#21 ほんとうに僕が脱がすのか
「アンカーがいないって、どういうことなんだ」
校庭の真ん中で陽華のクラスが揉めていた。番の済んだ走者が集まり、しゃがんだまま相談をしていた。
リレーもいよいよ終盤だった。歓声は衰えるどころか白熱している。
「代理の走者を立てようか」
誰かが言った。それを夏漣が止めた。
「彼女は必ず来る」
もう一度、力強く言った。
「今に来る」
ジャリ、と地面を踏む音がした。議論をしていた生徒たちも一斉に振り向いた。陽華の恰好をした陽樹がトラックに入ってきたところだった。
「ほら来た」
でも、彼は千鳥足だった。長いポニーテールが左右に不規則に揺れていた。
秋卯は一人立ち上がり、陽樹と対峙した。でも、陽樹は気づかなかった。目の焦点も定まっていないらしい。
次の瞬間、彼は石につまづいた。夏漣が口を開けて立ち上がる。支えを失った看板のように、陽樹は顔面から倒れた。
一同は息をのんだ。
「はるきゅん!」
保護者席もどよめく。
秋卯は彼の上体を起こし、揺さぶった。陽樹はガクンガクンと前後に首を振った。でも、反応はない。よく見ると白目をむいている。
「気絶してる……」
本部の教師陣がざわつきはじめた。
駆け寄ってきた夏漣に、秋卯は振り向いた。
「救護テントに連れて行かれたら、はるきゅんの女装がバレちゃう」
数人の先生が駈けてくる。夏漣は陽樹をお姫様抱っこして、秋卯とともにリレーを抜け出した。
「あなたたち、怪我人をこちらに引き渡しなさい!」
保健の先生が追いかける。でも、二人はすでにトラックの向こう側だった。渡ろうにも、走者がびゅんびゅんと横切ってゆく。なかなか渡れず、もどかしそうにしていた。
プールの先のひっそりとした木陰で。バケツにたっぷりと汲んだ水を、秋卯が陽樹の顔に勢いよくぶちまけた。夏漣はちょっと心配そうに彼の顔を覗いた。
陽樹は濡れた顔でまだ目を閉じている。
二人はそろって頭を抱えた。西の空は赤く染まりつつあった。
校庭のほうから足音が近づいていた。秋卯は夏漣に目配せした。夏漣は陽樹を抱きかかえ、その場を去った。
「『陽華が出る』って、言っちゃったんだよね」
秋卯が並んで歩き、ぼそりと言った。ここはプールの裏だ。塀沿いに歩けば校舎を一周して、また校庭に出られる。それまでに「陽華」を連れて行かなければ。
夏漣は言った。
「もう、本人に頼むしかない」
「番号はわかるか」と、自分のポケットを探ろうとする。しかし、人を抱えたままでは難しい。秋卯が先に、自分の携帯で電話をかけた。
「もしもし、陽華?」
秋卯は校舎を見上げた。「秋卯、どうしたの?」と、陽華の声が聞こえてきた。
秋卯はゆっくりと言った。
「陽華、突然で悪いんだけど、はるきゅんが」
その時、背後から男の声がした。
「見つけました!」
携帯を耳に当てたまま振り返る。木々の下に人影があった。
夏漣は秋卯の手を取り、駆け出した。明るみに出る。校舎の南側だった。
人がまばらになっている。校舎のもう一端まで見通せた。あの角を曲がれば校庭に出る。でも、そこまで百メートル以上あった。
秋卯は振り返った。人影が二人になっていた。握りしめた携帯から「陽樹がどうしたの?」と、不安そうな声が聞こえてくる。
「その子たちを捕まえて!」
保健の先生が言った。受付テントを解体し終えた先生が、困惑気味に二人の前に立ちはだかる。
秋卯が道を逸れ、校舎に駆け込んだ。不意をつかれた先生は、おろおろしつつ二人を追った。
「校舎は立入禁止だと、あれほど」
先生が言い終える前に、夏漣が引戸を閉め、秋卯が鍵をかけてしまった。二人の先生も遅れてやって来た。教師三人は「ここを開けなさい!」と、しばらくの間ガラスを叩いていた。
夏漣はほっとしたように小さく息を吐いた。でもすぐに秋卯を見た。
秋卯は靴箱に寄りかかり、うずくまっていた。
「すまない。無理をさせた」と、夏漣がひざまづく。秋卯はそれを制し、携帯を差し出した。「もしもし?」と、陽華の声がした。
夏漣は携帯を取った。
「井上、聞こえているか」
訊ねたが、返事はなかった。夏漣はハッとして、言い直した。
「何も言わなくていい。落ち着いて聴いてほしい」
いつもより、少しだけゆっくりとした口調だった。
「至急、着替えて昇降口に来てくれ。陽樹くんが倒れた」
「夏漣くん」
秋卯が声を絞り出した。
「陽華は体育着、持ってないよ」
「それなら、着替はどこに」
二人は、床に寝かされた陽樹を見た。
夏漣がゴクンと唾を飲む。
「ほんとうに僕が脱がすのか」
陽樹を見下ろし、言った。陽樹はウィッグを被ったまま廊下に横たわっていた。あお向けで寝かせるため、ポニーテールは解いてある。
腰元にゆっくりと手を添える。夏漣は彼の寝顔を覗いた。
小さく口を開け、すーすーと呼気を漏らしている。じんわりと汗をかいており、艶かしい。女子にしか見えなかった。
「……私がやろうか?」
秋卯が詰め寄る。夏漣は振り返って「駄目だ。見てはいけない」と珍しくあわてた。
「あの……」
陽華がやって来た。二人は固まった。陽華も足を止め、口をぽかーんと開けた。彼女はもう緑のTシャツを着ていた。でも、まだ私服のスカートを穿いている。
「井上」
夏漣が短パンを投げて寄越した。陽華がそれを受け取る。
「陽華に、アンカーを走ってほしいの」
秋卯の言葉に、陽華は窓から校庭を覗いた。大勢の人でいっぱいだった。
陽華は慌てふためいた。体が震えだす。
陽華の手を、秋卯が握った。陽華の震えが少し収まった。秋卯は陽華の目を見て、言った。
「陽華の悪いところは『止まれない』ところね。小学校から変わってない」
陽華は息をのんだ。
「些細なことをきっかけに、恐怖がどんどん増幅しちゃう。和菓子のことを語り出して、周りが見えなくなるのもそのせいだし。数学の高速計算も同じことでしょ。どんなことでも、スイッチが入ると暴走して、止まれなくなっちゃう」
「……じゃあ、どうしたら止まれるの?」
「まずね、ブレーキをかけるの」
秋卯は続けた。
「踏みとどまって。『今、私は慌ててるんだ』って、自覚して。できたら、その場で深呼吸するの」
陽華は目を瞑り、大きく空気を吸った。胸に手を当て、息を吐き出す。目を開けると、震えは完全に止まっていた。
「次に、スカートを」
夏漣は二人に背を向けた。上手く穿けば問題はないのだが、念のためである。
陽樹の頭から鉢巻を外す。陽華がそれを額に当て、後頭部で縛った。
陽樹はスカートを穿き、横たわっている。
「まずい。あと一周だ」
外を覗き、夏漣が振り返った。秋卯は「うん」と頷き、陽華に向き直った。
「大丈夫。陽華足が速いんだから。気分悪くなる前に走り切っちゃえ」
秋卯に背中を押され、陽華は校庭へ飛び出した。




