#14 屋根の上で
「陽華!」
陽樹は窓をくぐった。ベッドから飛び降り、華麗に着地を決めたつもりが、滑って転んでしまう。
陽樹はロープを拾い上げた。これに足を取られたのだ。
「誰がこんなものを……」
そこに深華がやってきた。
「あっ、陽樹お兄ちゃん」
「ミイちゃん! 久しぶり」
陽樹はロープを放り出した。ハイタッチを交し、我に返る。
「ねえミイちゃん、陽華に頼みたいことがあるんだけど。どこにいるか知らない?」
「お姉ちゃんなら、そこに」
深華は北側の窓を指した。屋根の上で、陽華がソロソロと歩いている。
そして、くしゃみをした。足を滑らせる陽華。
「危ないっ」
陽樹が身を乗り出し、助けようとした。でも、足を踏み出したときに、またロープを踏んづけてしまった。つるりと滑って一回転、外に放り出される。
「陽樹お兄ちゃん!」
深華が叫ぶ。
陽樹は屋根の上でデーンと尻餅を打った。「痛た」と患部をさすっているあいだに、ズルズルと斜面を滑りはじめる。陽華がその手を取った。
「陽樹! 帰ってきたの?」
陽華が目を見開く。二人はみるみるうちに加速した。
「やばい、車道に落ちる!」
軒先から飛び出す直前、車道の手前に塀があるのが見えた。陽華は塀の上に猫のように着地した。
陽樹はかろうじて雨樋につかまり、ぶらんぶらんとぶら下がっていた。でも、まもなく敷地内の植込に落下した。
「二人とも、だいじょうぶ?」
窓から深華が呼びかける。
「私は平気!」
「陽樹お兄ちゃんのほうは?」
「な、なんとか」
陽樹が植込から顔を出した。その姿は、みじめというか、みっともないというか。
「なんかごめんね……私も降りたほうがいい?」
陽華が地面に降りようとする。それを「いいよ、汚れるから」と陽樹が制した。
「それにしても、屋根の上で何してたの?」
話題を切り替え、尋ねてみる。
「あの窓をね、外そうとしてたの」
陽華が指差したのは、二階の東側の窓だった。公道に面していないので、見えにくい。しかも、この時間は家の陰になっている。陽樹は目を凝らし、気づいた。
「あの窓……割れてる」
*
部屋に二人がもどってきた。ベッドに腰掛けていた深華が「おかえりなさい」と言った。
「お兄ちゃん、大丈夫だった?」
隣には深樹もいた。
「うん。何とかなったよ。……それで、取り外そうっていうのが」
「奥の窓だよ」
陽華が言い、深樹と深華が道をあけた。ベッドのすぐ上。青いカーテンが垂れ下がり、窓を覆い隠している。
深樹が首をかしげた。
「でも、ここの窓ってなくなったんじゃないの? ガラスだけじゃなくて、周りの銀のとこも消えてたし」
深華が説明する。
「そう思ってたんだけど、ちゃんと残ってたの。家の中からは見えないけど、壁の向こう」
「外から見たら、ガラスは割れてたけど、しっかり壁に嵌ってたんだ。銀色の外枠もね」
陽樹が付け足し、深樹は目を丸くした。
「ようするに、どこでもドアが窓にかぶさってるような状態なの。入口が窓より少し大きいから、窓が隠れちゃって、室内からは見えないの」
陽華は溜息をついて、愚痴った。
「部屋の中から外せたら楽なのにね。現実は、カーテンをあけても」
深樹が青いカーテンを開けた。
「……お兄ちゃんの部屋に行っちゃうってわけね」
「陽華のかわりに、俺が屋根に登るよ。壁沿いに歩いていけばいいんでしょ。この窓の裏まで、屋根はつづいてたわけだし」
陽樹が指差す。深華がつっこんだ。
「でも陽樹お兄ちゃん、さっき転んでばっかりだったよね……」
陽樹は手をそっと下ろした。
「坂道を横切るなんて、歩きにくいに決まってるじゃん」
弟がフォローする。
「だからといって、割れたまま放って置くのもね」
陽華がしょんぼりする。四人は考え込んでしまった。
そのとき「ミャア」と外から鳴き声がした。北の窓だ。四人は外を覗いた。屋根の上に、見覚えのある青毛の猫がいる。
「ドラちゃん!」
陽華が呼び、深華が窓をあけた。
陽樹が指摘する。
「陽華、放し飼いにしていいの? ここん家のニャンコでしょ」
陽華は目をぱちくりさせた。
「あ、陽樹たちには言ってなかったっけ。ドラちゃんは、お隣さん家に住んでるんだよ。よく屋根を登って、遊びにきてくれるの」
深樹が「へー」と相槌を打つ。
屋根をのぼってきたドラ。深華がそれを抱き上げる。
陽樹は手のひらを拳で打った。
「じゃあ、俺たちもドラの真似をすればいいんじゃない?」
三人と一匹の視線が、陽樹に集まった。
陽樹は靴を穿いて外に出た。見上げると、北の窓から三人が手を振っている。陽樹は手を振り返した。
風抜穴に足をかけ、塀をよじのぼる。笠木の上に這い出てきた陽樹は、すこし勇気を出して、その場でゆっくりと立ち上がった。風を受け、服が旗めく。ゆらゆらと体が揺れる。ふと見下ろすと、雨樋はすぐそこだった。
三人は息をのんで見守っている。
陽樹は「よっ」と笠木を蹴り、軒先に跳び乗った。窓際にワアッと歓声が上がった。
陽樹は親指を立てて見せた。三人も同じポーズでウインクして見せた。陽樹が瓦に手をかけながら、登りはじめる。
屋根を半分ほど登ったところで、ひときわ強い風が吹いた。陽樹は煽られ、両手を離してしまった。じりり、と足が滑る。どよめく観衆。
「陽樹お兄ちゃん!」
深華が窓からロープを投げて寄越した。赤い斜面をしゅるしゅると下ってゆく。その端っこを陽樹が捕まえた。体勢を立てなおし、再度登りはじめる。
ロープを頼りに、陽樹は屋根をなんとか登り切ることができた。
陽樹は「助かったよ」とロープを深華に返そうとした。でも、陽華がそれを制した。
彼女は言った。
「外した窓をね、そのロープで庭におろすの。私もそっちに行くから、待っててね」
外した窓は、サッシが折れ曲り、ガラスはほとんど割れ落ちていた。衝撃の強さを物語っている。二人は青ざめて顔を見合せた。
ロープをしっかりくくりつける。二人は軒先から庭を見下ろした。陽華の父が手を振っていた。
「ロープをしっかり握って、ゆっくりゆっくり窓を下ろしてくれるかな。一階の壁にぶつけないように、気をつけてね」
二人は同時に手を挙げた。
「はーい」
同じことを陽樹の家でもやった。すべての作業が終ったのは、夕方だった。
陽樹の家の屋根の上で、二人はどら焼を食べた。これは、あづき屋で買ったものである。中身はもちろん漉餡だ。
家の東側だから、太陽は見えない。でも、夕焼色に染まった空が頭の上まで伸びていた。それもずんずん背中のほうに沈んでゆく。やがて雲が水色を帯びて、その中に星がまたたいた。
「あれ」と陽華が首をかしげた。彼女は窓を覗き込んでいた。と言っても、窓本体は外してしまったので、今は外枠しか残っていない。
「どうしたの?」
陽樹がとなりから訊ねた。
銀色の外枠に、陽華は白い指をそっと重ねた。つづけて顔を、脚を、窓のなかに滑り込ませてゆく。
陽樹は口をあんぐりと開けてそれを見ていた。
「陽樹、来て来て!」
陽華がくるりと反転して招く。陽樹は言われるがまま従った。
窓に顔を突っ込み、陽樹は驚いた。
「ここって……陽華の家の屋根じゃないの?!」
窓の向こうには、窓のこちら側と同じように、濃紺の夜空が広がっていた。
黒い小さな影が庭先をのこのこと歩いてゆく。お隣さん家に帰るドラの姿だった。
この窓は、家の外から入っても、世界の出入口として機能するのだ。
「ずっと近くで作業してたのに、気づかなかったな……」
陽樹が感嘆するように言った。
「窓、まとめて下ろせばラクだったのに、二度手間だったね」
陽華が言い、二人は笑い合った。
「あっ、そうだ。今日テストが返ってきたんだけど」
陽樹が思い出したように言った。
「それは、私も」
知ってるよ、と言わんばかりに陽華が頷く。
「俺、筆記はいっつも赤点ばっかりで……。そこのところ、陽華って頭いいんだね。入れ替わった時に知って、びっくりしちゃった」
陽華は頼まれる前に、キッパリと断った。
「だめだよ。替玉受験なんて協力しないよ」
陽樹は「ちがうちがう」と両手を振った。
「そんな、いくら点が取りたいからってズルはしないよ。陽華にね、勉強を教えてもらいたいんだ」
陽樹が、真剣な表情で頼む。
「ダメ……かな?」
陽華は「なあんだ、そんなこと」と胸をなでおろした。
「いいよ! 協力する」
陽樹は彼女の手を取った。
「ありがとう、陽華! よろしくね」
ふふ、と陽華は笑った。
「ふふ、ふへ、ふぇくしゅん」
バランスを崩して落ちそうになる陽華。それを、すんでのところで陽樹が阻止する。
空には幾多の星々がきらめいていた。彼は困ったように言った。
「くしゃみもするよ、まだ冬だもん。日が暮れて冷え込むし、もう部屋に入ろう」
「うん、そうする」
ずず、と鼻をすする音がした。




