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窓の向こうへ行かなくちゃ  作者: 半ノ木ゆか
第3話 風とペン
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#12 人がかわったみたい

 教室に入ろうとして、陽華は一人の少女と鉢合せた。


 短めのボブヘアーに、スレンダーな体形。鋭い目つきに気圧けおされて、陽華は一瞬でひるんでしまった。


「うわ。井上、やっちまったな」


 そんなひそひそ声が聞こえた気がした。心なしか、周りの生徒たちも遠ざかってゆくようだ。


「通りたいんだけど。早くどいてよ」


 冷たいことばだった。ちょっとカチンときたけれど、陽華は道をあけた。少女は一瞬、確めるように陽華の顔を見て、スタスタと足早に去っていった。


 張り詰めていた廊下の空気が、少しずつ解けた。すらりとした脚が雑沓に紛れていった。


「あんな言い方って、ほんとにないと思う。ムッとした」


 購買で買ってきたどら焼をほお張りながら、陽華は秋兎に言った。


「『通らせて』って、優しく言えば済むことなのに。どうして、攻撃するような言葉しか出ないのかな」


 秋兎は同調するように頷いた。


「そうだな。そんな言い方をされたら誰でも嫌だよな」


「そう。秋兎くんもそう思うでしょう?」


 くん付けで呼ばれたことが気になったのか、秋兎は自分の首筋をいた。でもそのことには触れず、陽華の質問に、逆に訊きかえした。


「思う。思うけど、そう思った陽樹は、何かしたの?」


「な、何かって。それは、何も言わなかった、わ、オレも悪いけれど……」


 陽華の声は、しりすぼみに小さくなった。


 実は、自分は陽樹ではない。パラレルワールドから来た陽華で、他人と喋ることができないのだ……とかいうことを、心のなかで云々いいわけする。


 何も話さなくなった友人を、秋兎は見兼ねたようだった。


「別に、無理して声を出せとは言わない。誰にだって怖いものはあるから。……口にしなくたって、伝える方法はいろいろあるじゃないか。そういうのを、次からできる範囲で試したらどう? 例えば『通ってもいいですよー』って手ぶりするとか」


 秋兎が、左右の手を一方の脇腹にずらす。陽華は、その仕草を感心したように眺めた。


「意思疎通。一方通行じゃなくて『キャッチボール』だろ。嫌な球が飛んできても、なるべく取りやすい球にして返してやりなよ。ただ受け取っただけじゃ、お互いイヤな気分で、何も進歩しない」


 その時、授業のはじまりを知らせるチャイムが鳴った。食べかけのどら焼をあわてて口にくわえた。せっせと袋を折りたたみ、仕舞う。秋兎は授業の支度を済ませていたので、落ち着いて前を向き先生が来るのを待っている。


 どら焼をもぐもぐと咀嚼しながら、先ほどの秋兎のことばを思い出す。


 秋兎は「方法はいろいろある」と言った。声が出なくても、手ぶりはできる。筆談とか、あるいは表情だって、立派なコミュニケーションの手段だろう。


 でも、陽華は全くといっていいほど、そのようなことを試して来なかった。


 クラスメイトたちが自分の席に着く。やがて先生がやってきた。教卓に荷物を置き、黒板に数式を書きはじめる。白いチョークがコツコツと板を叩いた。


 ……そういえば、陽樹に渋谷へ連れていかれた時、陽華は一度も「イヤだ」とか「行きたくない」とかいう言葉を口にしなかった。別に、陽樹が怖かったわけではない。彼を前にしても、夏漣かれんの時のように、ことばに迷ったり、あたふたしたりはしないはずだった。


 でも、陽華は本心を言葉にできなかった。手ぶりもなかった。表情を見られないように、電車でも通りでも下を向いていた。


 本当に、自分は他人に怯えているのだろうか……。もしかすると「相手が誰なのか」ということは、あまり重要ではないのかもしれない。条件は自分の方にあるのではないかと、陽華は思いはじめた。


 こっそりと教室を見回し、顔触れを眺める。それが誰なのか、まったく見当のつかない人もいる一方、何やら見覚えのある顔立もちらほら。陽華と陽樹ほどではないにしろ、姉弟や兄妹くらいに似ることは多いのだろう。


 冬瑙の姿もあった。回答も難なくこなしている。陽華は和やかな気分になった。


「ほら、陽樹」


 秋兎が陽樹を呼ぶ。陽華はぼうっとしていた。


「陽樹、当ってるぞ」


 自分のことだというのを、陽華は忘れている。


「井上さん」


 先生の声にびくりとする。どこからともなく、クスクスとひそめた笑いが湧く。秋兎がささやいた。


「教科書の五十三頁、問二」


 一枚ずつ急いでめくる。十頁も前を開いていた。


「大丈夫?」と確認する先生に、アイコンタクトをとる陽華。秋兎がうんうんと頷いた。


「三角形ABCで、角Bの対辺bの長さを求める問題ね。井上さんは、()()()()()()()()()()()から。辺Aの長さは、問題にはいくつって書いてある?」


 教科書に、そのまま1とある。陽華は答えようとして、口を開き、あせった。声が出ない。


「……ちょっと聞こえないから、もっと大きい声で言ってもらえるかな」


 酸欠の金魚のように口をパクパクする陽華。


 いつもの授業なら、こういう時でも先生が気を使ってくれる。陽華は周りをきょろきょろ見回した。秋兎と目が合った。


 陽華は、人差指を立てて「1」をつくった。


「そうそう。1だね」


 黒板の三角形に、コツコツと数字が書き加えられる。


「じゃあ、角Bの大きさは?」


 90度である。陽華は両手で「9」をつくり、つづけて左手で「〇」をつくった。


 秋兎が先生に見えないように、小さくガッツポーズをとる。


「角Cは」


 75度である。面倒臭い。陽華のなかで、何かが変った。


 席を立ち、前へ歩いていく。秋兎が目をぱちくりさせる。


 左右のクラスメイトに見送られるさまは、遠目には悠々と見えた。ファッションショーのモデルさながらだ。でも、ほとんどの生徒にはわからなかったが、動きがカクカクとぎこちなかったし、表情は強ばっていた。陽華はガチガチに緊張していた。


 教卓の横まで来るころには、先生も意図を理解していた。優しそうにほほえんで白いチョークを手渡す。陽華は角Cに「75°」と書き込んだ。


「はい、その通り。じゃあ、せっかく前まで来てもらったから、答を出す過程も書いてもらおうかな。()()()()()()()()


 いやに「わかるところまで」を強調した言い方だった。陽華は疑問に思いつつも、そのようにした。


 三角形を囲む、大きな円を描く。


『△ABCの外接円の半径をRとする。図のように、∠Bは直径の上に立つ円周角になるから……』


 目にも留まらぬ速さで書いていき、しかもそれが達筆であるので、クラスメイト達はどよめいた。


 陽華にとって、大勢の前に立つのは苦痛だった。声も出せない。そんな状態でも、文字でなら何とか伝えることができた。


『∴b=√6-√2』


 先生は目を見張った。陽華の解答を一文ずつ確め……丸をつけた。


 教室に拍手が沸き起った。


「井上くん、すごいね」「頭よかったんだな」などという言葉に囲まれるなか、秋兎は一人だけ首筋をいていた。


 先生は「失礼かもしれないけど」と前おきして、陽華にだけ聴こえる声で、次のように言った。


「……人がかわったみたい」

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