#13 風当りは強くて
「どういうことなの?」
翌日。教室でどら焼をはんでいた陽華に、秋卯は真剣なまなざしで問うた。
「いつもの陽華は、先生に『こんにちは』すら言えないはずなのに……昨日は誰彼かまわずペラペラ話しかけるし」
陽華は、口をもぐもぐ動かすのをやめた。休み時間のさざめきが、陽華の耳から遠のいて行った。
「数学の授業でもメチャクチャな答を出すし。どら焼ばっかり食べてて、わたしには見向きもしないし……。いくらなんでもおかしいよ。あんなの、陽華じゃない」
秋卯の声は、尻すぼみに小さくなった。陽華にだけ聞こえる大きさで、彼女は尋ねた。
「なにを言ってるのか、自分でもよくわかんないけど……昨日学校に来てた陽華は、陽華じゃないんでしょ? 陽華の席に坐ってたのは、陽華じゃない、別人なんでしょ?」
秋卯は肩をぷるぷる震わせ、唇をかんだ。
陽華は「黙ってて、ごめんなさい」と言った。顔を上げて、申し訳なさそうに言った。
「見せたほうが早いかな」
陽華は秋卯を自分の家に案内した。リビングで陽華の母に会う。
「あら秋卯ちゃん。こんにちは」
掃除機を止めて母が顔を上げる。
「お邪魔します」
秋卯がお辞儀をした。
陽華が階段を登りはじめる。秋卯もついていき、その背中に訊ねた。
「陽華。『見せたほうが早い』って、どういうことなの?」
「実はね……あっ、深華」
二階から深華が降りてきた。
「お姉ちゃん……秋卯さん、こんにちは」
深華が後ずさった。細い階段だ。高校生二人が先に登り切る。秋卯は「ミイちゃん、久しぶり」と挨拶した。
「陽樹、いる?」
陽華が尋ねる。深華は首を振り、階段を降りていった。
陽華の部屋はシンと静まっていた。冷たくなった銀色のストーブが本棚の横に放置されている。
秋卯は訊ねた。
「ハルキって誰?」
陽華はベッドに膝乗り、明かした。
「陽樹はね、私にそっくりな男の子なの。顔立も背恰好もそっくり。深華やドラにも見分けがつかないくらいなんだ……中身は別にして」
秋卯は疑しそうに言った。
「じゃあ、昨日学校に来てたのは」
「私じゃなくて、陽樹だったんだ。黙っててごめんね」
陽華は青いカーテンを開き、その向こうに降り立った。秋卯は目をキラキラさせた。
「どうしたの? 何この部屋!」
興味津々にのぞき込む。陽華が言った。
「溝があるから気をつけて」
秋卯は手元を見た。窓枠が真っ暗な隙間にすり替っていた。二つの部屋は、なめらかにつながってはいなかった。電車の床と駅のホームのように、高さが数ミリ違っていた。
陽樹の部屋を出る。陽華を追いかけ、秋卯は訊ねた。
「陽華、ここってどこなの? 陽華の部屋にすごく似てるけど」
辺りをきょろきょろ見ている。陽華が答えた。
「実はここ、パラレルワールドで」
秋卯は訊き返した。
「はい?」
「あっ、陽華お姉ちゃん」
深樹が階段を登ってきた。秋卯は、首をかしげながら彼に会釈した。深樹も、すこし警戒しながら頭を下げた。
「ミイくん。陽樹はどこ?」
陽華が尋ねる。自分の部屋に入る前に、深樹は答えた。
「お兄ちゃんなら、まだ帰ってないけど」
その言葉を聞くなり、陽華は「ありがとう」と言い、階段をかけ降りていった。秋卯はあわててそのあとを追った。
一階で、陽樹の父が掃除機をかけていた。
「おや、陽華ちゃん。お友だち?」
その脇を、陽華が「失礼します!」と言いながら駆け抜けてゆく。
「お邪魔しました!」
秋卯も家を飛び出してゆく。リビングで一人、父は呆然と立ちつくした。
外は風が強かった。
髪をなびかせながら陽華が駆けてゆく。それを秋卯が追いかけた。
「陽華……速い」
陽華は振り向いた。秋卯がしゃがみ込み、浅い息を繰り返している。
陽華は秋卯のとなりに腰を落とし、彼女の背中をさすった。
「ごめんね……」
二人は立ち上がり、並んでゆっくりと歩き出した。
住宅街の十字路で、陽華が立ち止まった。秋卯を連れて、塀のかげに隠れる。
「何……どうして隠れるの」
困惑したように秋卯が訊ねた。人差指を唇にそえる陽華。
「秋兎くんもいる」
道の先から陽樹が歩いてきたところだった。となりには秋卯もいる。二人とも自転車を押していた。
陽華が説明した。
「紙を持ってるほうが私。持ってないほうが、この世界の秋卯だよ」
秋卯は彼らを凝視した。陽樹は白い紙をかかげ、ニコニコしている。テストの答案らしい。赤い字で「11」と書いてあった。
秋兎が笑った。
「前より八点も上がってる。よかったな、陽樹」
何とも言えない表情で、陽樹が言った。
「秋兎、俺のことバカにしてるの?」
陽華と秋卯に気づかず、二人が通り過ぎてゆく。女子二人は道に出てきて、その背中を見送った。
秋卯は陽樹と陽華とを見比べて、陽華に訊ねた。
「本当に陽華と同一人物?」
本気で疑っているようだ。
陽華は「うん」とも「ちがう」とも言わず、困ったように秋卯の顔を見た。
秋卯は自分の首筋をかき、言った。
「わたしの顔、なんか付いてる?」
そのとき、ひときわ強い風が吹いた。
答案は手を離れ、宙に舞い上がった。秋兎が「あっ」と声を上げる。陽樹は駆け出した。支えを失って自転車が倒れる。
「まて! 俺の答案!」
十字路でトラックが急ブレーキをかけた。陽樹は危機一髪それを避けた。答案が進路を変える。陽樹は土手の階段を駆け上がった。
空が開ける。
白い紙は高度を上げ、一本の裸木を飛び越えた。でもそれもつかの間、みるみるうちに風に流され、アスファルトをかすめて、誰かの足首に引っかかった。
「だめ、拾わないで」
言い切る前に、陽樹は木の根っこにつまづいてしまった。
相手を見上げ、息を飲む。
スラックスに通したすらりとした脚。陽樹のクラスメイトで夏漣と同一人物の、安月夜夏海だった。
答案を拾い上げ、点数を見る。陽樹はそれを目で追った。もう遅かった。
伏せた陽樹を見下し、彼女は言った。
「ひっどい点数。あんたバカなの?」
陽樹はえんえんと泣きながら秋兎のもとに戻った。陽樹の自転車はきちんと起こされ、道の脇に駐めてあった。
「そこで、安月夜に逢ってね」
えぐえぐと声を詰まらせ話す陽樹を、秋兎は制した。
「辛かったな」
陽樹の背中をさする。陽樹は自分の答案を見返すと、ぐしゃぐしゃに丸め始めた。それを秋兎があわてて止めた。
「これはとっておいたほうがいい。……コツコツやればいいさ。計画を立てて、まずは見直しから」
陽樹は手を止め、秋兎を見た。泪はおさまっているが、なんだか腑に落ちない様子だった。
「そんなこと言われても……」
「じゃあ、俺はこっちの道だから。また明日な」
秋兎が自転車を漕ぎ、角の先に消える。陽樹は取り残された。答案を広げて、記名欄のあたりを見詰める。空を見上げて、満面の笑みになった。
「そうだ!」