顔に勢いよくぶちまけた。夏漣はちょっと心配そうに彼の顔を覗いた。


 陽樹は濡れた顔でまだ目を閉じている。


 二人はそろって頭を抱えた。西の空は赤く染まりつつあった。


 校庭のほうから足音が近づいていた。秋卯は夏漣に目配せした。夏漣は陽樹を抱きかかえ、その場を去った。


「『陽華が出る』って、言っちゃったんだよね」


 秋卯が並んで歩き、ぼそりと言った。ここはプールの裏だ。塀沿いに歩けば校舎を一周して、また校庭に出られる。それまでに「陽華」を連れて行かなければ。


 夏漣は言った。


「もう、本人に頼むしかない」


「番号はわかるか」と、自分のポケットを探ろうとする。しかし、人を抱えたままでは難しい。秋卯が先に、自分の携帯で電話をかけた。


「もしもし、陽華?」


 秋卯は校舎を見上げた。「秋卯、どうしたの?」と、陽華の声が聞こえてきた。


 秋卯はゆっくりと言った。


「陽華、突然で悪いんだけど、はるきゅんが」


 その時、背後から男の声がした。


「見つけました!」


 携帯を耳に当てたまま振り返る。木々の下に人影があった。


 夏漣は秋卯の手を取り、駆け出した。明るみに出る。校舎の南側だった。


 人がまばらになっている。校舎のもう一端まで見通せた。あのかどを曲がれば校庭に出る。でも、そこまで百メートル以上あった。


 秋卯は振り返った。人影が二人になっていた。握りしめた携帯から「陽樹がどうしたの?」と、不安そうな声が聞こえてくる。


「その子たちを捕まえて!」


 保健の先生が言った。受付テントを解体し終えた先生が、困惑気味に二人の前に立ちはだかる。


 秋卯が道を逸れ、校舎に駆け込んだ。不意をつかれた先生は、おろおろしつつ二人を追った。


「校舎は立入禁止だと、あれほど」


 先生が言い終える前に、夏漣が引戸を閉め、秋卯が鍵をかけてしまった。二人の先生も遅れてやって来た。教師三人は「ここを開けなさい!」と、しばらくの間ガラスを叩いていた。


 夏漣はほっとしたように小さく息を吐いた。でもすぐに秋卯を見た。


 秋卯は靴箱に寄りかかり、うずくまっていた。


「すまない。無理をさせた」と、夏漣がひざまづく。秋卯はそれを制し、携帯を差し出した。「もしもし?」と、陽華の声がした。


 夏漣は携帯を取った。


「井上、聞こえているか」


 訊ねたが、返事はなかった。夏漣はハッとして、言い直した。


「何も言わなくていい。落ち着いて聴いてほしい」


 いつもより、少しだけゆっくりとした口調だった。


「至急、着替えて昇降口に来てくれ。陽樹くんが倒れた」


「夏漣くん」


 秋卯が声を絞り出した。


「陽華は体育着、持ってないよ」


「それなら、着替はどこに」


 二人は、床に寝かされた陽樹を見た。


 夏漣がゴクンと唾を飲む。


「ほんとうに僕が脱がすのか」


 陽樹を見下ろし、言った。陽樹はウィッグを被ったまま廊下に横たわっていた。あお向けで寝かせるため、ポニーテールは解いてある。


 腰元にゆっくりと手を添える。夏漣は彼の寝顔を覗いた。


 小さく口を開け、すーすーと呼気を漏らしている。じんわりと汗をかいており、艶かしい。女子にしか見えなかった。


「……私がやろうか?」


 秋卯が詰め寄る。夏漣は振り返って「駄目だ。見てはいけない」と珍しくあわてた。


「あの……」


 陽華がやって来た。二人は固まった。陽華も足を止め、口をぽかーんと開けた。彼女はもう緑のTシャツを着ていた。でも、まだ私服のスカートを穿いている。


「井上」


 夏漣が短パンを投げて寄越した。陽華がそれを受け取る。


「陽華に、アンカーを走ってほしいの」


 秋卯の言葉に、陽華は窓から校庭を覗いた。大勢の人でいっぱいだった。


 陽華は慌てふためいた。体が震えだす。


 陽華の手を、秋卯が握った。陽華の震えが少し収まった。秋卯は陽華の目を見て、言った。


「陽華の悪いところは『止まれない』ところね。小学校から変わってない」


 陽華は息をのんだ。


「些細なことをきっかけに、恐怖がどんどん増幅しちゃう。和菓子のことを語り出して、周りが見えなくなるのもそのせいだし。数学の高速計算も同じことでしょ。どんなことでも、スイッチが入ると暴走して、止まれなくなっちゃう」


「……じゃあ、どうしたら止まれるの?」


「まずね、ブレーキをかけるの」


 秋卯は続けた。


「踏みとどまって。『今、私は慌ててるんだ』って、自覚して。できたら、その場で深呼吸するの」


 陽華は目を瞑り、大きく空気を吸った。胸に手を当て、息を吐き出す。目を開けると、震えは完全に止まっていた。


「次に、スカートを」


 夏漣は二人に背を向けた。上手く穿けば問題はないのだが、念のためである。


 陽樹の頭から鉢巻を外す。陽華がそれを額に当て、後頭部で縛った。


 陽樹はスカートを穿き、横たわっている。


「まずい。あと一周だ」


 外を覗き、夏漣が振り返った。秋卯は「うん」と頷き、陽華に向き直った。


「大丈夫。陽華足が速いんだから。気分悪くなる前に走り切っちゃえ」


 秋卯に背中を押され、陽華は校庭へ飛び出した。

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