9.
小さな足跡を見逃さないよう、森の小道を進んでから数分。肌がチリチリするような懐かしい感覚にハッとして足を止めた
「ユーディット?」
その拍子に掴まれていたフリューゲルの腕を引いてしまい、訝しげに振り向かれたがこの際そっちの方が都合が良い
この気配、どこか落ち着かないような感じは敵のものだ
自然界に存在するエネルギーである魔素。その魔素を取り込んだ動植物が変異した魔物と、魔素から生まれる魔族。2つを合わせて敵と称し、どちらも濃い魔素の気配を発していてちょっと旅慣れた冒険者なら感知するのは容易いだろう。当然、俺も
今世では初めての経験だが、そこは昔取った杵柄ってやつだ
「この先に魔物がいます」
「な、何でそんなことわかるんだよ」
まぁ、そんな説明は出来ないわけだが
「あー……なんとなく!なんとなくそんな気がするんです。嫌な予感というヤツですね。ワタシの嫌な予感は当たりますよ」
「はぁ?何だよそれ…」
無視して先に進もうとするフリューゲルの腕にガシッとしがみ付いて足を止めさせる
何すんだと振り解こうとされるが、放さん。放さんぞ
9歳児の少女の身で、お前を守りながら魔物と戦うなんて無茶なんだからな!
「な、はなせよ!歩きにくいだろ!」
「放しません!危険だって言ってるでしょう」
「だから何でおまえにそんなことがわかるんだって…」
……プギィウィィィイイイイイイイイ
甲高くも腹に響くような太い鳴き声
「な、な……なん…?」
「…ボアです」
やばいな。思ったより近いかもしれない
振り向いたフリューゲルの顔は恐怖で青褪めてきている
「い、今のが…まもの…?」
「そうです。ワタシたちでは敵いっこないのでとにかく逃げますよ…!」
硬直しているフリューゲルを無理矢理引っ張る。まだ通常の狩りにも同行してないのに、いきなり魔物と遭遇したとなれば無理も無いけどな
腰を抜かしてないだけマシだが、足を動かしてほしい!
「フリューゲル…!」
「あ、ああ……」
『ヒッ……!』
ようやく逃げる気になってくれたところで短く引き攣ったような悲鳴が微かに聞こえた
その瞬間、フリューゲルが掴んでいた俺の手を振り解いて駆け出す。俺も咄嗟に追いかける
何年の付き合いだと思ってるんだ?今の声がエールのものだってことくらい、俺にもすぐに分かったさ!
こうなったらもう止められないし、止める気も無い。止めてる時間も惜しい
早くしないとアイツらの命が危ない…!
9歳児の体力と脚力にギリギリと歯噛みする。儘ならない自分の身体が憎い
前を行くフリューゲルに引き離されないよう必死に足を動かして、やがて森の中の広く拓けた場所に辿り着いた
「アーリャ!エール!」
「にぃちゃ……!」
「ユーねぇ…」
弟妹たちの名を叫んだフリューゲルの背中越しに見えたのは、背中に剣の突き刺さった巨大なボアと、抱き合って怯える双子
泥だらけで腕や足にすり傷なんかはあるが、大きな怪我は無いようだ……と安堵したところでそのまま駆け寄ろうとしたバカの腕を全力で掴んで引き止めた
案の定バカはどうして止めるのかと噛み付いてきたが、無策で魔物の前に飛び出すは無謀過ぎんだろ!
「あなた死にたいんですか!死んだらあの2人を助けられないし何より皆が悲しみます!」
「じゃあどうすりゃいいんだよ!このままじゃあいつらが食われちまう!」
「まず説明を聞きなさい!2人とも助けて、逃げますよ!」
理性があり、ある程度の知能を持つ魔族と違い、本能の部分が強い魔物には、大抵の場合必勝法というものが存在する
ボアの武器はその牙と、巨体を活かした突進からの体当たりだ。特徴は突進攻撃の際、何かにぶつかるまで止まれないこと。そして、真っ直ぐにしか走れないことだ
すぐ側に大きな木がそびえ立っているのを確認し、俺たちは石ころや木の枝なんかをボアに向かって投げまくった
勿論ダメージなんて1ミリたりとも無いが、そんなモンは二の次三の次だ。痛くも痒くもなくともこれだけ引っ切り無しにパラパラコツコツやられりゃウザいことこの上無いだろう
チビたちに狙いを定めていたボアはフゴッと鼻を鳴らすと、ゆるりと巨体を揺らしてこちらへ方向転換する
よーしよし。怒ってんな?イラっとしたんだな?
完全にこっちを向いたところで攻撃を止め、瞬時に動けるように身構えた
「いいですか、タイミングを間違えれば死にますからね!」
「わ、わかってる!」
…とは言え、フリューゲルのそのガクブルしてる足じゃあ無理だな。土台10歳児に無茶言ってるのは百も承知だが仕方無い
ザッザッと脚で地面を掻くボアの身体がグッと沈むのを確認し、俺は当初予定していた方向とは逆に跳んだ
「!?」
「走れ!!」
フリューゲルを突き飛ばしながら横っ飛びだ
うおぉおおあっぶね!ちょっと掠った!足の先っちょだけどちょっと掠った!
着地なんぞ上手く出来るハズもなく、ボアが大木に激突したんだろうズドンという激しい音とともにゴロゴロ無様に転がってしまったが、俺が怒鳴るとフリューゲルはすぐに跳ね起きてチビたちのもとへ走った。腰を抜かし蹲っていた2人も彼に向かい手を伸ばす
「「にいちゃん!!」」
「アーリャ!エール!大丈夫か、立てるか!?」
ギュッと2人を抱きしめてからフリューゲルが心配そうに訊ねるが、ワンワン泣き出したチビたちが立って走れるようには見えない
チラリとボアの方を見ると激突の衝撃からまだ回復出来ないようだ。立ち上がろうとしているのか、身動ぎのたび木がミシミシといって剥がれた樹皮がパラパラとボアの体に落ちる
それを尻目に俺はチビたちに駆け寄って、手早くアーリャを背中に負ぶった
「とにかく今すぐ逃げますよ!」
「お、おう!エール乗れ!」
片膝をついてエールを負ぶろうと屈んだフリューゲルの背中に、四苦八苦しながらエールを乗せる。その時、小さなミシミシと言う音が大きなメキメキと言う音に変化した
ハッとして振り仰げば根元からボッキリと折れた木がゆっくりと頭上まで迫ってきている!
「避けろぉおお!!」
頭の中が一瞬真っ白のなり、俺は何かを考える余裕も無いままに全力でヘッドスライディングした
地面に腹這いになった瞬間、低く地響きを立てて木が倒れ伏し、その振動と風圧で吹っ飛ばされた俺には、背中のアーリャを庇うのが精一杯だった