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妻に若手俳優の靴を磨けと言われた夜、彼らが欲しがる契約はすべて僕の一存だった

作者: 熾星
掲載日:2026/07/09

 


 1.深緑のマフラー

 付き合っていた頃、僕は美玲に一つだけ話したことがある。

「もし、いつか僕のことを好きじゃなくなったら、言葉で言わなくていい。深緑のマフラーを贈ってくれたら、それで分かるから」

 冗談ではなかった。子どもの頃、父にはずっと外に女がいた。母をマンションの上階から飛び降りるところまで追い詰めたその女は、首に深緑のスカーフを巻いていた。母が白い布をかけられて運ばれていく時、その女は人混みの後ろで、かすかに笑っていた。

 結婚三周年の記念日。佐伯美玲が僕に贈ったのは、深緑のマフラーだった。

 僕は東京湾岸のタワーマンションの一室で、スマホを握る指に力を込めていた。一時間前、美玲はInstagramのストーリーズに一枚の写真を上げていた。今売り出し中の若手俳優、朝比奈悠真がメルセデス・マイバッハの助手席に座り、限定モデルの腕時計を抱えている。無邪気な笑顔だった。まるで、その贈り物の裏で誰の尊厳が踏みにじられているのか、何も知らないみたいに。

 添えられていた言葉は、たった一行。

【頑張った悠真には、最高のご褒美を。】

 その時計の金は、東京にこの冬一番の雪が降った夜から、僕が丸一か月、仕事のあとにフードデリバリーの配達をして稼いだものだった。

 美玲は都内の芸能事務所で広告営業を担当していた。企業案件、ブランドイベント、映像制作の出資案件をつなぐ窓口にいる。朝比奈悠真は、その事務所がここ二年ほど力を入れて売り出している若手俳優だった。

 先月、美玲は僕の古いトヨタ・クラウンを勝手に売った。あんな車を湾岸マンションの地下駐車場に置いておくなんて恥ずかしい、と言って。あとになって知った。その金は、朝比奈のマイバッハ送迎車の費用に回されていた。

 午前三時、美玲がようやく帰ってきた。

 玄関の鍵が、かちゃりと回る。ヒールが大理石の床を叩く音は、妙に澄んでいて、耳障りだった。入ってきた彼女の顔には、まだ誰かに向けていた笑みが残っていた。けれど、リビングに座っている僕を見た瞬間、その笑みは跡形もなく消えた。

 美玲は玄関に置かれた、洗いすぎて白っぽくなったスニーカーを一瞥し、眉を寄せた。

「蓮、何度言えば分かるの。汚いものを家の中に入れないで」

 彼女はつま先でその靴を外へ蹴り出した。靴が廊下の壁にぶつかり、鈍い音を立てる。美玲は玄関棚から消臭スプレーを取り、僕がさっきまで立っていた場所に二度吹きかけた。まるで、何か気持ちの悪い痕跡を消すみたいに。

「貧乏くさい匂い。頭が痛くなる」

 僕は何も言わなかった。十数時間、冷たい外にいた手は腫れて紫色になり、関節のところがいくつも裂けていた。指の間には黒い泥が入り込んでいる。雪道で転んだ時、彼女のために買った記念日のケーキを守ろうとして、手をついた傷だった。

 僕は無意識に手を伸ばした。昔のように、彼女のバッグを受け取ろうとしただけだった。

「触らないで」

 美玲の声が、一瞬で冷えた。

「その手で、私のバッグに触るつもり?」

 僕の手は宙で止まった。やがて、ゆっくりと背中の後ろへ引っ込める。

「……ごめん、美玲」

 彼女は僕を見なかった。そのままキッチンへ向かう。すぐに保温ポットの蓋が開く音がして、続いてスマホ越しに話す、甘ったるい声が聞こえてきた。

「悠真、起きてる? ツバメの巣、できたよ。今から持っていくね。明日レッドカーペットでしょ。コンディション、絶対に崩せないから」

 僕はリビングに立ったまま、懐にしまっていた安物のネックレスを抱えていた。小さなジュエリーボックスは体温で温かくなっていたのに、僕の手のひらは少しずつ冷えていった。

 この部屋で、僕はもはや邪魔な家具にすぎなかった。古くて、目障りで、場所を取るだけのもの。

 美玲は小さな保温ポットを持ってキッチンから出てきた。僕の横を通り過ぎる時、視線の端にすら入れなかった。僕は咳を二度した。喉の奥に、鉄のような味がした。

「外、雪がひどいよ。路面も凍ってる。行かないほうがいい」

 彼女はようやく足を止めた。玄関で靴を履き替えながら、こちらを振り返る。

「咳なんかしないで。縁起でもない」

「……」

「あなたみたいな甲斐性なしに何が分かるの。悠真は明日レッドカーペットに出るの。少しでも調子を崩したら困るのよ」

 ドアが開き、冷たい風がリビングに流れ込んだ。美玲は出ていく直前、床を見下ろした。

「床、ちゃんと拭いておいて。黒くて汚い。見てるだけで嫌になる」

 ドアは僕の目の前で、強く閉まった。

 僕は床に膝をつき、彼女が言った黒い点を見つめた。

 それは泥ではなかった。

 朝比奈の応援に向かうファンの車を避けようとして、僕は配達用の自転車ごと路肩の氷水に落ちた。ケーキの箱だけは抱えて守ったが、氷水はコートを濡らし、少しずつ体の上で溶け、家の床まで滴っていた。

 ソファにつかまって立ち上がり、雑巾を取りに行く。熱が高くて頭がぐらつき、雑巾すらうまく絞れなかった。

 その時、スマホが震えた。

 朝比奈からスクリーンショットが送られてきていた。

【古い車より、美玲さんが用意してくれたマイバッハのほうがずっと快適ですね。美玲さんにも、配達のバイトをしている旦那さんにも感謝です】

 写真の中で、美玲は彼の肩に寄りかかっていた。小さな銀のスプーンで、うちにあったツバメの巣を一口ずつ食べさせている。彼女は笑っていた。僕が見たことのない笑顔だった。区役所に婚姻届を出しに行った日でさえ、彼女はあんな顔をしなかった。

 僕は手元のケーキ箱を見下ろした。雪水を吸ったピンク色の包装紙はぐずぐずに崩れ、中の生クリームも無残につぶれている。人気の洋菓子店で二時間並んで買った、いちごのショートケーキだった。美玲が昔、いちばん好きだと言っていた味だ。

 キッチンへ入った。ゴミ箱はすぐ横にあったが、僕はケーキをそこに捨てなかった。

 コンロの上には、彼女が朝比奈のために炊いたツバメの巣の小鍋が置かれていた。蓋を開けると、粘り気のある甘い匂いが残っている。僕は表情を変えず、形の崩れたケーキをその中へ落とした。

 それから、懐からジュエリーボックスを取り出した。中には、銀色のネックレスが入っている。小さな太陽の形をしたチャームがついていた。

 下班後、フードデリバリーの配達を続けて、少しずつ貯めた金で買ったものだった。凍った坂道で三度転び、届けた頃には注文がキャンセルされていて、一円にもならない日もあった。それでも、これは僕なりに差し出せる、全部の気持ちだった。

 僕はそれを長い間見つめていた。

 指の力を抜くと、ネックレスは小鍋の中へ落ち、澄んだ音を立てた。



 2.119のサイレン

 高熱が三日続いた頃、僕は血を吐いた。

 この数日、美玲は一度も帰ってこなかった。胃がねじれるように痛み、僕は床の上で体を丸めていた。冷や汗でスマホの画面がにじむ。何度も指を滑らせて、ようやく彼女に電話をかけた。

 呼び出し音は長く続いた。もう誰も出ないのだろうと思った頃、受話口の向こうで騒がしい音がした。背景は会員制のカラオケラウンジらしい。重低音が耳の奥を叩き、周囲では誰かがはしゃいでいる。

「美玲さん、太っ腹!」

「今夜の会計、美玲さん持ちだって!」

 僕は血の泡を吐き、声を震わせた。

「美玲……胃から血が出てる。薬が、もう家にない。帰ってきて……くれないか」

「蓮、また?」

 彼女は僕の言葉を遮った。声には、はっきりとうんざりした響きがあった。

「私が悠真と一緒にいる時に限って、具合が悪くなるのね。少しは別の言い訳を考えたら? もう聞き飽きた」

 胃の痛みで視界が暗くなる。僕はまた咳き込み、血が床に落ちて、ゆっくり広がった。

「本当なんだ……たぶん、もう……」

 電話の向こうから、朝比奈の声が聞こえた。柔らかく、わざとらしい声だった。

「美玲さん、旦那さん、怒ってるんじゃないですか? 先に帰ってあげてください。僕は大丈夫です。ただの打ち上げですから、無理しないで」

 美玲の声が、すぐにやわらかくなる。

「悠真、そんなこと言わないで。今日はあなたのために来たんだから。誰にも邪魔させない」

 次の瞬間、彼女は電話越しの僕に、刃物のような声を向けた。

「聞いた? 悠真はこんなに気を遣ってくれてるの。あなたも大人なんだから、いちいち大げさに騒がないで。死ぬわけじゃないなら、もう電話してこないで」

 電話は切れた。

 ツーツーという音は、窓の外の雪よりも冷たかった。

 僕は床に這いつくばり、肘で体を支えようとした。けれど力が抜け、血だまりの中へ滑り込む。薬箱には緊急用の薬が残っているはずだった。リビングから廊下へ、少しずつ這って進む。床には赤黒い筋が残った。誰かがこの家に、最後の警告を書きつけたみたいだった。

 ようやく薬箱に手が届いた。

 中は空だった。

 数秒後、思い出した。

 先週、美玲はここに立っていた。家事代行のスタッフに片づけを指示しながら、朝比奈とLINE通話をしていた。

「大丈夫。あの薬の瓶とか、見てるだけで気分が悪いから、全部捨ててもらった。今度うちに来ても、ああいう病人くさいものは見えないから」

 スマホが指の間から滑り落ち、床に当たった。

 画面が光る。朝比奈から、また写真が届いていた。

【今夜は美玲さんが僕のために打ち上げを開いてくれました。Patek Philippeまで。美玲さんにも、頑張って稼いでくれた旦那さんにも感謝です】

 写真の中で、美玲はつま先立ちになり、彼にふざけた誕生日用の王冠をかぶせていた。テーブルには美しいケーキが置かれている。彼女は目を細め、愛おしそうに笑っていた。

 僕はその写真を見つめたまま、また喉の奥に血の味がこみ上げるのを感じた。

 最後に残った力で、119を押した。

「救急です……吐血しています。住所は――」

 救急車のサイレンが遠くから近づいてきた。救急隊員が家に駆け込んできた時、床に広がる血を見て、一瞬だけ言葉を失っていた。

 僕は担架に乗せられた。車窓の外では、まだ大粒の雪が降っている。

 救急車が動き出した瞬間、黒いマイバッハが横を通り過ぎた。車の中で、美玲が身を乗り出し、朝比奈のために誕生日のろうそくへ火をつけているのが見えた。ろうそくの光に照らされた彼女の横顔は、別人みたいに優しかった。

 僕はそこで、とうとう意識を失った。

 酸素マスクの内側が、赤く染まっていく。目尻を滑り落ちたものが涙なのか、溶けた雪なのか、自分でも分からなかった。

 ……

 救急外来の灯りは、吐き気がするほど白かった。僕はベッドの上で、医師と看護師の声を聞いていた。

「ご家族とは連絡が取れていますか」

 看護師が首を横に振った。

「奥様に何度もお電話していますが、つながりません」

 医師の声が低くなった。

「すぐ処置室へ。これ以上遅れると危険です」

 スマホの電池はほとんど切れかけていた。画面には、美玲から届いたLINEが残っている。

【悠真が飲みすぎたから、ホテルまで送っていくね。晩ごはんは自分でどうにかして。待たなくていいから】



 3.連れて行かれた夫

 退院の日、僕は一人で手続きを済ませ、あの家へ戻った。

 美玲はいなかった。部屋には生活の匂いがなかった。丁寧に整えられたモデルルームのように、綺麗で、冷たく、人の気配がない。

 夜になって、ようやく彼女は帰ってきた。知らない香水の匂いをまとい、目には罪悪感も心配もなかった。

 彼女は僕の体調を尋ねることすらせず、アイロンのかかった会場スタッフの制服を放り投げてきた。生地は粗く、明らかにサイズも小さい。

「着替えて」

 その声は、拒否を許さなかった。

「今夜、神宮寺ホールディングスの映像投資レセプションがあるの。悠真の身の回りを手伝う人が必要なのよ。あなた、雑用ならできるでしょ。ちょうどいいから一緒に来て」

 僕はその制服を握り、心の中で冷たく笑った。

 神宮寺ホールディングスのレセプション。そこには会長である僕も出席する。彼女は僕の前に立ちながら、本気で、僕を別の男の雑用係として連れていくつもりでいた。

 僕は制服をソファに戻した。

「行かない」

 美玲の眉が跳ね上がる。

「蓮、調子に乗らないで。うちの事務所は今、悠真のために神宮寺グループの新ブランドCM契約を取りにいってるの。こんな大事な時に、少しのミスも許されないのよ」

 彼女はそこで、ようやく僕が法律上の夫であることを思い出したようだった。

「来ないなら、離婚する」

 僕は彼女を見た。

 別の男のために、僕たちの間に最後に残ったものを脅しに使う。

 それでいい。

 レセプション会場は、光に満ちていた。

 神宮寺ホールディングスが主催する映像投資レセプションには、映画プロデューサー、ブランド担当者、広告代理店、大手芸能事務所の関係者が集まっていた。朝比奈は人の輪の中心に立ち、若い王様のように持ち上げられている。

 彼は僕を見ると、軽く手招きした。その仕草は人を呼ぶものではなく、犬を呼ぶようなものだった。

 朝比奈は片足を差し出した。オーダーメイドの革靴には、埃一つついていない。

「これ、拭いてくれる?」

 僕が動く前に、美玲が一歩前へ出た。声を潜める。

「何をぼうっとしてるの。家では床掃除だけは手際がいいでしょ。早くして。ここで悠真に恥をかかせないで」

 周囲から、押し殺した笑い声が聞こえた。

 朝比奈は赤ワインのグラスを揺らした。手首が軽く動き、半分ほどのワインが僕の白いシャツにかかる。彼は口先だけで謝りながら、顔にはからかうような笑みを浮かべていた。続けて、口元を拭いたハンカチを僕へ差し出す。

「あ、すみません。手が滑りました」

「お疲れでしょうし、これで拭いてください」

 全員の視線が、僕に集まった。

 僕は自分のポケットからハンカチを取り出した。彼の靴には触れなかった。頭を下げ、自分の指についたワインだけを、ゆっくりと拭き取る。

 美玲の顔が一瞬で赤くなった。人前で逆らわれたことが、彼女には平手打ちのように感じられたのだろう。彼女は駆け寄り、手を振り上げた。

「何なの、その態度! 悠真に謝りなさい!」

 その手が僕の頬に届く前に、僕は彼女の手首をつかんだ。力は強くない。ただ、振りほどけない程度には十分だった。

 僕は目を上げて彼女を見る。

 その瞬間、美玲の顔に初めて怯えが浮かんだ。

 彼女は、僕がそんな目で彼女を見るのを、一度も見たことがなかったのだろう。

 朝比奈が美玲に近づき、耳元で囁いた。

「美玲さん、こんな人に時間を使うのはやめましょう。神宮寺会長がもうすぐいらっしゃいます。あなたがこの人と揉めていたら、会長にどう見られるか分かりませんよ。僕たちのことも」

 僕たち。

 その言葉は、あまりにも自然で、あまりにも親密だった。

 美玲の顔色が変わる。若い俳優のために、神宮寺ホールディングスという大きな木にしがみつくために、彼女は何でも捨てられる。僕という邪魔な夫さえも。

 美玲はブランドバッグから書類を取り出し、僕の胸に叩きつけた。

「蓮、これに署名して」

 紙が散った。いちばん上にあったのは離婚届。その下には離婚協議書と、財産分与に関する合意書が重ねられていた。彼女の署名と印鑑はすでに入っている。証人欄まで、事前に用意されていた。

「五万円用意したわ。最後の情けよ。それを持って、出ていって」

 会場が静まり返った。

 次に、抑えきれない失笑が少しずつ広がっていく。誰もが首を伸ばして、妻に養われていた哀れな夫が、膝をついて許しを乞う瞬間を待っていた。

 僕は腰をかがめ、書類を一枚ずつ拾った。床に転がったペンも拾う。

 迷いはなかった。

 末尾に、自分の名前を書いた。

 筆跡が紙に沈んだ瞬間、三年の結婚生活は終わった。

 署名を終えると、僕は書類を持って彼女の前に立った。その紙束を、彼女の顔へ投げ返す。

「分かった」

 僕は彼女を見つめ、一語ずつ告げた。

「その五万円で、少しは頭を冷やせ」



 4.本当の主催者

 美玲が顔を押さえて叫んだ。

「おかしいわよ! この人、おかしくなってる! 警備員は? 早く外へ出して! お客様に迷惑をかけないで。もうすぐ神宮寺会長がいらっしゃるのよ!」

 数人の警備員が、すぐに僕へ向かって歩いてきた。

 彼らが手を伸ばした、その時だった。会場の空気がざわめく。多くの出席者が話しかける機会を狙っていた映画監督、黒川修司が人の波を抜け、まっすぐこちらへ歩いてきた。

 美玲と朝比奈が声をかけることさえできなかったその監督は、僕の前で足を止め、深く頭を下げた。

「神宮寺会長。お待ちしておりました」

 警備員の手が宙で止まる。さっきまでの険しい表情は、一瞬で恐怖に変わった。美玲も朝比奈も、声を失っていた。

 宴会場の扉が開いた。

 黒いスーツを着た男たちが、列をなして入ってくる。神宮寺ホールディングスの役員たちだった。

 次の瞬間、彼らは一斉に僕の方へ頭を下げた。

「会長」

 そろった声が、会場中の囁きを押しつぶした。

 美玲の頭は完全に止まってしまったようだった。彼女は反射的に振り返り、自分の後ろにいるはずの大物を探した。

 だが、誰も彼女を見ていなかった。

 全員が彼女を避け、会場スタッフの制服を着た僕のもとへ歩いてくる。

 助理が素早く近づいた。手には、仕立てたばかりのスーツジャケットがある。彼はそれを僕の肩にかけ、白いシャツについたワインの染みを隠した。

 僕はゆっくりと袖口を整えた。それから会場を見渡し、最後に、美玲の血の気の失せた顔へ視線を止める。

「さっき、誰が僕を僕のレセプションから追い出そうとしていた?」

 朝比奈の手からグラスが落ちた。割れる音が、やけに澄んで響く。美玲の体が震え始めた。唇は何度か動いたが、言葉にはならなかった。

 僕は一歩ずつ彼女へ近づいた。呆然としているその顔を見下ろし、かすかに笑う。

「改めて名乗ろうか」

「神宮寺ホールディングス会長、神宮寺蓮だ」

 美玲の足から力が抜け、彼女は床に座り込んだ。ありえない、と何度も呟く。その声は、だんだん小さくなっていった。

 朝比奈は、さすがに反応が早かった。数歩で僕の前に出ると、作り笑いを貼りつける。

「神宮寺会長、どうかお気を悪くなさらないでください。さっきのは全部、ちょっとした冗談です。美玲さんとも、本当にただの――」

 僕は彼の方を見もしなかった。

「連絡して」

 背後の助理に告げる。

「神宮寺ホールディングスは、朝比奈悠真が関わる広告案件、映像制作案件、スポンサー契約をすべて見直す」

 朝比奈の笑みが、顔に貼りついたまま凍った。

「それから、佐伯さんが担当した企業案件をすべて洗い直して。神宮寺資本が入っているものは、ただちに一時停止」

 助理はすぐに応じ、その場で電話をかけ始めた。

 三十秒もしないうちに、朝比奈のマネージャーのスマホが鳴った。ひとつ、またひとつ。着信音が止まらない。彼は電話を取るたびに、顔色を白くし、青くし、灰色にしていった。

 契約の見直し、損害賠償の相談、広告契約の停止、制作側からのキャスト変更の連絡。すべてが一度に降ってきた。

 スマホが彼の手から滑り落ち、画面が床で割れた。

 美玲がようやく動いた。這うようにして近づき、僕のズボンの裾をつかもうとする。

「蓮、違うの。私が悪かった。本当に悪かったの。彼に騙されていただけなの。私が愛しているのは、ずっとあなたで――」

 僕は一歩下がった。彼女の指は空をつかむ。

「佐伯さん」

 僕は彼女を見下ろした。

「節度を持ってください」

 美玲が固まった。

 会場もまた、固まった。

 僕は署名したばかりの書類を助理に渡した。

「弁護士に回して。明日の朝、手続きどおり区役所へ提出する」

 美玲の顔から、最後の血の気が消えた。

 その時、会場の大型スクリーンが点いた。

 映し出されたのは、数本のLINE履歴とSNSのスクリーンショットだった。朝比奈と美玲のやり取りが、一つずつ流れていく。

【朝比奈悠真:あの配達員、まだ自分がまともな人間だと思ってるんですかね】

【佐伯美玲:その話やめて。気持ち悪い】

【朝比奈悠真:美玲さん、よくあんな貧乏くさい人と一緒にいられますね】

【佐伯美玲:もう限界。今夜、署名させて追い出す】

 会場がどよめいた。

 さっきまで面白がっていた招待客たちは、一斉に目を伏せた。僕の視界に入ることさえ恐れているようだった。

 美玲は立とうとしたが、足に力が入らなかった。

「違う……蓮、説明させて……」

 僕は彼女の前に立ち、見下ろした。

「さっき、僕のことを貧乏くさいと言ったね」

 彼女は口を開いたが、何も言えなかった。

「今はどう?」

 僕は冷たく言った。

「この金の匂いに、君はふさわしいと思う?」

 朝比奈が逃げようとしたが、警備員が前を塞いだ。

 僕は背を向け、感情のない声で命じた。

「外へ。今後、神宮寺ホールディングスの関係する場に、この二人は一切入れないでください」

 警備員はもうためらわなかった。二人は会場の外へ連れ出された。

 宴会場の扉が開くと、外の雪は来た時よりも激しくなっていた。冷たい風が吹き込み、美玲のドレスの裾を震わせる。朝比奈はみっともなく抵抗していたが、誰一人として彼を助けようとはしなかった。

 扉が閉まる。

 泣き叫ぶ声は、外に遮られた。

 黒川監督が僕の横に来て、低い声で言った。

「神宮寺会長、今夜の件は……少々見苦しいものになりましたね」

 僕はグラスを手に取った。口はつけない。

「見苦しいのではありません」

 窓の外を見る。

「掃除をしただけです」

 会場の誰も、もう笑わなかった。さっき何が起きたのかを口にする者もいない。

 僕は落地窓の前に立ち、外の雪を見た。美玲と朝比奈はホテルの外へ出され、雪の中に立っていた。温室から放り出された二匹の動物みたいだった。

 僕はグラスを掲げた。

「乾杯」

 そして、一息に飲み干した。



 5.雪夜の報い

 翌朝、弁護士を通じて離婚届が区役所へ提出された。

 午後、受理の連絡が届いた時点で、僕と佐伯美玲は法律上も他人になった。

 車がホテルの地下駐車場を出る時、助理がキーを一つ差し出した。

「会長、あのマイバッハは会社名義で回収済みです」

 僕はキーを受け取り、一瞥して横に置いた。

 車がバス停の前を通り過ぎようとした時、僕は運転手に速度を落とさせた。

 窓越しに、二人が見えた。

 美玲はバス停の隅で震えていた。朝比奈はその隣に立ち、顔を真っ青にしている。レセプションのために用意したスーツは、雪で濡れきっていた。

 次の瞬間、彼は美玲を突き飛ばした。

 美玲は地面に倒れ、顔を上げる。その目には、信じられないという感情が浮かんでいた。

「悠真……私のこと、最高のパートナーだって言ってくれたじゃない」

 朝比奈は冷たく笑った。

「自分の夫が神宮寺ホールディングスの会長だってことも知らない女のせいで、僕は終わったんですよ。それでまだ、僕に頼るつもりですか?」

 美玲の声が震える。

「一生一緒にいるって、言ったじゃない……」

 朝比奈は手を上げ、彼女の頬を強く打った。乾いた音が、車窓越しにも聞こえた。

「神宮寺の仕事がなければ、あなたには何の価値もない。触らないでください」

 美玲は頬を押さえたまま、完全に固まっていた。

 彼女はスマホを取り出し、僕に電話しようとした。画面が光る。そこには、すでにブロックされている表示が出ていた。

 LINE、メール、事務所の内線、思いつく連絡手段をすべて試したが、すべて断たれていた。

 そこへ、一人の配達員が自転車で通りかかった。雪の中で倒れている彼女を見て、足を止める。

「大丈夫ですか?」

 美玲は顔を上げた。涙でぼやけた視界の中で、その配達員を僕と見間違えたのだろう。彼女は飛びつくようにして、相手の上着をつかんだ。

「蓮、私が悪かったの。本当にごめんなさい。許して……」

 配達員は驚き、力任せに彼女を引きはがした。

「人違いです。配達の邪魔しないでください」

 彼は自転車に乗り、すぐに雪の中へ消えていった。

 周囲では、すでに誰かがスマホを構えていた。

「見て。あの人、昨日のレセプションで追い出された女じゃない?」

「隣にいるの、朝比奈悠真じゃない?」

「本当に? 不倫スキャンダルの現場?」

 動画はすぐにXへ投稿された。

 助理がスマホを差し出す。画面には、刺々しい見出しが出ていた。

 《神宮寺レセプションで騒動 若手俳優と既婚の広告担当者に不倫疑惑》

 コメント数は瞬く間に増えていく。僕は画面を指で流した。表情は変わらなかった。

 車は発進し、バス停から離れていった。

 バックミラーの中で、美玲は雪の上に膝をついていた。朝比奈はすでに歩き去っている。残されたのは、雪の夜にみじめに泣く彼女だけだった。

 かつて、僕が締め出された時と同じだ。

 ただ、あの時の彼女は暖かい部屋の中で、朝比奈と楽しそうに笑っていた。

 今度は彼女の番だった。

 車が角を曲がると、彼女の姿は完全に見えなくなった。

 助理が尋ねた。

「会長、次はどちらへ」

 僕は目を閉じた。

「家へ」

 三か月後、美玲は職を失った。

 朝比奈の不倫疑惑が拡散したあと、彼女が担当していた企業案件はすべて中止になった。彼女と関わろうとするブランドはもうなく、事務所は自分たちを守るため、すぐに彼女との契約を解除した。

 貯金は違約金や借金で底をついた。以前のような高級マンションには、もう住めなかった。

 美玲は古いスーツケースを引きずり、東京の外れにある狭い木造アパートへ移った。壁は薄く、隣の咳まで聞こえる。浴室は半身をひねるのがやっとで、階下には深夜まで明かりの消えないコンビニがある。冬の風は窓の隙間から入り込んだ。

 翌日、彼女は小さな食堂の厨房で皿洗いの仕事を始めた。店長は彼女の細い手を見て、眉を寄せる。

「その手、仕事をしたことがなさそうだね。できるの?」

 美玲は強く頷いた。

 水槽の前に立ち、油でぬるついた皿の山を見つめる。冷たい洗剤水に手を入れると、すぐに指先が白くふやけた。

 彼女は思い出した。

 家にいた頃、僕は彼女に皿を洗わせなかった。食事が終わるたびに、彼女をキッチンから追い出した。

「休んでて。あとは僕がやるから」

 あの頃、彼女はそれを当たり前だと思っていた。

 今になってようやく、その当たり前は、誰かの自発的な優しさでできていたのだと知った。

 一か月後、彼女の手にはしもやけができた。赤く腫れ、箸を持つのもつらいほどだった。

 彼女は古着屋で買ったコートを着て、駅前でバスを待っていた。隣にいた誰かが彼女に気づき、スマホを向ける。

「この人、朝比奈と不倫疑惑が出た人じゃない?」

「昔はずいぶん派手だったのにね。今はこんな感じなんだ」

「自業自得でしょ」

 美玲は顔を伏せ、マフラーの中に埋めた。

 三年前、自分が僕の古い綿入りジャケットを笑った時の言葉を思い出した。

「蓮、少しはちゃんとして。そんな格好で恥ずかしくないの?」

 今の彼女は、その時のジャケットよりもみすぼらしい古着を着て、人混みの中で指をさされていた。

 報いは、思ったより早く来た。

 その夜、狭いアパートに戻った彼女はテレビをつけた。経済番組がフォーラムの様子を映している。

 僕は壇上に立ち、手工仕立てのスーツを着て話していた。客席には財界人が並び、誰もが真剣に耳を傾けている。

 カメラが切り替わると、僕の隣に一人の女性が立っていた。名家の出身で、雰囲気は上品で、笑みも控えめだった。

 司会者が笑う。

「神宮寺会長、最近おめでたいお話もあるとか?」

 僕はただ笑った。否定はしなかった。会場から拍手が起こる。

 美玲は画面を見つめたまま、全身を硬直させた。

 三年前、僕は彼女の前で卑屈なほど尽くしていた。

 今、僕は多くの人の上に立っている。

 そして彼女は、もう僕の影にすら触れられなかった。



 6.遅すぎた後悔

 翌朝、美玲は神宮寺ホールディングス本社の前へ走ってきた。

 警備員が彼女を止める。

「ご予約はございますか」

「神宮寺蓮に会わせて!」

「ご予約のない方はお通しできません」

 彼女は帰らなかった。朝八時から夜七時まで、ビルの前に座り続けた。

 日が暮れ、ビルに明かりがともる。僕の車が地下駐車場から出てきた瞬間、彼女は飛び出し、窓を叩いた。

「蓮! 蓮!」

 車が止まる。

 窓がゆっくり下がり、僕は彼女を見た。顔は寒さで青白く、化粧は涙で崩れていた。

「まだ私を愛してるんでしょう? 三年間、あなたは身分を隠していただけ。でも、私への気持ちは本物だったんでしょう?」

 僕は彼女を静かに見た。

「本物だった」

 彼女の目に、すぐ希望が灯った。

 僕は続ける。

「君に殺されたことも、本物だ」

 彼女は凍りついた。

 そして慌てたようにバッグの中を探り、一つのネックレスを取り出した。それは、あの夜に僕が小鍋へ落とし、あとから彼女がゴミの中から拾い戻した安物の合金ネックレスだった。

「見て。私、持ってるの。ちゃんと持ってるの」

 震える指で、彼女はそれを掲げた。

「私、本当に間違ってた。もう一度だけ、やり直させて……お願い」

 僕は笑った。温度のない笑みだった。

「汚れたものは、拾い直しても元には戻らない」

 僕は彼女を見た。

「人も同じだ」

 窓が上がる。車は再び動き出し、排気が冷たい空気に巻かれて消えた。

 バックミラーの中で、美玲は地面に膝をつき、そのネックレスを抱きしめて泣いていた。背筋も伸ばせないほど、泣いていた。

 助理が助手席から小さく言った。

「会長、何か……」

「必要ない」

 僕は遮った。

「振り返る価値のない人間もいる」

 車がビルから離れる。彼女の泣き声は夜に呑まれた。

 三年分の愛も、三年分の卑屈さも、三年分の献身も、彼女と朝比奈が一線を越えるたびに、少しずつ死んでいった。

 今さら泣いても、すがっても、後悔しても遅い。

 美玲は諦めなかった。

 昔の友人に頼み、僕へ電話をかけさせた。電話口で、その女性は泣きながら訴えた。

「神宮寺さん、美玲は昔、あなたの命を救ったんですよ。どうしてそこまで冷たくできるんですか」

 僕はオフィスでその泣き声を聞き、かすかに笑った。

「命の恩人?」

 机の上に一つのファイルを置く。

「本人に見せてください。あの時、本当に僕を助けたのが誰だったのか」

 三日後、美玲はそのファイルを受け取った。

 自分のアパートで、彼女は紙を持つ手を震わせていた。

 ファイルには、はっきりと書かれていた。あの時、僕を本当に助けたのは、森下葵という貧しい学生だった。彼女は僕を助けたせいで大学院推薦の面接に間に合わず、奨学金推薦の機会も失った。その後、家庭の事情で学業を続けられず、退学して働くしかなかった。

 一方、美玲の父親は同窓会と寄付のつながりを使い、研究室内の推薦順位に影響を与えていた。本来、大学院推薦と奨学金推薦に最も近かったのは、森下葵だった。

 美玲はずっと、僕が恩返しのために自分を愛したのだと思っていた。

 けれど違う。

 僕が彼女を愛したのは、あの頃の彼女がまだ、ここまで虚栄にまみれていなかったからだ。

 当時の彼女は図書館で静かに本を読み、野良猫のために涙を流し、僕のつまらない過去にも真剣に耳を傾けてくれた。

 その後、彼女は変わった。金だけを見て、ブランドだけを見て、自分を上へ引き上げてくれる人脈だけを見た。

 僕が愛した佐伯美玲は、もうとっくに死んでいた。

 彼女は床に座り込んだ。散らばった書類の上で、ようやく理解した。

 自分は、最初から最後まで滑稽な存在だったのだと。



 7.朝比奈の終わり

 朝比奈悠真は、借金に追われるようになった。

 広告案件や出演の仕事が次々と止まったあと、彼がこれまで“爽やかで努力家の若手俳優”というイメージを保つために使っていた金は、すぐに底をついた。穴を埋めるため、彼は自分名義の演技スクールを最後の手札にしようとした。

 ほどなくして、税務調査がその個人事務所に入った。収入の隠蔽や申告の不備が、一つずつ明るみに出ていく。

 同じ頃、彼に「必ずデビューできる」「出演枠を紹介できる」と言われて金を払った受講生の親たちが、そろって被害を訴えた。警察が演技スクールをめぐる詐欺容疑で動き出すと、証拠は次々と出てきた。

 朝比奈がスクール関連の詐欺事件で起訴された日、僕は東京地裁の近くまで行った。

 彼は護送車へ乗せられる時、窓越しに僕を見つけた。口が動いていた。罵っていたのか、助けを求めていたのかは分からない。

 僕は聞かなかった。

 背を向けて歩き出すと、助理が後ろからついてきた。

「会長、朝比奈の所属事務所も正式に契約を解除しました」

「そう」

「演技スクールはすでに閉鎖されています。保護者側は、引き続き損害の回収を進めるそうです」

 僕は振り返らなかった。

 清算されるべきものは、僕が手を下さなくても清算される。

 半月後、美玲は会員制ラウンジで臨時スタッフとして働いていた。

 その夜、彼女は一つの個室へ酒を運ぶよう指示された。中には、かつてレセプションで彼女に取り入ろうとしていた人間たちが座っていた。

 彼女は入口で立ち尽くし、顔を青くした。

 誰かが彼女に気づき、笑いながら手招きする。

「佐伯さんじゃないですか。昔はずいぶん華やかでしたよね。今はここで働いているんですか?」

 美玲はグラスを持ったまま、手を震わせていた。

 個室の扉が開いた。

 彼女は、僕が入ってくるのを見た。

 その瞬間、彼女の目に光が戻った。僕が彼女を助けに来たのだと思ったのだろう。

 僕は上座に座った。周囲の人間はすぐに立ち上がり、名刺を差し出し、酒を注ぎ、愛想笑いを浮かべた。かつて僕を見下していた者たちは、今や座ることさえ僕の顔色をうかがっていた。

 美玲はそこに立っていた。顔には涙の跡が残っている。

 僕は彼女を一度だけ見た。

 ラウンジの責任者は、僕が彼女に気づいたのだと思ったのだろう。気まずそうに笑った。

「神宮寺会長、彼女を外しましょうか」

 美玲の目が、怯えで揺れた。

 僕はグラスを置いた。

「いいえ」

 彼女の目に、またかすかな希望が浮かぶ。

 僕は淡々と言った。

「その人のことは、僕には関係ありません」

 その希望は、一瞬で消えた。

 その夜、僕はもう彼女を見なかった。商談をし、提携の話をし、新しい制作案件の話をした。彼女は横に立ち、現実にすべての飾りを剥ぎ取られた、ただの他人になっていた。

 僕が立ち上がって帰ろうとした時、美玲が駆け寄り、僕の足元にすがった。

「蓮、お願い……」

 僕は彼女を見下ろした。

 床に膝をつき、髪は乱れ、化粧は崩れていた。かつての誇りは、もうどこにも見えない。

「君を大事にしていた神宮寺蓮は、君が自分の手で殺した」

 僕は足を引き抜いた。

 背後から、押し殺した泣き声が壊れていくのが聞こえた。

 僕は振り返らなかった。

 ラウンジを出ると、夜風が冷たかった。助理が外套を肩にかける。

「会長、佐伯さんは……」

「関係ない」

 僕はボタンを留めた。

「今後、彼女のことを僕に報告する必要はない」

 車が動き出す。

 バックミラーの中で、ラウンジの灯りは少しずつ遠ざかっていった。



 8.他人の結末

 数か月後、それでも助理は一つの報告書を僕の机に置いた。

 美玲はアルコール中毒で病院に搬送され、救命処置を受けた。階段から落ち、顔をガラス片で切り、三十針以上縫ったという。医師の話では、今後修復しても、以前の顔に戻るのは難しいらしい。

 その後、彼女の精神状態はさらに悪化し、精神科病棟へ移された。

 報告書の最後には、彼女が古い枕を抱きしめ、僕の名前を繰り返し呼んでいると書かれていた。

「蓮、行かないで……」

「私が悪かったの……」

「蓮……」

 助理はデスクの前に立ったまま、しばらく迷っていた。

「会長、佐伯さんに、何か道を残しておきますか」

 僕は落地窓の前に立ち、街を見下ろしていた。無数の家の灯りと、車の流れが広がっている。

「道は、彼女が自分で選んだ」

 僕は振り返った。声は静かだった。

「そこまで歩いたのも、彼女自身だ」

 助理はそれ以上、何も言わなかった。

 僕は古い車を買い戻した。

 美玲が昔、勝手に売ったトヨタ・クラウンだった。人に頼んで半月探し、最後に廃車置き場で見つけた。修理にそれなりの金をかけ、今は車庫の隅に置いてある。

 ただ、自分に言い聞かせるためだった。

 二度と、同じ愚かさを繰り返さないために。

 冬はすぐに来た。

 東京に初雪が降った日、僕はオフィスで書類を処理していた。スマホが鳴った。精神科病棟からだった。

「神宮寺さん、佐伯美玲さんが……上階から転落されました」

 スマホを握る手が、わずかに止まった。

「容体は?」

 電話の向こうが数秒、静かになった。

「救命処置を行いましたが、間に合いませんでした」

 僕は電話を切った。

 窓の外では、雪が強くなっていた。

 助理がノックして入ってくる。

「会長、佐伯さんのその後の手続きですが……」

「規定どおりに」

「連絡の取れるご家族が、もういません」

「では、行政の手続きに従って」

 助理は頷き、部屋を出ていった。

 僕は書類に目を戻した。

 十分後、文字は一つも頭に入っていなかった。

 立ち上がり、窓辺へ向かう。雪はガラスに触れると、すぐ水の跡になって流れていった。

 何年も前、同じような雪の日があった。

 美玲は大学の図書館の前で、寒さに足踏みをしていた。僕は自分のマフラーを外し、彼女の首に巻いた。

 彼女は顔を上げ、目を細めて笑った。

「蓮って、本当に優しいね」

 あの頃の彼女は、まだ笑っていた。

 濁りのない、まっすぐな笑顔だった。

 やがて彼女は、そう笑わなくなった。計算することを覚え、求めることを覚え、僕をいつでも捨てられるものとして扱うことを覚えた。

 僕が愛した佐伯美玲は、とっくに死んでいた。

 今日いなくなったのは、ただの他人だった。

 僕はデスクへ戻った。

 机の上には、新しい提携案が置かれていた。数億円規模の案件が、僕の署名を待っている。

 ペンを取り、名前を書いた。字は整っていて、少しも震えていなかった。

 夜、帰宅する途中、車はあの病院の前を通った。僕は運転手に、しばらく停めるよう言った。

 鉄柵越しに、病棟が見えた。五階の一つの窓が開いている。カーテンが風に揺れていた。

 僕は五分ほど立ち、それから車へ戻った。

「帰ろう」

 車が遠くまで走ったあと、僕は一度だけバックミラーを見た。

 病院の明かりはまだ点いていた。

 けれどもう、そのどれ一つとして、彼女のために灯っているものではなかった。

 家に戻り、車庫を開けた。

 古いトヨタ・クラウンは隅に停まっていた。車体には薄く埃が積もっている。僕はそこへ歩み寄り、冷たいドアに手を置いた。

 またスマホが鳴った。

 新しい提携先からだった。明日、案件の話をしたいという。僕は了承し、車庫の扉を閉めた。

 背後には、街の灯りがある。

 前方には、新しい戦場がある。

 佐伯美玲の物語は終わった。

 けれど、僕の人生はここから始まる。

 ――完――


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