#12 人がかわったみたい
教室に入ろうとして、陽華は一人の少女と鉢合せた。
短めのボブヘアーに、スレンダーな体形。鋭い目つきに気圧されて、陽華は一瞬でひるんでしまった。
「うわ。井上、やっちまったな」
そんなひそひそ声が聞こえた気がした。心なしか、周りの生徒たちも遠ざかってゆくようだ。
「通りたいんだけど。早くどいてよ」
冷たいことばだった。ちょっとカチンときたけれど、陽華は道をあけた。少女は一瞬、確めるように陽華の顔を見て、スタスタと足早に去っていった。
張り詰めていた廊下の空気が、少しずつ解けた。すらりとした脚が雑沓に紛れていった。
「あんな言い方って、ほんとにないと思う。ムッとした」
購買で買ってきたどら焼を頰張りながら、陽華は秋兎に言った。
「『通らせて』って、優しく言えば済むことなのに。どうして、攻撃するような言葉しか出ないのかな」
秋兎は同調するように頷いた。
「そうだな。そんな言い方をされたら誰でも嫌だよな」
「そう。秋兎くんもそう思うでしょう?」
くん付けで呼ばれたことが気になったのか、秋兎は自分の首筋を搔いた。でもそのことには触れず、陽華の質問に、逆に訊きかえした。
「思う。思うけど、そう思った陽樹は、何かしたの?」
「な、何かって。それは、何も言わなかった、わ、オレも悪いけれど……」
陽華の声は、しりすぼみに小さくなった。
実は、自分は陽樹ではない。パラレルワールドから来た陽華で、他人と喋ることができないのだ……とかいうことを、心のなかで云々いいわけする。
何も話さなくなった友人を、秋兎は見兼ねたようだった。
「別に、無理して声を出せとは言わない。誰にだって怖いものはあるから。……口にしなくたって、伝える方法はいろいろあるじゃないか。そういうのを、次からできる範囲で試したらどう? 例えば『通ってもいいですよー』って手ぶりするとか」
秋兎が、左右の手を一方の脇腹にずらす。陽華は、その仕草を感心したように眺めた。
「意思疎通。一方通行じゃなくて『キャッチボール』だろ。嫌な球が飛んできても、なるべく取りやすい球にして返してやりなよ。ただ受け取っただけじゃ、お互いイヤな気分で、何も進歩しない」
その時、授業のはじまりを知らせるチャイムが鳴った。食べかけのどら焼をあわてて口にくわえた。せっせと袋を折りたたみ、仕舞う。秋兎は授業の支度を済ませていたので、落ち着いて前を向き先生が来るのを待っている。
どら焼をもぐもぐと咀嚼しながら、先ほどの秋兎のことばを思い出す。
秋兎は「方法はいろいろある」と言った。声が出なくても、手ぶりはできる。筆談とか、あるいは表情だって、立派なコミュニケーションの手段だろう。
でも、陽華は全くといっていいほど、そのようなことを試して来なかった。
クラスメイトたちが自分の席に着く。やがて先生がやってきた。教卓に荷物を置き、黒板に数式を書きはじめる。白いチョークがコツコツと板を叩いた。
……そういえば、陽樹に渋谷へ連れていかれた時、陽華は一度も「イヤだ」とか「行きたくない」とかいう言葉を口にしなかった。別に、陽樹が怖かったわけではない。彼を前にしても、夏漣の時のように、ことばに迷ったり、あたふたしたりはしないはずだった。
でも、陽華は本心を言葉にできなかった。手ぶりもなかった。表情を見られないように、電車でも通りでも下を向いていた。
本当に、自分は他人に怯えているのだろうか……。もしかすると「相手が誰なのか」ということは、あまり重要ではないのかもしれない。条件は自分の方にあるのではないかと、陽華は思いはじめた。
こっそりと教室を見回し、顔触れを眺める。それが誰なのか、まったく見当のつかない人もいる一方、何やら見覚えのある顔立もちらほら。陽華と陽樹ほどではないにしろ、姉弟や兄妹くらいに似ることは多いのだろう。
冬瑙の姿もあった。回答も難なくこなしている。陽華は和やかな気分になった。
「ほら、陽樹」
秋兎が陽樹を呼ぶ。陽華はぼうっとしていた。
「陽樹、当ってるぞ」
自分のことだというのを、陽華は忘れている。
「井上さん」
先生の声にびくりとする。どこからともなく、クスクスとひそめた笑いが湧く。秋兎がささやいた。
「教科書の五十三頁、問二」
一枚ずつ急いでめくる。十頁も前を開いていた。
「大丈夫?」と確認する先生に、アイコンタクトをとる陽華。秋兎がうんうんと頷いた。
「三角形ABCで、角Bの対辺bの長さを求める問題ね。井上さんは、わかるところだけでいいから。辺Aの長さは、問題にはいくつって書いてある?」
教科書に、そのまま1とある。陽華は答えようとして、口を開き、あせった。声が出ない。
「……ちょっと聞こえないから、もっと大きい声で言ってもらえるかな」
酸欠の金魚のように口をパクパクする陽華。
いつもの授業なら、こういう時でも先生が気を使ってくれる。陽華は周りをきょろきょろ見回した。秋兎と目が合った。
陽華は、人差指を立てて「1」をつくった。
「そうそう。1だね」
黒板の三角形に、コツコツと数字が書き加えられる。
「じゃあ、角Bの大きさは?」
90度である。陽華は両手で「9」をつくり、つづけて左手で「〇」をつくった。
秋兎が先生に見えないように、小さくガッツポーズをとる。
「角Cは」
75度である。面倒臭い。陽華のなかで、何かが変った。
席を立ち、前へ歩いていく。秋兎が目をぱちくりさせる。
左右のクラスメイトに見送られるさまは、遠目には悠々と見えた。ファッションショーのモデルさながらだ。でも、ほとんどの生徒にはわからなかったが、動きがカクカクとぎこちなかったし、表情は強ばっていた。陽華はガチガチに緊張していた。
教卓の横まで来るころには、先生も意図を理解していた。優しそうにほほえんで白いチョークを手渡す。陽華は角Cに「75°」と書き込んだ。
「はい、その通り。じゃあ、せっかく前まで来てもらったから、答を出す過程も書いてもらおうかな。わかるところまで」
いやに「わかるところまで」を強調した言い方だった。陽華は疑問に思いつつも、そのようにした。
三角形を囲む、大きな円を描く。
『△ABCの外接円の半径をRとする。図のように、∠Bは直径の上に立つ円周角になるから……』
目にも留まらぬ速さで書いていき、しかもそれが達筆であるので、クラスメイト達はどよめいた。
陽華にとって、大勢の前に立つのは苦痛だった。声も出せない。そんな状態でも、文字でなら何とか伝えることができた。
『∴b=√6-√2』
先生は目を見張った。陽華の解答を一文ずつ確め……丸をつけた。
教室に拍手が沸き起った。
「井上くん、すごいね」「頭よかったんだな」などという言葉に囲まれるなか、秋兎は一人だけ首筋を搔いていた。
先生は「失礼かもしれないけど」と前おきして、陽華にだけ聴こえる声で、次のように言った。
「……人がかわったみたい」