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【地球が進化する日】 〜地球の夢を見る少女と、地球の声を聴く少年。ふたりが出会ったとき、世界は次のページをめくる〜  作者: 真野真名
【地球がクラスチェンジする朝に、君と出会った】

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第九話 アルゴスの男と、優しい嘘




 土曜日の午後。


 私は、宇津木博士の「ガイア知性研究所」へ向かう前に、市立図書館に寄っていた。博士に「これの該当ページ、各自でコピーして頭に叩き込んでおけ」と押し付けられた、分厚い地質学の専門書を処理するためだ。


 休日の図書館特有の、埃と古い紙と静寂が混ざった匂いの中、コピー機の前で小銭を投入していたときだった。


「あの、たちばな陽菜ひなさんですか」


 ふいに、背後から声をかけられた。

 振り返ると、二十代後半くらいの男性が立っていた。


 休日の図書館には似つかわしくない、嫌味のない仕立てのいいシャツとスラックス。顔立ちは整っていて、口元には柔らかく完璧な――少し出来過ぎな――笑みを浮かべていた。


「……そうですけど。どちら様ですか」


「失礼しました、突然声をかけてしまって」


 彼は少しだけ眉を下げ、いかにも申し訳なさそうに頭を下げた。


「私、地球科学の分野で研究をしている者です。宇津木先生の研究に大変関心がありましてね。あなたが先生の研究室に頻繁に出入りされていると風の噂で聞いたもので――もし可能なら、少しだけお話の時間をいただけませんか」


 私の頭の中で、小さな警報ベルがジリリと鳴った。


 怪しい。


 直感がそう告げていた。だが、何がどう怪しいのかを具体的に言語化できない。

 彼の立ち居振る舞いは、どこからどう見ても「ちょっと熱心で無害な若手研究者」の枠に完璧に収まっていたからだ。


「……すみません、今日はちょっと急いでるので。時間ないです」


「ああ、それは申し訳ない。引き止めてしまって」


 彼は私の拒絶に一切の不快感を示さず、あっさりと引き下がった。そして、胸ポケットからスッと一枚の紙片を取り出し、両手で差し出してきた。


「よければ、いつでもご連絡ください。先生の研究について、有意義な意見交換ができればと思っていますので」


 私は警戒しつつも、その名刺を受け取り、足早にその場を離れた。


 図書館を出て、電柱の角を曲がってから立ち止まり、手元の名刺に目を落とす。


『環境地球科学研究機構 霧島きりしまつかさ


 立派な肩書きと、どこにでもありそうな名前。なんの引っかかりも感じなかった。

 その「霧島」という苗字が、私たちのささやかな日常を根底からひっくり返す爆弾のスイッチだとは、このときの私はまだ知る由もなかったのだ。





 翌日の日曜日、宇津木博士から私のスマホに「大至急、研究所へ来い」という緊急の呼び出しメッセージが飛んできた。


 息を切らして雑居ビルの三階に駆け込むと、部屋の空気がいつもと違った。

 パイプ椅子に座るあおいの背筋は、いつになく強張っていた。そして、いつもは適当なカップ麺をすすりながら飄々としている博士の顔から、オカルト好きの変人という仮面が完全に剥がれ落ちていた。


「霧島司を知ってるね」


 私が「おはようございます」と言うより早く、博士が低い声で切り出した。


「え……なんで、私が図書館で声かけられたこと、知ってるんですか」


「霧島司がこの街に入ったという情報は、私の独自のルートで掴んでいた。君に接触してくるのは時間の問題だと思っていたからね」


 博士はそう言うと、真っ直ぐに蒼の方を見た。


「霧島、という名前に、君は聞き覚えがあるはずだね?」


 蒼は、一秒だけ深く瞼を閉じた。

 そして、ひどく静かな声で答えた。


「……ある」


「アルゴスだ」


 博士が、まるで呪いのような響きを持つ単語を口にした。


「アルゴス。クラスチェンジを人為的に阻止しようとしている、国際的な秘密組織の名前だよ。彼らは世界の複数の政府や財界と裏で繋がっていて、『環境地球科学研究機構』なんていうもっともらしい研究機関を隠れ蓑にしている。昨日君に声をかけた霧島司は、その日本支部の実行部隊長だ」


 秘密組織。

 普通なら「映画の見すぎですよ」と笑い飛ばすところだ。でも、部屋に満ちる重苦しい空気が、それが悪い冗談ではないことを証明していた。


「阻止って……地球がやろうとしてることを、人間が止められるものなんですか?」


 私が尋ねると、博士は首を横に振った。


「単独の兵器や科学力では不可能だ。だからこそ――彼らには『鍵』が必要なんだ」


 博士の視線が、再び蒼に突き刺さった。


 蒼は、博士の視線を受け止めようとしなかった。ただ、窓の外の薄暗い曇り空をじっと見つめていた。


「えーっと、鍵?」


「『聴器』だよ」と博士が言った。


「地球の極低周波をダイレクトに感知できる体質。それを使えば、クラスチェンジの波の周波数を正確に割り出し、『逆位相の波』をぶつけて打ち消す巨大なキャンセラー装置を起動させることができる」


 私は、ハッとして蒼を見た。


「蒼くん……」


「わかってた」


 蒼は、窓の外を見たまま、吐き捨てるように言った。


「俺がこの街に来た理由と――俺があいつらに狙われる理由は、表と裏だ」


 彼がこの街に来たのは、「一番音がうるさかったから」。

 そしてアルゴスが彼を追ってくるのも、彼を装置の部品として組み込み、その「音」を無理やり止めるためなのだ。


 博士が、重々しく息を吐いた。


「陽菜さん、一つだけ、君に話していないことがある」


 深夜の静寂のような間が落ちた。蒼は私の隣に座ったまま、ピクリとも動かない。


「白瀬蒼というのは、彼の母親の旧姓を使った偽名だ。彼の本名は――」


「霧島……蒼」


 博士が言い終わるより早く、蒼自身がその名前を口にした。


 部屋が、完全に静まり返った。

 霧島。


 昨日私に名刺を渡してきた、完璧な笑顔の男と同じ苗字。


「……兄弟、なの」


 私の声は、ひどく掠れていた。


「兄だ」蒼は淡々と言った。「十歳上の、実の兄貴」


 頭の中で、バラバラだったパズルのピースが、暴力的なスピードで組み合わさっていく。

 

アルゴスの実行部隊長。地球のクラスチェンジを止めようとしている男。


 その兄の弟が――今、私の隣にいる。


「……なんで、言ってくれなかったの」


「言えなかった」


「なんで」


「……俺が、兄貴の組織から送り込まれたスパイだと思われるかもしれなかった。俺の言葉を、誰も信じてくれなくなるかもしれなかったから」


 そこまで言って、蒼は少しだけ俯いた。


「それに」


「それに?」


「君に、俺の家のゴタゴタを持ち込みたくなかった」


 最後の理由が、私の胸の一番柔らかいところに、ズシリと重く落ちた。


「信じてもらえないかもしれない」というのは、彼自身のための保身だ。でも「持ち込みたくなかった」というのは――明らかに、私を面倒事から遠ざけて守るための理由だった。


 騙されていたことに怒る気持ちと、彼の不器用な優しさに怒れない気持ちが、心の中でぐちゃぐちゃに混ざり合っていた。


「……これからは、全部言って」


 私は、両手を膝の上で固く握りしめながら言った。


「うん」


「約束、して」


「……約束する」


 少しの間があった後、蒼は再び窓に視線を戻した。


 私は正面を向いたまま、自分の心拍数が、自分で思っている以上に高く跳ね上がっていることに気づいていた。




 三日後。

 学校帰りに研究所へ向かおうとした私の前に、彼が現れた。


 霧島司。


 研究所の入っている雑居ビルの下で、彼は一人で立っていた。黒服の部下を連れているわけでもなく、武器を持っているようにも見えない。ただ、夕暮れの街灯の下で、待ち合わせの相手を待つサラリーマンのように自然に立っていた。


「先日は失礼しました」


 私と目が合うと、彼はあの図書館と同じ、完璧に穏やかな笑みを浮かべた。


「本当のことを、最初からお話しすべきでしたね」


「アルゴスの人ですよね」


 私が警戒心も露わに睨みつけると、司は少しだけ目を細めた。驚いたというより、「やはり宇津木は全部話したか」と確認するような表情だった。


「はい」


「何の用ですか」


「説得です」


 彼は一歩だけ私に近づき、静かな、しかし圧倒的な熱量を持った声で続けた。


「橘陽菜さん。あなたは、クラスチェンジが何を意味するか、本当に理解されていますか? 物理法則が根底から書き換わる。生命の定義そのものが変わる。そうなれば、現在の人類の九十七パーセントは――環境に適応できずに、消えます」


「宇津木博士から聞いてます」


「では、理解されているはずだ。白亜紀の恐竜が消えたように、私たち人類も理不尽に消去される。それを『地球の意志だから仕方ない』と、黙って受け入れることができますか?」


 私は、すぐには答えられなかった。


 彼の言っていることは、正論だった。


「私は、六年前、妻を失いました」


 ふいに、司の声の温度がわずかに変わった。冷たくなったのではない。一瞬だけ、あの完璧な「組織の幹部」という仮面の下から、一人の人間の素顔が覗いたのだ。


「クラスチェンジの前兆現象の影響でした。ある日突然、妻の夢が現実に侵食してきて、世界との境界線が消えた。私はベッドで彼女の手を強く握っていたのに――朝、目が覚めたら、彼女の姿はどこにもなかった」


 私は、息を呑んだ。


 私の夢が現実を侵食し始めているのと同じ現象が、六年前、彼の大切な人を奪っていたのだ。


「地球が次のステージへ進化したいなら、勝手にすればいい。ただ――私たち人類を道連れにする権利は、あの星にはない」


 それは、ただの悪の組織の身勝手な論理ではなかった。

 愛する者を理不尽に奪われた絶望と、深い愛から生まれた、完璧で悲痛な論理だった。


「あなたの言っていることは、わかります」


 私は、絞り出すように言った。


「でも――」


「でも?」


 私は、言葉を続けられなかった。


 彼の言葉は正しい。正しすぎて、逃げ場がなかった。


 彼の悲しみを否定する権利は私にはない。でも、彼のやろうとしていることは間違っているという確信だけが、胸の奥で燻っていた。




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