#15 にゃー!
昼下がり。陽樹の部屋。
机にはどっさりと教科書が積み重なっている。陽樹は額に緑の鉢巻を巻いた。
「よし、今から飲まず食わず眠らずで試験範囲を網羅してやる!」
高らかに宣言して桜色のペンを構える。
陽華があわててやってきて、それを引き止めた。
「陽樹の行動力は、とってもすごいと思うよ。でも、ちゃんと計画を立てなきゃ」
二人はリビングにやってきた。
「テストの日程はわかる?」
食卓に着いた彼に、陽華はたずねた。
「二月の……今月のいつだっけ」
カレンダーを見遣る陽樹。陽華は一月のカレンダーを破り取り、彼に差し出した。
「この裏に、試験の時間割を書いて。できたら科目名の下に出題範囲を書き込んでくの」
陽樹はペンで線を引き、格子を組んだ。個々のマスに「数学、古文、歴史……」と書き込んでゆく。
陽樹は教科書の目次を開いた。
「一頁目から読んでたら、読み切るまでに疲れ果てちゃう。全体を見渡してから、まず要のところを押さえていくの」
陽華のアドバイスを聞きながら、意外と健気にがんばっている。
はじめ、深華や深樹は遠目で様子をうかがっていた。でも、楽しそうにやり取りする兄姉をみて、こしょこしょと耳打し合い、二階へ消えた。数十秒後、自分たちのランドセルをもってきて、リビングで宿題を開く。
不意に、食卓でカタンと音がした。見ると、陽樹のノートの脇にお椀が置いてある。どら焼だ。
となりで微笑む母に、陽樹も「ありがとう」と笑い掛けた。
*
「おわったあ!」
足を投げ出して、陽樹はソファーで横になった。それを見て、陽華がにっこり笑う。
「今日のノルマ達成。昨日より早く終ったね」
「気晴らしにあづき屋へ行ってこようかな」
陽樹がつぶやくと。
「ぼくも行く!」
ショルダーバッグをかけた深樹が階段から降りてきた。陽樹は言った。
「深樹は何度も行ってるでしょ。今日は俺ひとりで行く」
「ええ~」
しょんぼりする深樹に、深華が言った。
「ミイくんはわたしと一緒にゲームしようよ」
誘われて、深樹は目を輝かせた。
「うん、するする!」
陽樹と陽華はくすくす笑った。
靴を穿く陽樹に、陽華が訊ねた。
「私の服、着なくていいの?」
「今日はこの恰好でいいんだよ」
自前の服装のまま、玄関を出た。
*
おばさんが「いらっしゃいませー」といつものように言う。言ってから、いつもと違う姿の来客に、彼女は目を見張った。
「こんにちは。あの、夏漣くんに会いたいんですけど」
おばさんは答えた。
「ちゅ、厨房にいますよ」
陽樹は教わった通り、陳列コーナーの隅の暖簾をくぐった。
廊下のような細長い場所に出た。でも、廊下ではない。通路の片脇はひらけていて、一段高くなっている。畳が敷いてあり、座卓や座布団が配置されていた。
和風のカフェと言ったら良いだろうか。あづき屋には何度も来ているが、こんな部屋に来たのは陽樹は初めてだった。
和風カフェを横目にさらに歩いてゆくと、また暖簾があった。
陽樹は暖簾をくぐった。
そこは、広い台所――おばさんの言うところの厨房だった。
広いといっても、学校の体育館を想像してはいけない。陽樹たちの教室の半分ほど面積だ。細長い調理台が三つ、平行に並んでいる。色は銀色で、その上にさまざまな調理器具がところせましと並んでいた。料理なんてほとんど経験のない陽樹は、何がどういう使い道なのか、さっぱりわからなかった。
「おお、ナツミさん」
夏漣が陽樹に手を振った。物陰になって、陽樹からは見えない。
「夏漣くん、どこにいるの?」
陽樹が調理台に手をかけた時だ。
突然、台が火を噴いた。真っ赤な火柱が上がり、天井を舐める。彼は驚いて飛び上がった。
「にゃー!」
陽樹の悲鳴を聞いて、夏漣が消火器を持ってかけつけた。黒いエプロンに黒い調理帽という姿だった。
ぷしゃー、とノズルから消化剤が噴き出した。あたり一面に白い粉煙が立ち込める。でも、炎は屈しない。メラメラと音を立て襲いかかってきた。
夏漣は熱風をかいくぐり、台の側面についたツマミを回した。すると、あんなに大きかった火がどんどん縮んでゆく。しまいには跡形もなく消えてしまった。
陽樹は腰を抜かしてわなわな震えている。夏漣は消火器を投げ捨て、小さく息をはいた。
「立てますか」
夏漣が手を差しのべる。陽樹は助け起こされた。
「あ、ありがとう……」
「どういたしまして」
夏漣は粉だらけの焜炉を放置し、スタスタと元いたところに戻っていった。
手を洗い、作業に取りかかる。夏漣は何かの生地を混ぜ合せていた。
「何つくってるの?」
陽樹がおそるおそる尋ねると、夏漣はぶっきらぼうに答えた。
「どらケーキです」
「ドラけえき?」
夏漣が説明する。
「どら焼とパンケーキの合の子です……ほら早く、席に着いていてください」
陽樹は和風カフェに通された。
座布団に正坐して待っていると、お皿を持った夏漣が厨房から出てきた。
「お待たせしました。どらケーキです」
出されたお菓子を見て、陽樹は息をのんだ。
「……きれい」
高級そうな黒いお皿に乗って出てきたのは、色とりどりのフルーツで飾りつけられた、どら焼の二段重ねだった。
上には小豆ソースもかかっている。
陽樹は、ほぼ茶色一色のどら焼に見慣れている。こんなにカラフルなお菓子は、ちょっとびっくりしちゃうくらい新鮮だった。
陽樹はおそるおそる箸をとって、どらケーキのふちを切り崩した。口に運び、ゆっくりと咀嚼する。
「……おいしい」
箸が止まらない。
「おいしい、おいしいよ夏漣くん」
険しい表情を浮かべていた夏漣が、口元をほころばせた。
「……そんなにおいしいか?」
陽樹が満面の笑みで答える。
「めちゃくちゃ美味しいよ! お店で出しても、きっと売れる!」
夏漣は目を潤ませて、陽樹の手をそっと取った。
「ありがとう。自信がついた」
陽樹はハテ、と首をかしげた。夏漣が言った。
「実はこれ、僕の試作品なんだ。新商品の申請をするか、ずっと迷っていたのだけど、これを機に店に持ちかけてみる」
陽樹は力強く頷いた。
「応援するよ、夏漣くん」
「ありがとう、ナツミさん」
陽樹がちょっと気まずそうな表情になる。
「実は、そのことなんだけど……ナツミっていうのは、偽名なんだ。陽華のいとこだっていうのも作り話で……」
夏漣は驚いて聴き入った。
陽樹は語った。自分はこの世界の人間ではないということ。二つの世界は性別が入れ替わっているということ。自分は陽華と同一人物だということ。
「す、少し待ってくれ」
夏漣が言った。陽樹は話を中断した。
「……どうしたの?」
彼にしては珍しく、ゆっくりとした言葉で尋ねる。
「ナツ……君は、その、男の子なのか」
陽樹が頷く。
「せっかく女装せずに来たのに、見えないかな」
「失礼なのは承知だけれど、見えない」
答えられて、陽樹はコケた。
「……ともかく、二つの世界がどう違ってるのか、俺は知りたかったの。それで、陽華と入れ替わって、いろんな人に訊いて回ったんだ。今日お邪魔したのは、その延長だよ」
二つの世界には、性別以外にもいろいろな違いがある。陽樹はそう確信していた。
「陽華は他人がニガテだけど、俺は違った。俺は勉強がニガテだけど、陽華は違った。もっとわかりやすい、目に見える違いもあるんじゃないかって。一方の世界に当り前にあるものが、もう一方の世界ではとっくの昔に消え失せてる、ってこともあるんじゃないかって」
「それで、この世界と陽樹くんの世界で、いったい僕は何が違うんだ?」
その時、おばさんがやってきた。
夏漣が言った。
「おお、母さん」
「かあさん!?」
陽樹は目を丸くした。
「紹介します。ナツミさん改め陽樹くん」
夏漣が言った。陽樹はおそるおそる訊ねた。
「あ、あなた様は夏漣くんのお母さまでいらっしゃいますか」
おばさんが首をかしげつつ答える。
「ええ。夏漣の母ですけど」
「夏漣、どうしたんだ。お客さんかい」
大柄な男性が暖簾をくぐった。
作り置きのどらケーキを持って、夏漣が駆け寄る。
「父さん、味見してほしい」
陽樹は一人、ゆっくりと首を横に振った。壁に寄りかかり、頭をかかえて、魂が抜けたようにその場に坐り込んだ。
*
午前授業の終りを告げるチャイムが鳴った。自分の席に着いて、夏海は購買のパンを食べていた。クラスメイトはこの教室に大勢いたが、彼女は誰ともおしゃべりをせず、一人静かに昼食をとっていた。
秋兎も自分の席でお弁当を食べていた。隣の席の陽樹を見ている。陽樹は真剣な顔持ちで、喰い入るように一枚の紙を見ていた。返ってきたテストの答案用紙だった。
陽樹はパッと振り向いて秋兎にそれを見せた。
「見てよ!」
赤い油性ペンで「33」と書いてあった。
秋兎は「おお……」と感嘆の声をもらした。
「陽樹、よくがんばったな」
陽樹は目を輝かせ、バネのように跳び上がった。
「わーい!」
教室を飛び出し、風を切って駆けてゆく。
「こらこら、廊下はゆっくり歩きなさい」
先生が苦笑しつつあとを追った。
「あのくらいの点数で、大袈裟だなあ」
クラスメイトたちも笑った。
夏海は彼らから目を逸らし、パンの袋を畳んだ。
家に戻った陽樹は、真先に陽華に報告した。
「陽華のおかげだよ。ありがとう」
陽華は答案から目を離し、笑った。
「陽樹ががんばったからだよ」
「お兄ちゃん、赤点回避おめでとう!」
「おめでとう!」
どこから持ってきたのか、深樹がクラッカーを引いた。深華もそれに続く。パーン、パーンと音が鳴り、紙テープが飛び出した。
胸に手を当てうっとりしていた陽樹の母は、クラッカーの音に感化され、かぶりを振った。
「お祝い……! どら焼作らなくちゃ」
腕をまくり、キッチンへ向かう。