#16 お花見
「ありがとうございましたー」
ショーウインドウの前でモデルのように立っていた陽樹が、店員の声を聞いて振り返った。顔を赤らめた陽華が逃げるように店から出てくる。彼女は陽樹に「お待たせ」と言った。
綿をちぎったような雲が漂っている。青空の下の七姫市。二人は並んで甲州街道を歩いていた。
歩きながら、陽樹が器用にダッフルコートを脱ぐ。上着を片腕にかけ、紙袋を両手で持ち直した。
陽華は胸に紙袋を当てていた。手のひらサイズの小さなものだ。淡いピンク色をしている。
彼女は言った。
「人、多いね」
陽樹が頷く。
商店街は賑っていた。
人通りが増すにつれ、陽華は陽樹の背後に回った。遅れず速まらずぴったりと体をつけて、きょろきょろと左右を見ている。
陽樹は目視で確認して、たずねた。
「大丈夫?」
陽華がビクッと跳ね、陽樹から離れた。憂わしげな表情でもう一度訊く。
「首まで真赤だよ。暑いの?」
その時、陽華の肩に通行人のおばさんがぶつかった。飛び上がってピンクの紙袋を落とす。
「陽華! 待ってよ!」
袋を拾い、呼び止めようとする。しかし返事はなかった。陽樹の声はむなしく雑沓にのまれてしまった。
陽華は脇道に逸れて、ひっそりとした住宅街をうろついていた。ローファーの底がアスファルトを叩く。
気づいたときにはもう遅い。
もう人通りはなかったが、陽華は引き返せずにいた。ただただ人混みを避けることに集中していたので、振り返っても、どの道を通ってきたのか憶えていないのだ。
太陽の位置から方位は割り出せていたが、街道に出たところで、なすすべもない。陽樹を探し出すなんて無茶にもほどがあった。
あてもなく小迷っていると、空地があった。住宅地のまんなかに、家一軒ほどのスペースがぽっかりと空いていた。
駐車場にするでもなく、土管が置いてあるわけでもない。平らな地面に草が茂っているだけだった。こんな場所、陽華の世界では見たことがない。
ふと足を止める。靴音もやんだ。
緑のなかに赤紫色の花が咲いていた。烏野豌豆だ。その上を黄揚羽が舞っている。蝶は花弁に降り立った。翅を小刻みに動かしている。
ひゅうと音を立て、風が草むらを分けた。陽華の黒髪もなびく。黄揚羽は青空に舞い立った。
陽華は一人ぼっちになった。
そのとき、ポケットから着信音が鳴った。陽華は無言で携帯を取った。
「もしもし、陽華?」
陽樹からの電話だった。胸をなでおろす。
「今、自分がどこにいるかわかる?」
陽華はうつむき勝ちに答えた。
「……わかんない」
陽樹は考え込むように「うーん」とうなって、言った。
「浅川まで出てきて。桜の見えるところで待ってる」
言われた通り、陽華は浅川に向かった。
堤防が城壁のようにそびえ立っている。川は向こう側だ。陽華は、土手の上に一本桜を見つけた。
「この辺だと思うんだけど……」
きょろきょろ見回しながら階段をのぼる。視界に青空が広がる。声がかかった。
「陽華!」
土手の先で陽樹が手を振っている。
陽華は駆け寄った。胸に飛び込み、涙ぐむ。
「……怖かった」
「よしよし」
陽樹が頭を撫でた。
「急に逃げ出したりして、ごめんなさい」
「陽華は悪くないよ。……あっ! これ、落としてたよ」
ポケットから袋を取り出し、陽華に返す。
陽華は「ありがとう」も言わずに受け取り、開封した。そして、小指ほどの長さの小物を差し出した。
陽樹が眉をひそめて受け取る。すぐに「あっ」と声をもらした。
ヘアピンだった。端っこに桜の花を摸したかざりが附いている。
「ほら、ここをこうしてこのアメピンでとめれば」
陽華がふたたび奪って、手際よく髪を編み込む。鏡に映った自分の髪型に、陽樹ははしゃいだ。
「おお、すごい! 可愛い……」
「見て。お揃いで買ったの」と、陽華が自分のこめかみを指差す。小さな桜の花がキラリと光った。
「拾ってくれてありがとう。陽樹」
陽樹は鏡を胸に当て、「こちらこそ」と微笑んだ。
桜の木の下で、二人はどら焼を食べた。
包紙を脇に置き、陽樹がほほを緩めている。陽華はおやつを中断し、語り出した。
「家族で買い物に行って、はぐれちゃったことがあるの。小さいころの話だよ」
陽樹は語り手を見た。
「誰の顔を覗き込んでも、知らない人ばかりで、怖くなって泣き出しちゃった。周りには大勢の人がいたけど、だあれも助けてくれなかった。誰ひとり、声をかけてくれなかった。……それで、人混みとか知らない人がニガテになっちゃった」
花びらが舞い、包紙も風に転がる。陽華が瞬時に追いかけ、拾ってきてやる。
陽樹は同情するようにその顔を見た。でも、陽華はあっけらかんと話した。
「私はここみたいに静かな場所が好き。矛盾するようだけど、一人でいるのはさびしい。青空の下で、友達みんなでおやつを食べられたらなあ」
二人は同時に見上げた。
風で花弁が舞う。こぼれ桜だ。桜越しに光が射した。おひさまは峠を越している。花びらが透けて見えた。
「花の咲く木っていいね。俺たちみたい」
首をかしげる陽華。陽樹が説明した。
「名前だよ。陽華と陽樹」
「そっか! 樹と華だ!」
二人は笑い合った。
「この木、陽華の世界にもあるの?」
陽樹が訊ねる。彼女は頷いた。
「前からここにいたって、お母さんが言ってた。私が赤ちゃんだったころは、まだこんな苗木だったって」
陽華が手で高さを示す。陽樹はのけ反った。
「そんなに若かったの!? 大きいから、もう百歳くらいかと」
「当り前だよ。生き物の種類が違うもん」と、陽華が笑う。
「すごいなあ。俺たちとほぼ同い年で、もうこんなに立派で」
陽樹は感心したように言った。
「私はまだ子供。ニガテなこともいっぱいある」
陽華の顔に桜の影がかかっていた。
陽樹が励ますように言う。
「嫌なら逃げちゃえ。人混みがニガテなんでしょ。俺がいつでも入れ替ってあげるよ」
陽華が驚いた顔をする。
「いつでもいいの? 来月の体育祭とか」
「タイイクサイ?」
陽樹は一度尋ねて、思い当った。
体育祭では校庭に大勢の人が集まる。人混みのニガテな陽華は競技に出たくないのだ。
勉強に付き合ってくれたお礼にもなるだろう。陽樹は「まかせなさい」と言うように拳で胸を打った。
「モチのロンだよ」