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忘れ物係ミラ・エヴァレット

作者: まねきねこ
掲載日:2026/06/04

王宮の忘れ物保管室には、貴族たちが失くしたものが届く。


 片方だけの手袋。

 折れた扇。

 香水の染みたハンカチ。

 宝石の外れた髪飾り。

 封蝋の割れた手紙。


 それから、ときどき、誰かが忘れたことにしたい秘密。


 私の仕事は、それらを棚に戻すことだった。


 誰が落としたのか。

 どこで拾われたのか。

 いつ届いたのか。

 誰が受け取ったのか。


 それを一つずつ台帳に記す。


 貴族の方々は、忘れ物保管室など見向きもしない。忘れ物係の顔を覚えている人など、ほとんどいない。


 けれど私は、覚えている。


 あの伯爵夫人が落とした手袋の色も。

 あの令嬢が残した香水の匂いも。

 あの殿下が、なかったことにしたかった扇のことも。


 忘れ物は嘘をつかない。


 嘘をつくのは、たいてい落とし主の方だ。


 私、ミラ・エヴァレットは、王宮の忘れ物保管室で働いている。


 没落した下級貴族の娘、と言えば少し聞こえはいい。実際には、父が残した借金と、病弱な弟の薬代のために、王宮の隅で働く下働きだった。


 忘れ物保管室は、王宮の東棟の端にある。


 大広間のように豪華な絨毯はない。謁見の間のように天井が高いわけでもない。窓は小さく、日当たりは悪く、いつも少しだけ紙と防虫草の匂いがする。


 けれど、私はこの部屋が嫌いではなかった。


 棚に並ぶ箱。番号札。布袋。台帳。封印紐。分類札。


 すべてが決まった場所にあり、すべてに意味がある。


 外の世界では、身分の高い方の言葉が強い。美しい方の涙が強い。権力を持つ方の怒声が強い。


 けれど、この部屋では違う。


 拾得日。

 拾得場所。

 品物の特徴。

 推定所有者。

 返却記録。

 受取人の署名。


 ここでは、それらだけが物を言う。


 だから私は、今日も台帳を開いた。


「ミラ、またすごい量だぞ」


 保管室の扉が開き、王宮警備の若い兵士が木箱を抱えて入ってきた。


 警備兵の名はノア。私と同じく王宮の端にいる人間で、夜会の翌朝にはたいてい忘れ物を運んでくる。


「昨夜の春宵舞踏会の分?」


「ああ。貴族様っていうのは、よくまあこんなに物を忘れられるよな。俺なんか剣を忘れたら即刻首だぞ」


「剣を忘れる兵士は、首になる前に心配されると思うわ」


「そうか?」


「そうよ」


 私は木箱を受け取り、中身を一つずつ机に並べた。


 黒い絹手袋。片方のみ。

 金糸の刺繍入りハンカチ。

 琥珀の髪飾り。

 小さな香水瓶。

 折れた羽根飾り。

 赤い宝石の耳飾り。片方のみ。


 そして最後に、白い扇。


 私はそこで手を止めた。


 白蝶貝で作られた美しい扇だった。骨には細かな彫刻が施され、表面には銀糸で薔薇の紋が縫い取られている。


 ヴァレンローズ公爵家の紋。


「これ、セレスティア様のものね」


「分かるのか?」


「この薔薇紋はヴァレンローズ公爵家のものだもの。それに、この扇は有名よ。王太子殿下との婚約披露の折に贈られたものだと聞いたことがある」


 セレスティア・ヴァレンローズ公爵令嬢。


 王太子アーヴィン殿下の正式な婚約者。


 気高く、冷たく、完璧な令嬢。


 社交界ではそう噂されている。


 けれど、私は一度だけ、彼女と話したことがあった。


 半月前、彼女が保管室へ忘れ物を取りに来たときのことだ。


「こちらでございます。セレスティア様」


 私は彼女に、白い手袋を差し出した。


「ありがとう」


 彼女はそう言って、私に頭を下げた。


 公爵令嬢が、忘れ物係に頭を下げたのだ。


 私は驚きすぎて、一瞬返事を忘れた。


 そのとき彼女は、少しだけ困ったように微笑んだ。


「忘れ物を管理するのは大変でしょう。いつも助かっています」


 その一言で、私は彼女が噂ほど冷たい方ではないと知った。


 もちろん、それだけで忠誠を誓うほど私は単純ではない。


 けれど、人に礼を言える貴族は、忘れ物保管室では珍しい。


 だから私は、彼女の品物だけは少し丁寧に扱うようになった。


「拾得場所は?」


 私はノアに尋ねた。


「東回廊。窓際の長椅子の下だそうだ。拾得者は清掃係のエマ」


「拾得時刻は?」


「昨夜の二十二時四十分。舞踏会のあと」


「分かった」


 私は台帳に記す。


 拾得日、六月十二日。

 拾得時刻、二十二時四十分。

 拾得場所、東回廊、窓際長椅子下。

 品物、白蝶貝の扇。銀糸によるヴァレンローズ公爵家薔薇紋あり。

 推定所有者、セレスティア・ヴァレンローズ公爵令嬢。

 保管棚、第七段。

 返却記録、なし。


 台帳に書いた文字が、黒く乾いていく。


 これで、この扇は記録された。


 物は、ときどき持ち主よりも正直だ。


 その日、ほかにもいくつか気になる忘れ物が届いた。


 赤い宝石の耳飾りは、ベルモンド男爵家の紋が裏に彫られていた。


 リリア・ベルモンド男爵令嬢のものだろう。


 リリア様は、最近王太子殿下のそばにいることが多い令嬢だった。可憐で、小柄で、すぐに泣きそうな顔をする。王宮では「守ってあげたくなる令嬢」と評判らしい。


 私は守ってあげたいとは思わなかった。


 理由は簡単だ。


 彼女は以前、自分の香水瓶を探しに来たとき、私にこう言ったからだ。


「早くしてくださる? 下働きの仕事なんて、物を棚から出すだけでしょう?」


 物を棚から出すだけ。


 その言葉は間違ってはいない。


 けれど、棚に戻すためには、戻す場所を間違えてはいけない。


 それが分からない人は、だいたい物をよく失くす。


 私は耳飾りも記録した。


 拾得場所、西庭園へ続く小廊下。

 拾得時刻、二十三時五分。

 品物、赤色宝石の耳飾り。裏面にベルモンド男爵家の小鳥紋あり。

 推定所有者、リリア・ベルモンド男爵令嬢。

 保管棚、第三段。

 返却記録、なし。


 次に、甘い桃の香りがするハンカチ。


 これは持ち主を推定するまでもなかった。隅に「L.B.」の刺繍がある。リリア・ベルモンドの頭文字だ。


 最後に、封蝋の割れた手紙。


 これだけは、少し厄介だった。


 宛名は隣国ヴァルクレアの使節、エドガー卿。


 内容は読まない。忘れ物係は、他人の手紙を読む仕事ではない。


 ただし、封が割れている場合は、中身が紛失していないか確認する規則がある。


 私は形式的に中を確認した。


 そこには、短い文章が書かれていた。


『今夜、西の小部屋でお待ちしております。誰にも知られぬように。——S』


 私は眉をひそめた。


 S。


 セレスティアの頭文字。


 でも、何かが違う。


 私は以前、セレスティア様の署名を見たことがある。彼女が忘れ物を受け取ったとき、返却欄に名前を書いたからだ。


 彼女の文字は、細く、まっすぐで、余計な飾りがない。


 この手紙の文字は違う。


 妙に丸く、癖がある。


 誰かが上品に見せようとして失敗したような文字だった。


「どうした?」


 ノアが私の顔を覗き込む。


「いいえ。少し気になっただけ」


「また忘れ物から事件の匂いでもしたか?」


「忘れ物は事件の匂いじゃなくて、防虫草の匂いがするわ」


「そういうところだぞ、ミラ」


 私は手紙も記録した。


 拾得場所、南棟廊下、使節控室付近。

 拾得時刻、二十三時二十分。

 品物、封蝋の割れた手紙。宛名、ヴァルクレア使節エドガー卿。署名、S。

 備考、封蝋破損。印章不鮮明。

 保管棚、封書箱二号。

 返却記録、なし。


 それで終わるはずだった。


 忘れ物は忘れ物。


 落とし主が現れれば返す。


 現れなければ保管する。


 ただ、それだけの仕事。


 けれど三日後、王宮の大広間で開かれた夏至前夜祭の夜会で、その扇は忘れ物ではなくなった。


 証拠品になった。


   *


 夏至前夜祭は、王宮で最も華やかな夜会の一つだ。


 大広間には金の燭台が並び、天井からは硝子の灯りが星のように吊るされている。楽団は優雅な曲を奏で、貴族たちは宝石のように着飾っていた。


 私は忘れ物保管室の係だが、大きな夜会のときは臨時で広間脇の控え棚にも立つ。


 扇や手袋、外した髪飾りなどを一時的に預かるためだ。


 つまり、華やかな夜会の端で、私はまた物を見ていた。


 誰が何を持っているか。

 誰が何を外したか。

 誰が何を持たずに現れたか。


 セレスティア様は、白と銀のドレスで入場した。


 背筋はまっすぐで、表情は静かだった。彼女の隣には、本来なら婚約者であるアーヴィン王太子殿下がいるはずだった。


 けれど殿下は、リリア・ベルモンド男爵令嬢の隣にいた。


 リリア様は淡い桃色のドレスをまとい、殿下の腕にそっと手を添えている。


 ああ、面倒そう。


 私は心の中でそう思った。


 貴族の恋愛事情など、忘れ物の分類より複雑だ。できれば関わりたくない。


 けれど、こちらが関わりたくなくても、向こうから落ちてくることがある。


 手袋も、秘密も、災難も。


 夜会が始まって一時間ほど経った頃、突然、楽団の音が止まった。


「セレスティア・ヴァレンローズ!」


 アーヴィン王太子殿下の声が、大広間に響いた。


 会場中の視線が一斉に集まる。


 殿下は広間の中央に立ち、セレスティア様を睨んでいた。その隣には、今にも倒れそうな顔をしたリリア様がいる。


「私はこの場で、お前との婚約を破棄する!」


 大広間がざわめいた。


 婚約破棄。


 よりによって、王宮の夜会の真ん中で。


 私は思わず預かり棚の陰から顔を上げた。


 セレスティア様は、驚いた様子をほとんど見せなかった。ただ、ほんの少しだけ目を細めた。


「理由をお聞かせください、殿下」


「まだしらを切るつもりか!」


 殿下は声を荒げた。


「お前は隣国ヴァルクレアの使節と密会し、王家を裏切ろうとした。さらに、私が保護しているリリアに嫌がらせを繰り返した!」


「そのような事実はございません」


「嘘をつくな!」


 リリア様が殿下の腕にすがりついた。


「わ、私、怖かったのです……。セレスティア様に何度も睨まれて、扇で手を叩かれて……それに、昨夜も見たのです。セレスティア様が、隣国の使節様と西の小部屋へ入っていくところを……」


 泣き声。


 震える肩。


 潤んだ瞳。


 見事なものだった。


 忘れ物保管室には、ときどき劇場の小道具も届く。けれど、リリア様の涙ほどよくできた小道具はなかなかない。


 殿下は懐から一枚の扇を取り出した。


 白蝶貝の扇。


 銀糸の薔薇紋。


 私は息を止めた。


 セレスティア様の扇。


「これが証拠だ!」


 殿下は高々と扇を掲げた。


「昨夜、密会に使われた西の小部屋で見つかった。お前のものだな、セレスティア!」


 会場がどよめく。


 セレスティア様は扇を見つめ、静かに言った。


「確かに、私の扇に似ております」


「似ている、だと?」


「ですが、私はその扇を三日前に失くしております」


 私の指が、台帳の表紙を掴んだ。


 そう。


 その扇は、三日前から忘れ物保管室にある。


 少なくとも、台帳の上では。


 返却記録はない。


 セレスティア様が受け取った署名もない。


 つまり、その扇が昨夜、西の小部屋に落ちていたはずがない。


 殿下は笑った。


「都合のいい言い訳だな。ならば、忘れ物係にでも確認するか?」


 その瞬間、殿下の視線が私に向いた。


 嫌な予感がした。


 とても嫌な予感だった。


「そこの娘」


「……はい」


「お前は忘れ物保管室の係だな」


「はい。ミラ・エヴァレットと申します」


「セレスティアの扇が保管室に届いた記録はあるか?」


 会場中の視線が、私に集まる。


 心臓が跳ねた。


 私は忘れ物係だ。夜会の主役ではない。こういう視線に晒されるために働いているわけではない。


 けれど、聞かれたことには答えなければならない。


「ございます」


 私が言うと、ざわめきが広がった。


 セレスティア様がわずかにこちらを見る。


 殿下の目が細くなった。


「では、その記録は間違いだ」


 ……何で?


 殿下は当然のように続けた。


「その扇は昨夜、西の小部屋で見つかった。私が確認した。リリアも見た。つまり、忘れ物保管室の記録が誤っている」


 王太子殿下が言ったこと。


 忘れ物係の台帳に書かれたこと。


 この場にいるほとんどの貴族にとって、どちらが重いかなど考えるまでもないのだろう。


「ですが、台帳には三日前に東回廊で拾得と記録されております。返却記録もございません」


「黙れ」


 殿下の声が冷たくなった。


「忘れ物係ごときが、王太子の言葉に逆らうのか?」


 喉が詰まった。


 逆らいたいわけではない。


 私はただ、書いてあることを言っただけだ。


 忘れ物係の仕事は、真実を作ることではない。


 届いたものを記録することだ。


 けれど、権力者はときどき、記録も自分の言うとおりに動くと思っている。


 殿下は私から視線を外し、会場へ向き直った。


「このように、セレスティアは言い逃れをするために、下働きまで巻き込んでいる。だが、真実は明日の裁定で明らかになるだろう」


 セレスティア様は、その場で衛兵に囲まれた。


「私は何もしておりません」


 彼女の声は静かだった。


 けれど、その静けさがかえって痛々しかった。


 リリア様は殿下の腕の中で泣いていた。


 会場の人々は口々に囁く。


「まさかセレスティア様が」

「隣国と密会だなんて」

「やはり冷たい方だと思っていた」

「リリア様がお気の毒に」


 私は台帳を抱きしめた。


 何かがおかしい。


 いや、もう「何か」ではない。


 明らかにおかしい。


 その扇は、三日前から保管室にある。


 赤い耳飾りは、リリア様のもの。


 桃の香りのハンカチも、リリア様のもの。


 隣国使節宛ての手紙は、セレスティア様の筆跡ではなかった。


 忘れ物たちが、棚の中で静かに騒いでいる。


 違う。


 違う。


 違う。


 そう言っているような気がした。


   *


 夜会が終わったあと、私は忘れ物保管室に戻った。


 今日もまた、手袋や髪飾りや羽根飾りが届いていた。けれど私は、それらに手をつけることができなかった。


 机の上には、三日前の台帳。


 保管棚の第七段には、白蝶貝の扇。


 私は棚から箱を取り出し、布をめくった。


 そこには確かに、セレスティア様の扇があった。


 殿下が夜会で掲げたものと同じように見えた。


 けれど、細部を見れば分かる。


 この扇の骨には、内側に小さな傷がある。以前、セレスティア様が落としたときについたのだろう。台帳にも「扇骨内側に微細な傷あり」と書いてある。


 殿下が掲げた扇にも同じ傷があったかまでは、遠目では分からなかった。


 でも、もし同じ扇なら。


 誰かが保管室から持ち出したことになる。


 返却記録なしに。


 私は保管棚の鍵を確認した。


 鍵穴には、こじ開けられた跡はない。


 つまり、鍵を持つ者か、鍵を借りられる者が持ち出した。


 そのとき、扉が開いた。


「ミラ・エヴァレット」


 低い声。


 振り返ると、アーヴィン王太子殿下が立っていた。


 隣にはリリア様もいる。


 リリア様はもう泣いていなかった。


 あれだけ泣いていたのに、目元は少しも赤くない。


 すごい。羨ましくはないけれど、すごい。


「台帳を出せ」


 殿下が言った。


「……どちらの台帳でしょうか」


「三日前のものだ」


 私は黙って台帳を差し出した。


 殿下はページをめくり、セレスティア様の扇の欄で手を止めた。


「これを消せ」


 やっぱり。


 私は小さく息を吸った。


「消す、とは」


「三日前に東回廊で拾得したという記録を消せ。そして、昨夜、西の小部屋で拾得したと書き直せ」


「ですが、実際には三日前に東回廊で拾得されております」


 殿下は笑った。


「実際など、どうでもいい」


 どうでもよくない。


 ものすごく、どうでもよくない。


「真実は、身分ある者が定めるものだ。忘れ物係の台帳が決めることではない」


 リリア様が甘い声で続けた。


「ミラさん、でしたわね。あなたのご家族、ずいぶんお困りなのでしょう?」


 私はリリア様を見た。


「弟の薬代のことでしょうか」


「あら、やっぱり」


 リリア様は微笑んだ。


「でしたら、お分かりになりますわよね。たった一行、書き換えるだけでいいのです。そうすれば、あなたの弟君のお薬も買えますわ」


 殿下が金貨の入った小袋を机に置いた。


 重い音がした。


 弟の薬代。


 その言葉は、私の胸に冷たく刺さった。


 弟は体が弱い。季節の変わり目には必ず熱を出す。薬は高い。私の給金では、いつも少し足りない。


 金貨の袋を見れば、足りないどころか、しばらくは安心できる額だと分かった。


「明日の裁定で、お前を証人として呼ぶ」


 殿下は言った。


「そこで、この扇は昨夜、西の小部屋で見つかったと証言しろ。台帳にもそう書いてあるとな」


「……もし、私が断れば」


「忘れ物保管室の職など、明朝にはなくなるだろうな」


 殿下は軽く言った。


「弟の薬どころか、家賃も払えなくなるのではないか?」


 リリア様が小さく笑う。


「かわいそう。正しい選択をなさってね」


 こいつら。


 私は心の中でそう思った。


 もちろん、口には出さない。


 忘れ物係は、貴族に向かって「こいつら」と言ってはいけない。


 たとえ心の底から思っていても。


 私は目を伏せた。


「……承知いたしました」


 殿下は満足そうに笑った。


「最初からそう言えばいい。お前の仕事は、物を棚に置くことだ。真実を語ることではない」


「はい」


「忘れ物係の台帳など、公文書とは呼ばん。私が正しい形に直してやるのだ。感謝することだな」


「……はい」


 殿下とリリア様は、金貨の袋を置いたまま去っていった。


 扉が閉まる。


 保管室に静けさが戻る。


 私はしばらく、金貨の袋を見つめていた。


 弟の薬代。


 家賃。


 食費。


 冬の薪代。


 それらが、頭の中に浮かぶ。


 でも、その隣に別のものも浮かんだ。


 セレスティア様が、忘れ物係に頭を下げた姿。


 そして、台帳に残る黒い文字。


 拾得日、六月十二日。

 拾得場所、東回廊。

 返却記録、なし。


 忘れ物は嘘をつかない。


 私は筆を取った。


 そして台帳を開いた。


 殿下の命令どおり、修正記録を加える。


 ただし、正確に。


 修正時刻、六月十五日、二十三時四十八分。

 修正命令者、王太子アーヴィン殿下。

 修正内容、セレスティア・ヴァレンローズ公爵令嬢の白蝶貝の扇について、昨夜、西の小部屋で拾得されたものとして扱うよう命令。

 備考、保管係による目視確認なし。元記録では六月十二日二十二時四十分、東回廊にて拾得。返却記録なし。受取人署名なし。


 筆を置く。


 台帳は頑固だ。


 一度書かれたことを、なかったことにはしない。


 それは、忘れ物係の私に少し似ていると思った。


   *


 翌日、裁定の間には多くの貴族が集められていた。


 王宮の裁定は、本来なら静かに行われるものだ。けれど今回は王太子殿下の婚約破棄に関わる大事件である。噂を聞きつけた貴族たちが、遠巻きに集まっていた。


 セレスティア様は中央に立っていた。


 顔色は少し悪いが、背筋はまっすぐだった。


 リリア様はアーヴィン殿下のそばにいる。今日はまた泣きそうな顔に戻っていた。使い分けが上手い。


 玉座の前には国王陛下と王妃様。


 そして裁定を取り仕切る司法卿が立っていた。


 司法卿は老年の男性で、白い髭を整え、鋭い目をしている。噂では、どれだけ身分の高い相手にも容赦なく質問する方らしい。


 私は忘れ物台帳を抱えて、部屋の端に立っていた。


 逃げたい。


 ものすごく逃げたい。


 忘れ物保管室に戻りたい。棚の番号札を並べ直したい。羽根飾りの分類でもいい。防虫草を詰め替えるのでもいい。


 でも、ここで逃げたら、台帳の文字まで逃げることになる。


 それは嫌だった。


「これより、セレスティア・ヴァレンローズ公爵令嬢にかけられた疑いについて裁定を行う」


 司法卿が告げた。


 アーヴィン殿下が一歩前に出る。


「疑いなどではありません。セレスティアは隣国使節と密会し、王家を裏切ろうとしたのです」


「証拠は?」


「扇です」


 殿下は言った。


「彼女の扇が、西の小部屋で見つかりました。さらに、リリアが目撃しています」


 リリア様が震える声で言った。


「私、見たのです……。セレスティア様が、隣国の使節様と……」


 司法卿は表情を変えずに尋ねた。


「セレスティア嬢、申し開きは」


「私は昨夜、西の小部屋には参っておりません。隣国使節とも密会しておりません」


「扇については?」


「三日前に失くしました。その後、返却は受けておりません」


 殿下が鼻で笑った。


「都合のよい話だ」


 そして、私を見た。


「忘れ物係。前へ」


 足が重かった。


 けれど私は台帳を抱え、前に出た。


「名を」


「ミラ・エヴァレットと申します。王宮忘れ物保管室の管理補佐を務めております」


「では台帳を読み上げろ」


 殿下は勝ち誇った顔で言った。


「セレスティアの扇が、昨夜、西の小部屋で見つかった記録を」


 私は台帳を開いた。


 指先が少し震えている。


 でも、文字は震えない。


 台帳の文字は、昨日のままそこにあった。


「セレスティア・ヴァレンローズ公爵令嬢の白蝶貝の扇。銀糸によるヴァレンローズ公爵家薔薇紋あり」


「そうだ。続けろ」


「拾得日、六月十二日」


 会場がざわめいた。


 殿下の眉が動く。


「拾得時刻、二十二時四十分。拾得場所、東回廊、窓際長椅子下。拾得者、清掃係エマ。保管棚、第七段。返却記録、なし。受取人署名、なし」


 空気が止まった。


 セレスティア様が静かに息を飲む。


 司法卿が目を細めた。


「つまり、その扇は三日前から保管室にあったということか」


「はい。台帳上は、そのように記録されております」


「ふざけるな!」


 殿下が怒鳴った。


「昨夜、書き直したはずだ!」


 私はページをめくった。


「はい。修正記録がございます」


 その瞬間、リリア様の顔色が変わった。


 私は読み上げる。


「修正時刻、六月十五日、二十三時四十八分。修正命令者、王太子アーヴィン殿下」


 ざわめきが大きくなった。


 殿下の顔が赤くなる。


「何を……!」


「修正内容。セレスティア・ヴァレンローズ公爵令嬢の白蝶貝の扇について、昨夜、西の小部屋で拾得されたものとして扱うよう命令」


「黙れ!」


「備考。保管係による目視確認なし。元記録では六月十二日二十二時四十分、東回廊にて拾得。返却記録なし。受取人署名なし」


 読み終えると、裁定の間はしんと静まり返った。


 殿下は私を睨んだ。


「なぜ余計なことを書いた」


「余計なことではございません」


 声が震えないように、私は台帳を強く抱いた。


「修正記録に必要な項目です」


「私は、書き換えろと言ったのだ!」


「はい。ですので、書き換えるよう命じられたことを記録いたしました」


 誰かが小さく息を呑んだ。


 司法卿が一歩前に出る。


「王太子殿下。今の記録が事実であれば、殿下は忘れ物保管室の台帳に、確認されていない事実を加えるよう命じたことになります」


「違う! 私は真実に直させようとしただけだ!」


「真実であれば、修正命令ではなく、正式な拾得記録があるはずです」


 司法卿の声は静かだった。


「忘れ物係」


「はい」


「その扇は現在どこに」


「忘れ物保管室の第七段にございます。本日、裁定に備えて封印箱に入れ、こちらへ持参しております」


 私は布に包まれた箱を差し出した。


 司法卿が箱を開ける。


 白蝶貝の扇が現れた。


 会場にどよめきが広がる。


 殿下が夜会で掲げたものと同じ扇。


 けれど、それは三日前から保管室にあった扇。


 司法卿は扇を確認し、尋ねた。


「特徴は」


「扇骨の内側に微細な傷がございます。台帳にも記録しております」


 司法卿が確認し、頷いた。


「確かにある」


 セレスティア様は目を閉じた。


 少しだけ、肩の力が抜けたように見えた。


 けれど、これだけでは終わらない。


 忘れ物は、まだ残っている。


 司法卿が私を見た。


「他に関係しそうな記録はあるか」


 私は一瞬、迷った。


 けれど、ここまで来たらもう戻れない。


「ございます」


 リリア様がびくりとした。


「六月十二日、二十三時五分。西庭園へ続く小廊下にて、赤色宝石の耳飾りを拾得。裏面にベルモンド男爵家の小鳥紋あり。推定所有者、リリア・ベルモンド男爵令嬢。返却記録、なし」


「それが何だと言うの?」


 リリア様が震える声で言った。


「私の耳飾りが落ちていただけでしょう?」


「はい。片方だけが忘れ物保管室に届いております」


 私は続けた。


「もう片方は、昨夜、西の小部屋で発見されたと、警備記録にございます」


 リリア様の唇が止まった。


 司法卿が警備兵に合図をする。


 警備兵が小箱を持ってきた。中には、赤い宝石の耳飾りが入っている。


 忘れ物保管室のものと対になる片方。


 司法卿は二つを並べた。


「一致するな」


 会場の視線がリリア様へ集まる。


 リリア様は慌てて首を振った。


「ち、違います! それは誰かが私の耳飾りを盗んで……!」


「さらにございます」


 私は言った。


「同日、南棟廊下、使節控室付近にて、香水の染みたハンカチを拾得。隅にL.B.の刺繍あり。甘い桃の香り」


 リリア様の顔が白くなる。


「その香りは、リリア様が普段お使いの香水と一致します。以前、同じ香水瓶を忘れ物として返却した記録がございます」


「香水くらい、誰でも使うわ!」


「はい。香水だけなら、そうかもしれません」


 私は台帳をめくった。


「ですが、封蝋の割れた手紙もございます」


 司法卿の目が鋭くなる。


「手紙?」


「隣国ヴァルクレア使節、エドガー卿宛てのものです。署名はS。内容は、西の小部屋での密会を求めるもの」


「それこそ証拠ではないか!」


 殿下が叫んだ。


「署名のSはセレスティアのSだ!」


「筆跡が違います」


 私は言った。


 裁定の間が静まる。


「私は以前、セレスティア様ご本人の署名を返却記録としていただいております。その署名と、この手紙の筆跡は一致しません」


 司法卿が手紙と過去の返却記録を受け取る。


 しばらく見比べ、近くの書記官にも確認させた。


 書記官は頷く。


「別人の筆跡と思われます」


 殿下の顔が歪んだ。


「忘れ物係が筆跡鑑定などできるものか!」


「正式な鑑定は専門官に委ねます」


 私は答えた。


「ですが、返却記録の署名と明らかに違うことは、台帳を見れば分かります」


 司法卿がさらに尋ねた。


「封蝋は?」


「印章が不鮮明でしたので、当初は判別できませんでした。ですが、封蝋片に残る模様は、王太子殿下の従者が使う小印とよく似ております」


 殿下の従者が青ざめた。


 その反応だけで、会場の空気が変わった。


「でたらめよ!」


 リリア様が叫んだ。


「そんな、忘れ物係の言葉だけで私を疑うなんて!」


 彼女の声は、もう可憐ではなかった。


「私は被害者なのよ! セレスティア様に睨まれて、怖くて、それで……!」


「リリア」


 殿下が低く言った。


 けれどリリア様は止まらなかった。


「だって、殿下が言ったのです! 扇の記録なんて、あとでどうにでもなるって! 忘れ物係なんて金貨を置けば従うって!」


 言ってから、彼女ははっと口を押さえた。


 遅かった。


 裁定の間は、完全に静まり返っていた。


 アーヴィン殿下の顔が引きつる。


「リリア……!」


「違うの、違うのです!」


 リリア様は泣き崩れた。


「私はただ、殿下に選ばれたかっただけなのです! セレスティア様さえいなければ、私が……!」


 その言葉で、すべてが崩れた。


 美しい涙も、怯えた声も、被害者の顔も。


 忘れ物よりも簡単に、彼女は自分の嘘を落とした。


 司法卿は静かに告げた。


「王太子アーヴィン殿下。リリア・ベルモンド男爵令嬢。お二人には、虚偽告発、公的記録改竄の強要、王宮職員への買収、および隣国使節を巻き込んだ偽装工作の疑いがあります」


「私は王太子だぞ!」


 殿下が叫んだ。


「たかが忘れ物係の台帳一冊で、私を裁くつもりか!」


 司法卿は動じなかった。


「たかが台帳一冊を欺こうとした者に、国の文書は預けられません」


 殿下が言葉を失う。


「王太子であればこそ、公の記録を軽んじることは許されません」


 国王陛下は、長い沈黙の後、目を閉じた。


「アーヴィンを拘束せよ」


 衛兵が動いた。


 殿下は信じられないという顔で周囲を見た。


「父上……!」


「もはや、そなたを王太子として置くことはできぬ」


 リリア様はその場に崩れ落ちた。


 セレスティア様は静かに頭を下げた。


 私は台帳を抱えたまま、立っていた。


 足が震えていた。


 怖かった。


 本当に、怖かった。


 でも、台帳は閉じなかった。


 殿下は衛兵に囲まれながら、最後に私を睨んだ。


「忘れ物係ごときが……!」


 私は頭を下げた。


「はい。忘れ物係です」


 そして、言った。


「ですから、何が落ちて、何が落ちていなかったのかだけは、間違えません」


 殿下は何か言おうとした。


 けれど衛兵に連れて行かれ、その声は裁定の間の扉の向こうへ消えた。


   *


 その日のうちに、アーヴィン殿下は王太子の座を退けられた。


 隣国使節との密会疑惑は完全な捏造であり、セレスティア様の名誉は正式に回復された。


 ヴァレンローズ公爵家には王家から謝罪がなされ、リリア・ベルモンド男爵令嬢は虚偽告発と偽装工作の罪で王都から追放された。


 王太子の従者も取り調べを受け、関わった者たちはそれぞれ処罰された。


 そして私はというと、忘れ物保管室の職を失った。


 ……わけではない。


「ミラ・エヴァレット」


 数日後、私はヴァレンローズ公爵家の屋敷へ呼ばれた。


 応接室で待っていたのは、セレスティア様だった。


 彼女は以前と同じように背筋を伸ばしていたが、裁定の場で見た硬さは少し薄れていた。


「先日のこと、改めてお礼を申し上げます」


「私は、仕事をしただけです」


 本当に、それだけだった。


 忘れ物を記録し、保管し、聞かれたから読み上げた。


 ただ、それだけ。


 セレスティア様は微笑んだ。


「その“仕事をしただけ”で、私は救われました」


 私は返事に困った。


 褒められることには慣れていない。怒鳴られることには、少し慣れているけれど。


「ミラさん」


「はい」


「私の記録官になっていただけませんか」


 私は瞬きをした。


「……私が、ですか?」


「ええ。ヴァレンローズ家の文書と記録を任せられる者を探していました。あなたのように、誰も見ていない場所でも正確に仕事をする方にお願いしたいのです」


「ですが、私は忘れ物係で……」


「だからこそです」


 セレスティア様は静かに言った。


「人は、自分に都合の悪いものをよく忘れます。けれど家の記録は、それを忘れてはならない。あなたは、それを分かっている方です」


 私は言葉を失った。


 提示された俸給は、今の三倍だった。


 三倍。


 私は一瞬、別の意味で言葉を失った。


 弟の薬が買える。


 家賃も払える。


 冬の薪も買える。


 心の中で計算が勝手に走り出した。貴族の前でお金の計算をするのは失礼かもしれないが、生活がかかっているので許してほしい。


「お受けいたします」


 私は深く頭を下げた。


「ありがとうございます」


「お礼を言うのはこちらです」


 セレスティア様はそう言って、また私に微笑んだ。


 その日の帰り、私は薬屋に寄った。


 いつもなら値段を見て、棚の前で長く悩む薬を、初めて迷わず買うことができた。


 家に帰ると、弟が驚いた顔をした。


「姉さん、これ、高いやつじゃない?」


「そうよ」


「大丈夫なの?」


「大丈夫になったの」


 弟は不思議そうに首をかしげた。


「何かすごいことをしたの?」


 私は少し考えた。


 王太子殿下に逆らった。


 裁定の場で台帳を読み上げた。


 嘘を暴いた。


 そう言えば、確かにすごいことのように聞こえる。


 けれど、私の中では少し違った。


「いつもの仕事をしただけよ」


 私はそう答えた。


 王宮の忘れ物保管室など、誰も見ていない。


 けれど、そこには貴族たちの落としたものが集まっている。


 手袋。

 扇。

 耳飾り。

 ハンカチ。

 手紙。


 それから、ときどき、失くしたことにしたい罪も。


 人は、本当に大切なものを忘れたりしない。


 忘れるのは、忘れたことにしたいものだけだ。


 だから私は、これからも記録する。


 誰が何を失くしたのか。

 誰が何を隠そうとしたのか。

 誰が、嘘を落としていったのか。


 忘れ物係の仕事は、一つだけ。


 届いたものを、正確に記録すること。


 たとえ誰にも見られていなくても。


 忘れ物は、すべて覚えているのだから。

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