#19 迷子
「はあ疲れた疲れた」
校庭の隅の木の下で、陽樹がブルーシートにどっかりと腰をおろす。緑色の鉢巻をほどこうとしたのを、陽華が抑えつけた。
「ちょ……何するの陽華。すこしくらい休んでもいいじゃないか」
陽華はぷるぷると首を横に振り、真剣な目で囁いた。
「クラスの人に見つかったらどうするの? 陽樹の女装が知られちゃったら、問い詰められるのは私なんだよ?」
陽華はロングヘアーを帽子の中に隠し、伊達眼鏡をかけていた。それで変装しているつもりだろうか。
「ちょっとヅラを取るだけなのに」
「だめだって」
そのやり取りを、深華と両親が笑いをこらえて見ている。
陽華の父が噴き出した。
「二人で何を企んでいるのかと思ったら……今日、陽華が出たのは準備体操だけ」
陽華がすごすごと座布団の上にもどる。陽華の母が言った。
「別に、怒ってるわけじゃないの。陽華は昔から運動会がニガテだったから。ただ……自分の娘の活躍を、少しでも覗いてみたかっただけ」
うつむく様子があまりに寂しそうだったので、二人は揃って頭を下げた。
「ごめんなさい」
深華が、アルミホイルで包まれたおにぎりを手に取った。
「陽樹お兄ちゃんも、お姉ちゃんも、お疲れさま」
おにぎりをもらった陽華。鉢巻を付けなおし、陽樹も遅れて受け取った。
「じゃあ、食べましょうか」
母が言い、五人は手を合せた。
「いただきます!」
会話が盛り上がってきたころだった。
「食後のデザートはいかがでしょうか」
夏漣が立っていた。黒いお盆を持っている。その上に和菓子が並んでいた。
陽華が口を閉ざす。恐れるように、彼を上目遣いに見る。
「ちょうだいちょうだいちょうだい」
陽樹が飛びついた。
「俺なんか、どら焼も大福も栗饅頭も食べちゃうんだからね」
お菓子をゴッソリもらう陽樹。冷ややかな視線が集まった。
夏漣は手のひらを差し出した。陽樹が素頓狂に訊ねる。
「なあに、その手」
夏漣が答えた。
「一万円也」
「お高い」
深華が右手でチョキをつくった。
「どら焼、二つ下さい」
「どうぞ。お代は要りません」
お財布を探りながら陽樹がジト目を向ける。
陽華は、夏漣と深華のやり取りを少し離れて見ていた。妹がどら焼を受け取る。二人とも微笑をたたえている。
張り詰めていた陽華の表情が、ほんのわずかに緩んだ。
「はい、お姉ちゃん」
深華が手渡す。陽華はうつむきがちに言った。
「あ、ありがとう……」
その言葉が深華に向けたものなのか、それとも夏漣に向けたものなのかは、誰にもわからない。でも、夏漣は驚いたように固まった。数秒後、無言でお辞儀をする。
その背中を大柄な男性が叩いた。
「そんな無愛想な顔じゃ、和菓子屋はつとまらないぞ」
夏漣の父だった。
遠くのシートから夏漣の母が手を振っていた。ポイントカードを夏漣に渡し、陽樹が首をかしげる。
「……あづき屋って土日営業ですよね。お店、お休みしてもいいんですか?」
「店より、息子の応援のほうが大切だからな」
そう言って豪快に笑う夏漣の父。感情が顔に出にくい夏漣も、何だか照れくさそうにスタンプを押していた。
陽樹は手元のお菓子を見た。そして青空を見上げた。
塀の影から、陽樹はこっそりと受付テントを覗いた。一人でお弁当を食べている夏海がいた。陽樹は身を引き締めて姿を現した。和菓子を机の上に広げる。夏海はそれを一瞥して、無言で箸をすすめた。
となりに坐って包を解く。陽樹が言った。
「け、今朝はごめんね。仕事押しつけたりして」
夏海は箸を止めて、言った。
「……別に。お客さんが少くて、困らなかった」
ちょっと早口だった。
「私こそ『誰があんたとなんか』なんて言って、悪かった」
陽樹はぶんぶんと首を振った。
「安月夜は怒って当然だよ。俺、調子に乗ってたもん。反省してる」
二人のあいだに沈黙が流れた。
夏海がたずねる。
「今年に入ってから、やけに調子がいいみたいだけど。何か楽しいことでもあるの?」
陽樹は、けほけほと咳込んだ。
「別に! 何でもない何でもない!」
キョロキョロあたりを見回し、どら焼を手に取る。
「食べる?」
「いらない」
*
人が多くなってきて、二人は受付の仕事に追われた。
波が落ち着いたのを見計らい、陽樹が腕章を外す。
「ちょっとトイレ」
「はいよ」
校舎内は緊急時以外、生徒も来校者も立ち入ってはいけないことになっている。代りに、校庭の隅のプール附属のトイレが解放されていた。
テントに戻る際、陽樹は人混みのなかに一人の女の子を見つけた。
迷子だろうか。深華や深樹よりずっと幼い。腰まである長い髪を揺らし、涙目できょろきょろしている。
「どうしたの?」
陽樹が声をかけると、女の子は怖がるようにジリリと退いた。彼はあわててしゃがみ、目の高さを合わせた。
「ごめんごめん。はぐれちゃったんでしょ? 俺が一緒に探してあげるよ」
女の子はしゃくり上げながら尋ねた。
「ママをさがしてくれるの……?」
陽樹は親指を立て、ウインクをしてみせた。
女の子を肩車してあたりを見回す。夏海がそれに気づき、近づいた。
陽樹は歩きながら尋ねた。
「受付、いいの?」
夏海がついてゆく。
「次の人が早く来たから……それよりその子、迷子なの?」
陽樹も見上げて、説明した。
「はぐれちゃったらしい。高いところからのほうが見つけやすいでしょ」
女の子が、まだ涙ぐむ目で辺りを見回している。
「この人だかりで闇雲に探してもムリよ」
人を避けながら、夏海は女の子に尋ねた。
「今日は誰の応援に来たの?」
女の子は答えた。
「……おにいちゃん」
夏海の顔に日があたり、彼女は木蔭に引っ込んだ。
「安月夜」
陽樹が折畳傘を寄越した。
受け取って、夏海が傘の柄に気づく。
「……こんな古い傘、まだ使ってたんだ」
陽樹は自慢げに言った。
「そうだよ。可愛いでしょ」
桜柄の傘をさして夏海が歩く。
「お兄ちゃんは何色の鉢巻だった?」
女の子が答える。
「あお」
陽樹が笑った。
「青団の席なら、緑のすぐ隣だ」
女の子を地面に下ろし、三人でさがす。
「あっ! ママ!」
女の子が駆け寄った。
そのとなりにいた人物を見て、陽樹は目を丸くした。
「あ、あなたは……」
「また世話になったね」
青い鉢巻に青いシャツ。椅子に腰かけ、右足首に繃帯を巻いていた。陽樹が肩を貸した先輩だった。
「捻挫、大丈夫なんですか」
陽樹が心配そうに訊ねると、先輩は笑って答えた。
「『安静にしとけ』とは言われたけど、立てないことはないから、程度は軽いらしい。これから病院で診てもらうよ」
実際に立ち上がり、先輩が手を差し出す。
「妹をありがとう」
陽樹は顔を赤くして「どういたしまして」と握手した。
去り際、女の子が陽樹に手を振った。
「ありがとう、おねえちゃん!」
「お、お姉ちゃん……?」
自分の顔を触る陽樹。
「いいところ、あるじゃない」
「へ?」
夏海の言葉に、きょとんとする陽樹。夏海は日傘越しに言った。
「見直した」
陽樹は自分の服をさわって、短パンのポケットから大福餅を取り出した。
「食べる?」
夏海は目を背けた。
「遠慮する」
陽樹が「それならさ」と緑団の席を指さす。
「一緒に応援しようよ。傘があれば太陽だってへっちゃらでしょ」
ぴょんぴょんしながら先をゆく。「まだ行くとは言っていないのに」と愚痴りながら、夏海が追いかけた。
笑顔で声援を送る陽樹。夏海は無表情でその隣に立っていた。