プロローグ
「金子せんせー!それとってくださーい!」
何となく青く澄み渡った空を見上げながら歩いていると、ころころと足元に転がってきて、爪先にぶつかってきた茶色いボール。それと同時に耳に届いてきた男子生徒の声に軽く頷いて、両手でそのボールを拾う。
白いYシャツに、キラキラと太陽の光を反射させながら、駆け寄ってくる生徒。確か彼の名前は木下君だったか。その後方では同じようにシャツの袖を数回捲って、暑そうに額に浮かんだ汗を手の甲で拭う別の生徒がこちらの様子を窺っていた。厚手の長袖にコートという私の格好とはまるで正反対の彼らの格好が少し可笑しくて小さく笑う。
「はい、どうぞ」
ボールを持った両手を差し出せば、ありがとうございますと木下君は嬉しそうに受け取った。
「バスケ、好きなの?」
そう尋ねたのは、足元に転がってきたボールがバスケットボールだったから。それに、木下君とその友達の足立君は、バスケットコートで遊んでいるようだった。
木下君は一瞬きょとんとした後、漸く質問の意味が理解できたというように、眩しい笑顔を浮かべた。
「世界で一番好きっス!」
その笑顔に。その、言葉に。
───『世界で一番、好き!』
今ではもう幻に近いいつかの彼の笑顔と言葉が重なって、胸の奥をきゅう、と小さく締め付ける。喉の奥がじわりと熱くなって、私は必死に平静を装って微笑んでみせた。
ああ、数年経ってもまだ、私は彼を忘れられないのね。今でもまだ、過去に囚われて、そこから抜け出せない。
「金子先生は、バスケ好きですか?」
きっと何気なく話題を振っただけだったはずの木下君の言葉が、大きく私の心を揺らす。
「バスケ、ね・・・」
好き、だった。
でもそれは、バスケそのものじゃなくて、バスケをしている彼が好きだった。
幸せそうに走り回る彼が。私に向ける笑顔が。バスケが楽しいと叫ぶ彼の呼吸も、神経の一つ一つも、汗の一粒さえも。全部がひどく愛しくて、尊いものだった。
だから──バスケを何よりも愛していた彼から。バスケの神様に誰よりも愛されていた筈の彼から、それを奪った私に、“バスケが好き”だなんて言える資格はない。
「・・・」
「・・・先生?」
急に黙りこくった私に、不思議そうに首をかしげた木下君に、誤魔化すように私は目を細めて微笑む。
「なんでもない。ほら、早く戻らないと足立君が待ちくたびれちゃうよ?」
そう言って、コートを指させば、「うわ、やべ」と木下君は焦って、私に会釈をしてから走り去っていった。
コートに戻ってまたバスケをやり始めた二人を、私は眩しいものでも見るかのように見つめた。そうしていると、幸せで、穏やかだった彼との時間が蘇るようで。
暫く感傷に浸ってから、再び空へと視線を戻した。
キツく瞼を閉じると、甘く優しい日常は、暗く澱んだあの日の映像に切り替わった。
あの雨の冷たさも。
あの湿った空気も。
胸焼けしてしまいそうな、雨特有の匂いさえ。
鮮明に目の裏にこびりついて、消えてくれない。忘れてはいけないと私を戒めるかのように。
それと同時に記憶の箪笥から引きずり出されたのは、あの時の彼の表情。
ああ、彼の。
彼の、頬に伝うそれは、何だったのだろう。雨?それとも汗。
もしくは。
雨であってと願いながら、心のどこかではもうわかってる。気づいてた。
それが生暖かな、彼の───。
ふとそこまで沈んでいた私の意識を持ち上げたのは、バスっという軽快な音。
懐かしい乾いた音の正体はすぐにわかった。前方では、木下君と足立君が、「ナイッシュー!」と掛け声を掛け合ってハイタッチしている。
ゴールネットを潜ったバスケットボールは、シュートの余韻を残しながら、どこか嬉しそうに左右にゆらゆらと揺れていて。
私はそこからそっと目を逸らした。
もう少しで、冬が終わるよ。
君は今でも、あの笑顔で人を照らし続けているのかな。
そしてまだ──コートを駆け回っているのかな。
そうだったらいいな。そうだったら、私はもう何もいらないとさえ思える程に、幸せだから。
でもきっと君は、今でも私を恨んで、叶えることの出来ない夢に向かって足掻いているのだろうから。
だから、叶うなら。願いがひとつ、叶うならば。
君から大事なものを奪ってしまった日に戻って、私は。
死んでしまいたいよ。
でもそんなこと言ったら、君は優しいから。私を恨んでいるくせに、死ぬなんて言っちゃダメだとかそんなことを言い出すのだろう。それなら私は死ななくてもいい。それでもいいから。君と出会った事を失くしたい。
君との出会いを、無かったことにしてしまえたらいいのにと、思う。
だって君の不幸は、私と出会った所から始まっているから。
私に出会わなければ、君は幸せだっただろうから。
・・・ごめんね。
何度謝っても、叫んでも許してもらえないだろうけど。
だけどね、こんなこと、言うつもりも伝えるつもりも、毛頭ないけど。
君が私をどれだけ憎んでいても。
私が君をどれだけ傷つけたか知っていても。
私は、それでも。
それでも、君が好き。