#2 何がみえたの?
閑静な夜の住宅街。冬の寒さに点々とあかりがともっている。とある家の窓からも、青白い光がもれていた。
どら焼を食べながら、陽華が外に出た。窓の前で待ち構えていた猫が、すぐさま陽華に飛びついた。
「ドラちゃん……おっとっと」
バランスをくずして落ちそうになる。陽華が立っているのは一階の屋根の上。人間がやっと歩けるほどの急斜面だ。
猫を胸にかかえ、どら焼は口にくわえる。やっとあいた片手で壁にしがみつき、事なきを得た。
「あぶなかった。うう、寒いのニガテ」
家の脇をトラックが通り過ぎる。
青毛の猫が床に着地した。ストーブのなかで、オレンジ色の炎が踊っている。陽華はそこから少しだけ離れて、小さな口でどら焼をはんだ。温風にのってあんこの香りがただよう。
小さな部屋は、ひとことで言えば悲惨だった。どこもかしこも物で溢れている。一方では、壁や床にできたばかりの生々しい傷があった。日常的に散らかっているのではなく、ついさっき何かが起ったらしかった。
ある程度片づけられた形跡もあった。床のあいているスペースに、ところどころ本が積み重っている。その一つはサイドテーブルくらいの高さで、上にプレゼント包装の箱が広がっている。中身はどら焼だ。
そこに細い指が伸び、また一つ、また一つと口に運ばれる。
長い髪に隠れて、横から表情をうかがうことはできないけれど、陽華はまつ毛を伏せて時折うなっていた。「うーん」と難しそうな声を洩らす。味わう様子もない。ただひたすら食べ続ける。
背後に気配が立った。
「お姉ちゃん。どら焼なんて食べてる場合じゃないよ」
寝巻姿の女の子だった。青いカーテンの前で、箒とちりとりを持っている。床に散らばっているガラスを集めていたようだった。
陽華がそわそわしながら言った。
「『なんて』って言い方はひどいよ。たしかに、深華の言うことはもっともだよ。でも、私はふざけてるわけじゃないの。おいしいものを食べて不安を紛わそうとしてるだけ。それに……自分の好きなものをそんなふうに言われたら、私だって傷つく。このどら焼が、私にとってどんなに特別かわかる? ただのどら焼じゃないよ。あづき屋のどら焼なんだから。しかも、私のだいすきな漉餡だよ。舌ざわりが最高なの。ふわふわした生地となめらかな餡が絡みあって、舌の上でやさしく溶けてく。この瞬間が、もう……。おくち一杯にひろがる、濃厚さ。小豆の風味を殺さない、ほどよい甘さ。どら焼は、やっぱり漉餡でなくっちゃね」
さっきの表情はどこへやら。どら焼を掲げて目をキラキラさせている。
深華と呼ばれた女の子は、あきれたようにこめかみを押さえた。
「うぅ、お姉ちゃんのどら焼好きは、わたしもよく知ってる。こしあん推しも、わたしはよーくわかったから。そうじゃなくて、わたしなんかに構わなくていいから、ドラちゃんをおいてけぼりにしないで」
陽華のとなりで「ミャア」と青毛の猫が鳴いた。
はっ。そうだった。ドラはあの寒いなか、二人を心配して、一目散に駆けつけてくれたのではなかったか。
「ドラちゃん、ごめんなさい。私、どら焼の話になるとつい夢中に……」
「ドラちゃんが来たってことは、おとなりさん家まで聞こえたんでしょ。相当おおきかったね」
深華が思い出したように言った。
「すごい音だった。雷が落ちたかと思ったもん」
陽華の声はふるえていた。
「下で四人でテレビをみてたら、急にバリバリバリって」
「びっくりしたね」
深華は落ちついている。
「でも外はなんともなかったんでしょ、お姉ちゃん」
「うん……窓から見える範囲は」
「一階もツリーが揺れただけ」
「ふしぎだよね、私の部屋だけ集中炮火されるなんて。ドラちゃんは外から見てたの? ……あれ、ドラちゃん?」
陽華があたりを見渡すも、ドラの姿は見当たらない。
「ああっ、またおいてけぼりにしちゃった!」
「お姉ちゃん! 窓に!」
深華が悲鳴まじりに叫ぶ。目を離したすきに、窓の桟に登っていた。東側の、あの青いカーテンだ。
「ドラちゃん、何がみえたの? 窓の向こうに、何かいたの」
青毛の尻尾がカーテンに消える。
「連れ戻さなきゃお姉ちゃん! ここは二階だよ!」