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【地球が進化する日】 〜地球の夢を見る少女と、地球の声を聴く少年。ふたりが出会ったとき、世界は次のページをめくる〜  作者: 真野真名
【地球がクラスチェンジする朝に、君と出会った】

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第八話 止まった時間と、進展するふたり




 七時四十二分。


 交差点で信号待ちをしていた私の頭上で、空が、ほんの二、三秒だけ「薄紫」になった。


 青でもない。オレンジでもない。夜明けのグラデーションでもなければ、夕暮れのマジックアワーでもない。

 あえて既存のカラーパレットから選ぶなら薄紫なのだが、なんというか「今の地球の大気を通した色」じゃなかった。パソコンのモニターがバグって、一瞬だけ裏のコードの色が透けて見えたような、ひどく人工的で、同時に圧倒的に自然な色。


「え?」


 気のせいかもしれない、と脳が言い訳を探すより早く、空は元の憎たらしいほどの快晴の青に戻った。

 スマホのカメラを起動する暇なんて全くなかった。


 信号が青に変わるかっこうの鳴き声が響き、周りの大人たちは何事もなかったように横断歩道を渡り始める。誰も上なんて向いていなかった。現代人はスマホと足元のコンクリートしか見ていない。


 気のせいだったんだろうか。あるいは私の網膜が一時的にストライキを起こしたのか。


 首を傾げながら学校に着くと、校門の桜の木の根元に、いつもの定位置で白瀬くん――いや、あおいが立っていた。

 手には、ご丁寧に黒い長傘が握られている。ちなみに今日の降水確率は午前も午後もゼロパーセント、気象庁は「洗濯日和です!」と太鼓判を押していた。


 私と目が合うと、彼は挨拶もなしにポツリと言った。


「見た?」


「……空が、変な紫になったやつ?」


「見た」


「私だけじゃなかったんだ」


「俺も見た。というか、網膜じゃなくて『音』と一緒に空が色落ちした感じだった」


 彼は長傘を肩に担ぎなおし、それだけ言って踵を返した。


「……博士に連絡しておく」


 歩き出す彼の背中を見ながら、私は「その傘は今日、一体何を降らせるつもりで持ってきたの?」とツッコむタイミングを完全に逃していた。




 宇津木博士の言う『クラスチェンジ』の前兆は、徐々に、しかし確実に私たちの日常を侵食し始めていた。


 その日の夕方、近所の公園でちょっとした騒ぎがあった。

 散歩中の犬たちが、一斉に動かなくなったというのだ。一頭や二頭じゃない。この街のあちこちで、複数の犬が同時にだ。

 みんな、示し合わせたようにピタリと北を向き、地面に腹をくっつけて伏せたらしい。吠えるでもなく、唸るでもなく、ただ目を見開いたまま、石像のようにじっと動かなくなった。そして十分後、何事もなかったように立ち上がり、再び尻尾を振って歩き出したという。


 夕方のローカルニュースでは、困惑する飼い主のインタビューと共に、「太陽フレアによる急激な磁気嵐の影響で、動物の磁気センサーが狂ったのではないか」という専門家(笑)のもっともらしいコメントが添えられていた。


 磁気嵐ねえ。

 私は研究室のパイプ椅子でそのニュースのリンクを宇津木博士に送りつけた。

 博士からの返信は、カップ麺の待ち時間と同じ三分後に来た。


『実に面白い。その専門家は頭が二世紀ほど遅れているな。動物たちは磁北(北極)を向いていたんじゃない。この街の【中心部】を向いていたんだ。今、座標とベクトルを計算中だ。ドッグフードでも食いながら待っていろ』


 誰が食うか。



 翌日の夜中には、近所の川が光った。


 正確には、川底の石が青白く発光したらしい。夜中の十一時頃に偶然通りかかった酔っ払いがスマホで動画を撮り、SNSにアップしたのだ。暗い水底から、まるで脈打つように青白い光が滲み出ている、なんとも幻想的で不気味な映像だった。光は三十分ほどでスッと消えたらしい。


 ネット上では「夜光藻の異常発生だ」「いやただのCG合成乙」「ついにUFOが!」と一瞬だけ祭になったが、朝には別のゴシップニュースに押し流されていた。


 だが、その動画を見た私は、背筋に冷たいものが走るのを感じた。

 知っている。あの光、私は体験したことがある。

 何億年も前の、カンブリア紀の浅い海の底。奇妙な生き物たちがフヨフヨと漂っていたあの海で、下から私を照らしていた、あの光だ。


 すぐに博士にメッセージを送ると、今度は秒で返信が来た。


『ビンゴだ。岩が圧かかって発電してんだよ。地球版モバイルバッテリーだな』


 顔文字一つない文面から、博士が狂喜乱舞して小躍りしている姿が目に浮かんで、少しイラッとした。



 そして、三日後の朝の出来事が、決定的に気味悪かった。


 午前九時十七分から九時十八分の間。

 この街の時計が――ぜんぶ、一分間だけ「止まった」のだ。


 私のスマホの時計も、駅の電光掲示板も、コンビニのレジの表示も、教室の壁掛け時計も。世界から一分間が丸ごと削り取られたように、時が止まった。


 多くの大人は「大規模な通信障害かNTPサーバーのエラーだろう」と舌打ちして片付けた。


 だが、私は直感的に蒼の安否が気になり、机の下でこっそりメッセージを送った。


『今日の九時十七分、何か聴こえた?』


 授業が終わる頃に返ってきた返信は、相変わらず短く、そして恐ろしい内容だった。


『聴こえすぎて、一分間、完全に気を失ってた。保健室のベッドなう』


 なう、じゃないよ。無表情な顔して、古いネットスラングを使うのはやめてほしい。




 その翌朝、目が覚めると、両手のひらにべっとりと「土」の感触があった。


「……うわっ」


 思わず手を払い除けようとしたが、視界に映る私の手は綺麗なままだった。白いシーツの上にあるのは、いつも通りの手だ。


 でも――感触だけが、強烈に、生々しく残っている。

 ものすごく細かくて、少し湿っていて、太陽の熱をたっぷり吸い込んだ、何億年も前の巨大な大陸の土。そのザラザラとした手触りが、神経の奥底にこびりついて離れない。


 私は、昨夜見た夢を思い出した。


 これまでの夢の中で、一番「古い」時代の地球だった。


 恐竜どころか、三葉虫すらいない。言語も、生命体という概念すらまだ存在しない、ただ岩と水と灼熱のマグマだけが支配していた頃の地球。

 でも、昨夜の夢は「景色」としてただ眺めていたわけじゃなかった。


 ――私は、岩だったのだ。どこからどこまでが自分なのか、わからなかった。


 気が狂ったと思われるかもしれないが、本当にそうなのだ。


 私は巨大な大陸を構成する岩盤の一部だった。上からは海と大気の押しつぶされるようなすさまじい重力がかかり、下からはマントルの暴力的な熱が直接突き上げてくる。

 普通なら地獄のような環境だが、夢の中の私は、それがひどく「心地よかった」のだ。


 自分が今、地球という途方もなく巨大なシステムの一部としてガッチリ組み込まれていること。境界線がなく、すべてが一つに繋がっているという圧倒的な安心感。


 目が覚めたあとも、その「岩としての私」の感覚が、十分以上も抜けなかった。


 今までの夢は、あくまで映画のスクリーンを安全な客席から見ているような「映像」だった。でも今朝は違った。体ごと、意識ごと、完全に地球の過去に持っていかれた。私と地球の境界線が、ドロドロに溶け出している感覚だった。


 スマホの画面が光った。

 蒼からのメッセージだった。送信時刻は午前六時三分。


『今朝の夢、どうだった』


 私がベッドから起き上がるより早い時間に、彼は的確に探りを入れてきている。


『……なんで知ってるの。うちに監視カメラでも仕掛けた?』


 冗談めかして返すと、すぐに既読がついた。


『前兆音が、昨夜から明らかに形を変えた。今まではただのノイズだったのが、明確なベクトルを持った。たぶん、レムナント(君)への直接的な干渉波だ』


 干渉波。

 つまり、私の夢に、地球の側からアクティブに作用を及ぼそうとしている、という意味だ。



 朝のシャワーを浴びながら、私は手のひらに残る古代の土の感触をゴシゴシと洗い流そうとした。でも、石鹸の泡と一緒に流れていったのは今の時間だけで、土の感触が完全に消えるまでには、さらに一時間を要した。




 放課後、ガイア知性研究所(という名の汚い雑居ビルの一室)に通うことが、すっかり私たちの日課になっていた。


 宇津木博士が毎日のように「これも読んでおけ」「このデータも頭に入れろ」と新しい資料の束を嬉々として投下してくるので、読んでも読んでも活字の山が終わらない。

 でも――その終わらない作業が、不思議と苦痛ではなかった。


 狭いパイプ椅子を並べて、蒼と肩が触れそうな距離で資料を読む時間。埃っぽい部屋に、蛍光灯のジーッという音と、紙をめくる音だけが響く空間。

 それが、今の私の一日のなかで一番「正しい場所にいる」という安心感を与えてくれた。


 その夜は珍しく、二人とも資料を読む手が止まっていた。

 博士はカップ麺の新作を買いにコンビニへ出かけていて、部屋には私たちしかいない。


「……ねえ」


 沈黙を破ったのは私だった。


「なに」


 蒼は資料から目を上げず、短い返事をした。


「もしさ、クラスチェンジが本当に起きて、全部終わったら……蒼くんの聴こえてる『音』って、どうなるの?」


 蒼のページをめくる手が、ピタリと止まった。

 彼はしばらく黙った。人間が「考えている」ときの沈黙と、「答えを選ぶのに迷っている」ときの沈黙は、空気の重さが違う。今の彼は、明らかに後者だった。


「……わからない」


「なくなるのかな」


「かもしれない。電池切れのラジオみたいに、急に静かになるのかも。あるいは――」


 蒼は顔を上げ、本棚の向こうの暗がりを見つめた。


「周波数が完全に変わって、今まで聴こえなかった『新しい世界の音』が聴こえるようになるのかもしれない」


「それって……怖くない?」


 私の問いに、少しの間があった。


「怖いよ」


 彼が、そんな素直な弱音を吐いたのを初めて聞いた。


「怖い」


 いつも無機質な彼が言うと、その二文字はやけにリアルな質量を持っていた。


「でも」と、蒼は続けた。


「怖いかどうかより――すべてが終わった後の『新しい世界』を、見てみたいという気持ちの方が、今は少し大きいかもしれない」


「……なんで?」


 彼なら「研究対象として興味深いから」とか、理屈っぽいことを言うかと思った。


 でも、違った。

 蒼は、私の方を見なかった。横顔のまま、ボソリと言った。


「そこに、君がいるかどうか、確かめたいから」


 心臓が、ドクンと嫌な音を立てて跳ねた。


 えっ。

 何それ。どういう意味。


 言い終えた瞬間、蒼は少しだけ顔を背けた。顔が赤くなっているとか、そういうわかりやすいラブコメ的反応じゃない。ただ、「あ、今のちょっと言いすぎたわ。俺のキャラじゃなかった」という、致命的なエラーを起こしたAIみたいな顔だった。


 ここで「何それ、口説いてんの?」とか茶化して笑うのは簡単だった。

 でも、私は絶対に笑わないように、奥歯を強く噛み締めた。

 ここで笑ってしまったら、今、彼が不器用に差し出してくれた「何か」が、音を立てて壊れて終わってしまう気がしたからだ。


「……私も、いるよ」


 私は、自分の手元の資料の端っこをギュッと握りしめながら言った。


「絶対に、いる。どこにも行かないし」


 蒼は何も答えなかった。


「……ん」と、喉の奥で小さく鳴らしただけだった。


 再び資料のページをめくり始めた彼の手の動きが、先ほどよりも明らかにゆっくりと、不自然なほど丁寧になっていた。



 沈黙が、急に少しだけ温度を上げて、部屋の中に満ちていた。




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