号砲
※あくまでも「if」であり、史実を所々改変しております。
現在の暦に従うのなら、1600年は8月24日のこと。
その日の大坂城下は緊迫に包まれていた。
会津の上杉を討つべく挙兵した徳川家康。その討伐は「豊臣天下への反逆者を討つ」という名目のもと、各地の大名が招集された。
のちの「会津征伐」である。
しかし、これに呼応するように石田三成が挙兵。大坂城へ入城し、徳川家康の罪状を並べ、反逆者とした。
そんな三成が行ったのが、亡き主君・豊臣秀吉がもしものためにと用意していた策の実行だ。
太閤・秀吉が行った政策「各大名は家族を大坂に住まわせるべし」。これにより、大坂には各地の武将たちの妻子が住んでいる。
その理由は、反逆の際に妻子を人質とするため。
三成はその妻子たちを大坂城へ入城させようとしたのだ。
従うべきか、抗うべきか。
従えば、大名に影響する可能性もある。
かといって、わずかな家臣しか居ない大坂屋敷において、抗う術など無い。
大坂は火が消えたかのように、その賑わいを無くしていた。
夜。月明かりが包むのは巨大な物体、大坂城だ。豪華絢爛を形作ったような天下の名城。しかし、その城下は昼とは違い、喧騒に包まれていた。
騒ぎの原因は火である。一軒の屋敷から上がった火が人々を賑わせる。
もちろん、ただの火事ではない。
と、そんな城下を走り抜ける影がある。男だ。
8月25日。いや、もう26日になったかもしれない。夜道を駆ける男がいた。
走る。
足を動かす。地面を蹴る。
足がよろけても。棒のようになっても。
走る。
月明かりを頼りに駆ける。背負った銃が重く、僕の体力を地味に、しかし確実に奪っていく。
たとえ、息が切れても足が千切れても……僕は走らなければならない。
燃え盛る住居ーー住居だった何かーーを背景に、僕……稲富祐直は走っていた。
想像力が豊かなのだと思う。
小さな頃。厠に行く際に見た壁のシミが、妖怪のように自分を睨んでいるように思えて怖かった。
自分の想像力が、壁を怪異とした。
引き金を引く時。失敗を想像し、恐怖した。そして乱れた心で狙った弾は空を切った。
自分の想像力が、失敗を招いた。
……と、そんな風に婉曲的に、歪曲的に自分を評価しても仕方がない。
それは「逃げ」だ。
端的に言うと、僕は臆病者なのだ。有り体に言って、ヘタレなのだ。
銃の扱いには一家言ある、と自負している。僕は砲術家だ。経験と計算で生み出された僕の射撃は百発百中、と言っても過言ではない。訓練では、だが。
どうしようもないくらい、本番に弱い。
どうしようもないくらい、本番が怖い。
引き金の重さは命の重さ。
訓練には感じられない重みが、実戦にはあるのだから。
失敗が敗北に、そして死に直結する戦場。そこで引き金を引く勇気が僕にはない。そこで命を捨てる気概が、皆の命を背負う覚悟が……僕には欠如している。
僕は……どうしようもないくらい、弱い。
だから、僕はその引き金を引けずにいた。
細川忠興さまに仕える僕は、会津攻めに加わることはなく、大坂屋敷の守備を任された。これはすなわち、奥方の細川珠さまの警備でもある。
奥方さまを任せるほどの信頼を僕に寄せていたのか、実戦において役に立たない僕を連れていかなかったのか……恐らくは後者だろう。
そもそも……殿は、こと奥方さまに関しては、信頼して任せようとはしなかった。誰にも、だ。
僕らは、殿が出兵する前にはいつも必ずこんなことを言いつけられる。
ーーもし、万が一屋敷に危機が訪れたら……まず敵の手にかかる前に奥を殺せ。そしてその後、全員切腹しろ。
武術だけでなく芸術の道にも優れた殿は、唯一の欠点というか弱点を抱えていた。それは、頭に血が上りやすいこと。特に奥方さまのことになっては異常とも言える行動を取る人だった。嫉妬に狂うくらいなら、いっそ……そう殿が考えても無理はない。
対する奥方さまは、優雅で気品溢れる美しい方だそうだ。首からは十字架を提げ、定刻になると祈りに行っていたらしい。何でも、南蛮から伝わった神を信じる切支丹だというそうだ。ガラシャという洗礼名とやらまで貰ったとか。
……と。僕の証言が全て伝聞系なのは不思議かもしれない。しかし、本当に僕は分からないのだ。伝え聞いたことしかない。
殿の命により、限られた侍女たちとしか会話を交わさないーー交わせないーーのだ。
僕にできるのは、部屋から漏れる異教の神への讃美歌を聞き、その声に姿を想像するのみ。
その日が来るまでは。
石田三成の挙兵と人質としての大坂収容に対し、僕ら家臣団が出したのは「奥方さまを生かすこと」。すなわち、石田方に従おうというーー今思えば保守的で保身的なーー結論だった。
しかし、奥方さまはこれを拒んだそうだ。
「あなたたちは殿の言い付けに従いなさい」
十字架を握りしめ、あくまでも静かに、奥方さまはそう言ったらしい。
殿の異様なほどの奥方さまへの愛は、天下に知れ渡っている。奥を手に入れれば細川家を取り入れられるという目論見で、細川屋敷は石田方の兵によって囲まれた。
周りには『大一大吉大万』と書かれた石田の旗指物が林をつくるように立ち並び、ガチャガチャと鎧が擦れる音が聞こえた。
まさに、ネズミ一匹すら出さないような包囲網。もはや、後はなかった。
異教では自害を固く禁じるらしく、家老を務める小笠原秀清殿が介錯を行い、屋敷に火をつけ、僕ら家臣団が自害する。用意しておいた火薬に火が廻ることで、奥方さまの遺体を敵に渡すことは無いというわけだ。
決行は夜。
そんな僕は残されたわずかな時間をどうすべきか悩んでいた。趣深い屋敷の庭を眺めつつ、僕は考える。
そこに、死への恐怖は全くと言っていいほどに無かった。
未知のものに恐怖を持つのは、およそ生物には当然の反応だろう。まして、僕のような臆病者はその反応が過敏だ。
しかし、およそ人生において未知の極みとも言える「死」を目前にしている今、僕は全く怯えていない。
「死」は僕の想像力の限界を超えているからだろう。
想像出来ないからこそ、逆に諦めがついている。
それとも、僕はひょっとしたら存外胆の据わった人間なのかもしれない。
自嘲気味に、かすかな笑い声が出た。そんなわけはない。僕はただの臆病者だ。
前方に目をやる。風流人としても知られる殿が、凝ってつくった至高の庭。個々は特徴ある木々や石だが、全体として見るときっちりと調和がとれていて、落ち着いている。自分の最期の景色としては立派すぎる眺めだ。殿に感謝しなくては。
ふと、肩に背負った銃に目をやる。どうせなら使い慣れない刀ではなく、愛用していたこれで死のう。火薬を詰めておかなくては。
と。ゆっくりと襖が開く音がした。そこで気づく。ここは奥方さまの部屋の前だ。
急いで退散しなくては……と、足を動かしたとき。
「……稲富」
柔らかく、それでいて凛とした声が僕を呼んだ。応答せねば、と頭は言うが、体がそれに付いてこない。現実だと判断していない。
「稲富祐直、ですよね?」
ひざまづく。聞き間違いでも幻想でもない。
奥方さまは僕を呼んだ。この僕を記憶していた。姿を見ていないがために、僕の中ではある種、神格化していたのかもしれない。ただ名前を呼ばれただけなのに、頬に涙が伝っていった。
「顔をあげなさい。……ここには殿は居ませんし、気づかれる心配もありませんよ」
イタズラっぽく笑う。その態度が想像と違ったことに驚き、顔をあげてしまった。
天女とはこんな感じだろうか……そう思わせるだけの神々しさが外見にはある。そこまでは伝え聞いた通りだった。
しかし、あどけなく笑う姿は、聞いた中では想像できなかった。
まして、夜になれば彼女も死ぬ。
なのに、何故この珠という女性は、こうも自然としていられるのだろうか。
この方は……。
「奥方さまは……死が怖くないのですか?」
つい、口から出てしまった。無礼にも程がある。平生を装いつつも、やはり僕は高揚し、動揺しているのだろう。死が近づいてきているという、この状況に。
「ええ。これは『死』ではありませんから」
彼女は続ける。清らかな声で賛美を歌うように。
「祝福を受けるのですよ。私たちは天に昇り、真の幸福を手に入れるのです」
僕が聞きたいのは、そんな宣教師が語るような文句ではない。
そんなことを聞きたいんじゃない。そう告げようと思った。
が、言えなかった。
何故なら、奥方さまの人差し指が僕の口を塞いだからだ。
奥方さまは、僕のいる庭へと降りていた。
全く気づかなかった。
僕はそれほどまでに彼女の声に心を奪われていたのか。
「……なんて。そんなことを言っては、あなたの納得は得られないでしょうね」
そう言って、ゆっくりと指を離した。僕はそんなに納得いかないような顔をしていたのだろうか。あるいは、ほぼ軟禁状態の夫婦生活で、人の感情に対して過敏になっているのかもしれない。「あの」明智光秀の娘として、幼い頃から苦労を重ねてきた彼女ならば、あり得る話だ。
薄い紅をつけた唇が動く。
「私の死は、開戦を告げる合図となるのですよ」
今、会津征伐に向かった徳川殿たちがどうするのかは分からない。
しかし、恐らくは引き返し、石田三成たちと戦うのだろう。
その場合、招集した戦力をそっくりそのまま石田との戦いに当てることができるかどうかがカギとなるのだ。
もし、人質とした妻が敵方に居たなら。
表面上は義のために戦おうとするかもしれない。しかし、心には躊躇いが生まれる。
だが……もし、抵抗して亡くなったなら。
戦国を生きる大名たちの多くはこう考える。
すなわち「戦場に女を巻き込むとは何事か。逆臣・三成を許すまじ」と。
「あなたの領分で例えるなら……ソレ、ですね」
そう言って指差すのは、僕が背負った銃。
「私の死は、号砲となるのです。天下を分けるであろう大戦、その開始を告げる1つの銃声と」
そう言う奥方さまの顔は落ち着いていて、目からは意思の強さが感じ取れる。
僕は、しばらく何も言うことができなかった。
想像できない。
自分の死に、どれだけの意味が、価値があるのかを彼女は分かっている。
ここが、使いどころだと分かっている。
彼女は……奥方さまは、どれだけのものを背負っているんだろう。
僕のちんけな想像力では分からない。いや、分かろうとしていない。臆病な僕が、理解を拒絶している。
それほどのものを、奥方さまは背負っている。
そして、僕は運命の時を迎える。
細川忠興正室、細川珠……いや、ガラシャは自室で祈るように目を閉じて座っていた。小笠原秀清は次の間に控えている。
「奥方さま、そろそろですな」
長らく使えてきた留守居役の老臣はそう声をかける。
やがて、襖が開く。秀清はあらかじめ用意しておいた衝立を2つの部屋の敷居に置いた。得物は刀に比べて攻撃範囲の広い薙刀。これによって、部屋に入らなくとも刃を届かせることができるのだ。
たとえ、今後叱責を受けることは無くとも、このような対応をこの老臣が取ったところに、忠興の嫉妬深さと主君としての影響力が見える。
「……苦労をかけますね」
ガラシャはそう言うと衝立の前に移動し、十字架を握り、何やら呟いた。そして、一呼吸を置いた後にゆっくりと目をつむった。
秀清は一礼をし、その胸を貫く。
肉を刺す生々しい感覚を感じ、秀清は奥方を殺したこと……つまり主君の第一の命を果たしたことを実感した。
そして、第二の命を果たすべく、灯火を倒して火をつける。もう少しすれば火は室内に廻り、置いてあった火薬によってガラシャの遺体は吹き飛ぶ。
秀清は自らの身が吹き飛ぶ前に刀を抜き、腹をかき切る。武士としての最期を飾れたことに誇りを感じつつ、老臣は静かに意識を失った。
爆発が屋敷を包み、火が天に向かって立ち昇る。
この報せを受けた三成は慌てて、大坂城への人質収容を中止したという。
僕は、その火を眺めていた。城下を抜けた先にある関所には、たまたま僕の鉄砲における弟子がいた。その計らいによって抜けることができた。運にも救われた僕は、今もこうして生きている。だが……。
名も知れない山上から、火を、それに包まれる建物を眺める。
僕は、あの場から逃げ出した。爆発に目を奪われる兵に紛れ、気配を消して抜け出した。
ーー逃げなさい。
奥方さまの声が、耳に、頭に、こびりついている。反逆者・明智光秀の娘として生まれ、数多くの困難を乗り越えてきた彼女の言葉。
ーー細川家正室として、稲富祐直に命じます。あなたは逃げなさい。
その時の奥方さまの顔は、切支丹たちが崇拝するマリア様の絵に似ていた。全てを包み込むような、慈愛に満ちていた。
ーー生きなさい。生きて、このことを忘れないでください。
異論も、反論も、何も受け付けずに奥方さまは自室へ戻った。何も言えずに黙って立っていることしかできなかった。やがて部屋から漏れ出したのは賛美の歌。
透き通るような声が、鼓膜を揺らす。
僕は、動き出す。生きるために。忘れないために。
黒の中にある赤。炎の勢いも次第に小さくなってきた。
「これから、大戦が始まるのかな……」
それは、もしかすると応仁の乱を超えるほどの長期戦かもしれない。
はたまた、1日もしくは一瞬で終わってしまうような、決戦なのかもしれない。
そもそも、戦なんて起きないのかもしれない。
僕には想像できない。想像力が豊かだなんて、勘違いもいいところだった。
ただ1つ。想像せずとも言えることは……。
「絶対に忘れませんよ」
逃げ出した僕に待っているのは、かなり苦しい人生だろう。殿の性格上、殺されるだけで済むとは思えない。地獄のような現世を歩くことになるだろう。まさに生き地獄と言うべき生涯が僕を待っている。
けれど、僕は死なない。それら全てを背負う覚悟はできている。彼女が背負ったものに比べたら軽いものだ。
絶対に忘れない。忘れるわけがない。このことを僕は語ろう。後世にまで伝わるように。
僕は、罪を背負いながら生きていく。
さらさらと火薬を流し込み、弾を入れたら棒でぐいぐいと押し込む。点火薬を入れ、火蓋を切ったら発砲準備は万端だ。構える先は空。
奥方さまによれば、人は死した後は天に昇るのだという。
引き金を引いた。
天に向かって放った弾は泣くように音をたてて飛んでいく。それはやがて夜の闇に消えていった。この音は、この弾は、天まで届くのだろうか。
願わくは、天に昇った彼女への祝砲となることを。
曲調しか分からない、うろ覚えの讃美歌を口ずさみながら、溢れる涙を止められずにいた。
冷たい風が僕の頬を撫でる。
夜はまだ深い。
稲富祐直と聞いて、すぐ分かる方はかなりスゴいと思います。自分は最近まで知りませんでした。
稲富流砲術の始祖で幕府鉄砲方。神業的な射撃の逸話がちらほら見られますが、評価は低いです。
その理由はやはり人質作戦においての逃亡かな、と。
特に「あの」細川忠興ですので。奥を見捨てて逃げ出したと知ったときの怒りはかなりのモノだったようで。
その後、稲富は任意引退に追いやられ、再就職も出来なくなるという生き地獄を見ますが、その鉄砲の腕を惜しんだ徳川家に仕えることができたようです。
射撃における逸話が多いのに実戦での功績は少ない……という所は、どこか人間らしさがあって自分は好きです。本番に弱いタイプ、みたいな。
妄想にお付き合いいただき、ありがとうございました。




