#10 はじめての入れ替わり
どうして、いつもいつもこうなんだろう。
平日の朝。陽華は暗い顔をして学校の廊下を歩いていた。
寒がりの陽華らしく、首にはマフラーをぐるぐる巻いている。長丈のダッフルコートの下に、陽樹に借りたズボンの制服が覗く。長い髪は小さくまとめて、今はショートヘアーのウィッグの中だ。
ここは、陽樹の在学している七姫東高校である。
あのあと、陽華は電車で渋谷へ連行された。あれよあれよと言う間に改札を抜け、街に繰り出す。ホームセンターの雑貨コーナーで、陽樹は二つのウィッグを手に取った。一つはショートヘアー。もう一つはスーパーロング。どちらも色は同じだ。
自分もお金を出したのだろうか。よく憶えていないけれど、お財布の中身がそのままので、陽樹が全額をはらったらしい。気づいたとき、陽華はほの暗い自分の部屋にいた。外は夕焼色だった。ロングヘアーになった陽華そっくりの陽樹が、「あした、よろしくね」と、制服のスカートをひるがえし、カーテンの向こうに消えた。陽華の手元には、綺麗にアイロンが掛かった男子の制服と、未開封のウィッグ。そして、二箱のどら焼が残った。
思いついたらすぐ実行するのが、陽樹のいいところであり、恐いところかもしれない。そんなことを考えながら、陽華は微妙にふくらんだ後頭部をなでた。
もう引き返せないのだけど……陽華はこの「お遊び」に、あまり乗気ではなかった。他人の中に飛び込むのが、イヤでイヤで仕方ないからだ。
陽華は、人間とかかわるのが苦手だ。人間はキライではない。むしろ仲よくなりたいとさえ思っている。でも、人混みに揉まれたり、知らない人と話そうとすると、とても怖くなって、いろいろ苦しいことが起きる。人前では声が出せなくなる。夏祭では過呼吸になった。小学校では体中が真っ赤になり、入学初日で保健室に運ばれた。だから、極力人混みを避け、限られた人間関係のなかで過ごしてきた。どら焼をはみ、犬猫とたわむれて暮らしてきた。
それなのに、自分はどうしてこんなことをしているのだろう。
それは、自分で決めたことだからだ。陽樹に押しつけられたのではなく、陽華自身がこの道を選んだのだ。
「行きたくないの?」
けさ。リビングの姿見の前に陽華は立っていた。ウィッグをかたわらに地毛を束ねていたとき、深樹が訊ねてきたのだった。
陽華は小さく頷いて、尋ね返した。
「どうして、そんなことを訊くの?」
深樹はどら焼を食べながら答えた。
「だって陽華お姉ちゃん。この世の終りみたいな顔してるんだもん」
陽華は鏡を見て、吹き出した。
「ほら、私、人間じゃないから。異種族と関わるのがニガテなの」
そう言って、冷めた声で笑う。その声もだんだんと萎んでいった。陽樹の父がネクタイを締めながら、ばたばたとリビングを横切った。
陽華は無言で髪を梳いている。ゴムでまとめたりもするのだが、すぐに解いて、なかなかウィッグを被らない。
「苦手だからって、逃げてちゃダメだと思う」
深樹が言った。陽華の手が止まった。
「……私だって、わかってるよ。このままじゃいけないって」
つい、小学生相手に言い返してしまう。
陽華は陽華で、もう何年も前から気づいていたのだ。でも、どうすれば道が開けるのか、解決策が見つからないままでいた。
深樹はどら焼を飲み込んで、言った。
「僕、サッカーが苦手なんだけどね」
陽華は彼に目を向けた。深樹は続けた。
「ドリブルとか一年生のころ下手くそで、今も上手くはないんだけど……でも、シュートが決まった時はすごく嬉しいし、やってると楽しいよ。苦手でも、下手っぴでも、楽しくやれる場合だってあるんじゃない?」
陽華は身を乗り出して、「確かにそうかも」と言った。言ってから、顎に手を添えて『考える人』のポーズをとる。
「でも、どうしたら他人と楽しく関われるかな……?」
深樹が思いついた。
「イブに初めて会ったとき、陽華お姉ちゃん、お兄ちゃんと話しててすごく楽しそうだったよ。おしゃべりができたら楽しいと思う」
陽華はしょんぼりした。
「でも私、初対面の人と話せないから」
深樹はマグカップを置いて、考え込んでしまった。今の返しはちょっとイジワルだったかな、と心配していると、彼はまたもや良案を出してくれた。
「陽華お姉ちゃんが今日行くのは、パラレルワールドでしょ。陽華お姉ちゃんの友だちも、きっといるよ」
陽華が「あ、そっか!」と頷いた。
「私、友達いるよ。小学校から仲良しなの。秋卯っていうの」
「じゃあ、お兄ちゃんの学校にも、その、シューさんがいるはずじゃん……名前はちがうかもしれないけど」
陽華はウィッグをかぶって、鞄を背負った。
「私、行ってくる。ミイくんありがとう!」
「どういたしまして。いってらっしゃい!」
リビングのドアが閉まる。深樹はマグカップの牛乳を飲んだ。