#20 走れ陽樹
陽樹は観戦しながら栗饅頭を食べていた。前方に夢中なようで、自分の手元は一切見ていない。
彼の手からひらひらと包紙が落ちる。親指と人差指を擦り合せ、ギョッとして地面を見た。
「危ねーあぶねー」
包紙を拾う陽樹。立ち上がる直前に夏海と目が合い、あわててそれを背中に隠した。
不審がる夏海に新しい栗饅頭を見せる。
「食べる?」
彼女は首を振った。しょぼくれ顔の陽樹。それを見て、夏海は「和菓子は……食べる気になれなくて」と付け加えた。
「そっか……ごめん」
「別に」
二人揃って前を向く。
その時、ざわめきの中から「陽樹!」と呼ぶ声がした。
秋兎が顔を出し、陽樹の腕を摑む。もう片方の手には水色の紙を握りしめていた。
「陽樹、ちょっと来てくれ」
「な、なんだよ急に」
いそいで栗饅頭をポケットに仕舞う。手を出す瞬間、陽樹のポケットから一枚の紙が飛び出した。
地面にぽたんと落ちる。陽樹は振り向かず、雑沓に消えた。
夏海は歩み寄ってそれを拾った。そして目を見張った。
「これって……」
陽樹は秋兎に連れられてプール棟の裏にやって来た。木が生い茂っていて、人目につかない。
秋兎は息を整え、水色の紙を突き出した。体育祭のプログラムだった。
「次、全員リレーだぞ」
陽樹はぽかーんと口を開けた。
「ぽかーん」
「何が『ぽかーん』だ。学校全員リレーだぞ」
「リレーがどうしたっての」
事の重大さに気づかぬ陽樹を、秋兎は問い詰めた。
「陽華さんは、今どこにいる」
陽樹は笑って答えた。
「そんなの、陽華の学校の屋上に決まってるジャマイカ」
「じゃあ、陽華さんの代りに、誰がリレーを走る」
「俺が走る」
「陽樹の出番まで、あと何分ある」
陽樹は空を見て指折り数えた。
「……アンカーだから、まだ一時間以上あるよ。リレーが始まってから学校を出ても、余裕で出られる」
「そうじゃなくて」
秋兎が声を荒げた。
「それは七王子東高校の話だろ? 陽樹は陽樹でも、陽華さんの代理じゃない。お前は、この七姫東高校で、井上陽樹として、リレーの何番目に走るんだ」
陽樹は言った。
「陽華と同じだよ。アンカーだよ」
秋兎が大きく溜息をつく。
「お前一人が、別々の場所で同時に走れるわけないだろ……」
陽樹は腕を組んだ。数秒後、頭を抱えて悲鳴をあげた。
「は、陽華たちに伝えなきゃ!」
個人競技にばかり着目していた彼らは、リレーの存在をすっかり忘れていたのだった。
陽樹は携帯を取り出し、電話をかけた。秋兎が目をぱちくりさせる。
陽樹は真剣な表情で語りかけた。
「もしもし、陽華? 突然で悪いけど全員リレーに――」
しかし、返ってきた声は陽華ではなかった。
「おかけになった電話番号は、現在使われておりません」
二人は顔を見合せた。陽樹が携帯を地面に叩きつけた。
「……パラレルワールドと通話なんてできるか!!」
画面を踏みつけようとする。秋兎があわてて止めた。
「携帯を壊したって、夏漣や秋卯はお前のことを待ってるんだぞ」
そう通りだった。陽樹が二人分を走らなければならないのだ。さもなければ、一年生から三年生、緑団全員に迷惑をかけることになる。
校庭で笛の音が鳴り響く。秋兎は腕時計を見た。
「今、前の競技が終ったところだ。もうリレーの招集が始まってる。陽樹は、初めのほうの走者と走順を替ってもらうんだ」
「ラジャー」
陽樹は回れ右をして校庭を駈けて行った。
入場口付近にはたくさんの生徒が整列していた。緑団の奇数走者の列。前から四番目に桜柄の傘があった。陽樹は夏海に呼びかけた。
「安月夜!」
夏海は陽樹を見るなり目を吊り上げた。
「あんた、これ」
「傘は今度でいいよ」
「そうじゃなくて」
ポケットを探る夏海。取り出す前に陽樹が尋ねる。
「安月夜、第七走者なんでしょ?」
「……そうだけど」
「アンカーを走る気はないかな」
その言葉に、夏海は首をかしげた。
列の前から四番目に、しゃがみ込む陽樹の姿があった。桜の花をかたどったヘアピンをつけている。
首から笛を垂らした女の先生が歩いてきた。ジャージ姿で、走者名簿とボールペンを持っている。陽樹はぎっくりして顔を背けた。
第一走者から順に顔を確認し、名簿にチェックを入れてゆく。第三走者、第五走者。陽樹の鼓動が速くなる。
「もしもし」
確認係の先生が、うつむく陽樹に声をかける。
「顔をあげなさい」
陽樹は言われた通りにした。心臓がバクバクと脈打っていた。
「あなた、アヅキヤナツミさん?」
「はい。ナツミです」
平静を装ってにっこり微笑む。先生は名簿に印をつけ、第九走者にまわった。
陽樹は安堵の溜息をついた。
「女顔がこんなところで役に立つとは」
「ナツミさん、何か言った?」
先生が振り向き、陽樹は首を横に振った。
「いえいえ。何も言ってませんよ。はい」
先生が赤い笛を吹いた。
生徒たちが立ち上がり、トラックの内側へ行進してゆく。
まもなく学校全員リレーが始まった。一年生から三年生まで、この高校の生徒全員が参加する。体育祭最後の種目だった。
保護者席から歓声が沸く。目を凝らすと、井上家の三人がいた。父はビデオカメラを構え、緑のTシャツを着た母はメガホンを持っている。
「はるくん、頑張れ!」
「お兄ちゃん、頑張れ!」
深樹が手を振り、親指を立てて見せた。陽樹も親指を掲げて、ウインクして見せた。
陽樹の出番がやって来た。
トラックに立つと、彼の目つきが変った。陽樹は思考力が弱いし、バランス感覚もない。でも、心に決めたらすぐさま駆け出す、瞬発力だけは持っていた。
第六走者が迫ってくる。陽樹は手を背後に構え、地を蹴った。緑色のバトンを受け取り、鉢巻の結び目をなびかせる。二人をごぼう抜きにし、観衆は大いに盛り上がった。
半周先で待っていたのは、驚いたことに秋兎その人だった。彼は直前まで腕時計とにらめっこをしていた。
バトンを受け取る際、秋兎は言った。
「テント脇に移した」
秋兎は、しようもないミスで陽樹に巻き込まれた。それでも面倒を見てくれる寛大な友人に、陽樹は難しそうな表情で「ありがとう」と言った。
緑色の背中が小さくなる。
手のあいた陽樹は、そのままレーンを外れ、テント脇を目指した。陽樹の自転車が置いてあった。
鍵を差し込み、サドルに飛び乗る。サイドスタンドを蹴り上げると、その反動で、どら焼型のキーホルダーがチャランと鳴った。
「ごめんなさい! 通らせてください!」
観衆が二手に分かれる。陽樹はペダルを漕ぎ、正門を目指した。片づけに掛かっていた受付番の先生が、飛び出してきた自転車を呆然と見送る。
土手は、朝とはすっかり様子が変っていた。日は傾き、青々としていた草木は金色に染まって見えた。これ以上速くは回せないというほど、一所懸命に脚を動かした。陽樹は通学路を爆走した。
太ももの筋肉がパンパンになった。それでも陽樹は階段をかけ登る。自室でウィッグをかぶり、鉢巻をつけ直す。
窓をくぐるとき、陽樹の視線がズン、と低くなった。片足を見ると、黒い隙間にふくらはぎがすっぽりと入っているではないか。
でも、陽樹の頭は沸騰していた。
「今はそれどころじゃない!」




