第七話 同じ夢を見る二人と、太古の絵
「最初は、それが『音』だなんて思ってなかった。頭の中に、ずっと何かがいる感じだった。親に泣きついて病院に連れて行かれたよ。原因不明。聴覚過敏か、精神的なノイズだろうって言われた。でも、生活音や普通の音は別に平気だったんだ。俺に聞こえていたのは、人間が絶対に出せない種類の、低くて重たい音だったから」
「地球の、音」
「そう。七歳のとき、親父に気づかれた」
そこで、彼の語りがわずかに止まった。声の温度が、一瞬だけスッと下がった気がした。
「……お父さんは?」
「地球物理学者だった。宇津木の知り合いで、クラスチェンジの研究もしてた。親父は俺のことを、『使える』と思ったんだと思う。自分の理論を証明するための観測機器として」
『使えると思った』――彼はその言葉を、一切の感情を交えずに言った。でも、その「感情のなさ」が、むしろ何年もかけて彼が自分を守るために作り上げた、分厚い防壁のように思えた。
「……それは、辛くなかった?」
「嫌いじゃなかったよ。研究者として親父のことは尊敬してたから。ただ――」
白瀬くんは、部屋の隅の暗がりを見つめた。
「俺が聞こえているのが、地球のノイズなんかじゃなくて、普通の音楽だったとしたら……親父は俺を『観測機器』じゃなくて、『息子』として見てくれたのかな、とは、少し思ってた」
思ってた、という過去形。
「お父さんは、今は……」
「死んだ。俺が十歳のとき」
それ以上は、聞かなかった。聞いてはいけない気がした。
私は気の利いた慰めの言葉を探すのをやめ、ただ「そっか」とだけ言った。
白瀬くんが、少しだけこちらを見た。哀れみや慰めなど最初から期待していない、凪いだ瞳だった。だから私も慰めなかった。ただ事実を受け止めて、「そっか」と言う。それだけが、今の私たちに許された正しい距離感のような気がした。
「子どもの頃さ」
私は手元のファイルを見つめたまま言った。
「白亜紀の夢を見るって話、誰にも言えなかったんだ。六歳のときに親に話したら、お医者さんに連れて行かれて、『睡眠障害ですね』って言われたから」
「そう」
「だから、白瀬くんが中庭で『惑星スケール版の匂いがする』って言ったとき――全然笑う気になれなかった。ああ、この人も私と同じで、ずっと一人でいたんだなって思ったから」
白瀬くんは、しばらく黙っていた。
それから、本当に小さく、ほとんど空気の振動だけの声で言った。
「……ありがとう」
私はファイルのページをパラパラと意味もなくめくる振りをしながら、少しだけ上がってしまった自分の心拍数を必死に誤魔化した。
翌日の放課後。
私は白瀬くんを強引に美術室に連行した。
「見せたいものがある」
美術部の備品棚の奥深くに隠してあった、見覚えのある段ボール箱を引っ張り出す。中には、私がこの三年間で描き溜めた無数のスケッチブックがギッシリと詰まっていた。
「これ全部――私が夢で見た景色の記録」
白瀬くんは少し驚いたように段ボールの前に屈み込み、一番上にあった一冊を手に取った。
ページをめくる。
白亜紀の草原。夕方に染まる濁った金色の空。遠くに横たわる、巨大な恐竜の影。
次のページ。大陸の縁から見下ろす太古の海。魚とも爬虫類ともつかない奇妙な生き物が、波間に漂っている。
次のページ。見渡す限りの氷の平原。地平線の端っこに、小さく灯る人類の火。
白瀬くんは、最初はパラパラと流し見をしていたが、途中からページをめくる速度が目に見えて落ちた。
一枚一枚の絵に、深く目を落とすようになった。
何かを確かめるように。自分の記憶の底にある何かと、照らし合わせるように。
私は棚に背中を預け、腕を組んで彼が私の「脳内の景色」を読むのを見守った。
しばらく、沈黙が続いた。
やがて、白瀬くんがゆっくりと顔を上げた。
「これ」
彼は、ある一枚の絵を指差した。白亜紀末の、地平線と草と、倒れた巨大な影を描いたあの絵だった。
「これ――俺が『聴いた』ことと、ほとんど一致してる」
美術室の空調の温度が、一気に下がったような気がした。
「……何が?」
「この地平線の緩やかな傾き。植生の密度。それから……空気の重さみたいなもの。俺が地球の低周波を拾うと、その場所の空気密度みたいな情報も音として入ってくるんだ。六千六百万年前のこの地点の環境情報と、君の絵が、恐ろしいくらいに一致してる」
私は息を呑んだ。
「俺には映像は見えない。音と振動だけの世界だ。だから、自分の拾ったデータがどんな景色なのか、確かめるすべがなかった。でも……君の絵は、俺が聴いてきたものと『同じ場所』を描いている」
同じ場所。
私は夢の中で、六千六百万年前の北アメリカ大陸西部にいた。
彼は現実で、同じ時間・同じ場所の音を聴いていた。
私たちは、同じ瞬間を――違う感覚器を使って、共有していたのだ。
「じゃあ、私たち」
私の声は、自分でも驚くほど少しかすれていた。
「……同じ夢、見てたみたいだね」
白瀬くんが、絵から目を上げ、真っ直ぐに私を見た。
そして――笑った。
唇の端がほんの少しだけ上がり、いつもは無機質な群青色の目が、わずかに細くなっただけの、本当にささやかで小さな笑い方だった。
転校してきてから、彼が笑ったのを初めて見た。口が笑うより先に、目が笑っていた。
(ああ……この人、本当はこういう笑い方をする人だったんだ)
私はなぜか、その一瞬の表情を、今すぐ新しいスケッチブックに描き留めたいという強い衝動に駆られた。でも、できなかった。
彼から、目が離せなかったからだ。
その日の夜。
ベッドの中でまどろみかけていた私のスマホが、ブルッと短く震えた。
画面を見ると、白瀬くんからのメッセージだった。時刻は深夜の二時十四分。
『音が上がってる。今夜だけで三段階』
私は跳ね起き、暗い部屋の中で画面を見つめた。
『上がるってどういうこと?』
メッセージを返すと、少し間を置いて返信が来た。
『クラスチェンジの前兆音は、徐々に段階的に上昇していく。今までなら、月に一段階上がるかどうかだった。それが今夜、急激に跳ね上がった』
液晶の光が、私の顔を青白く照らす。
『それって、地球が急いでるってこと?』
また少し、長い間があった。画面の向こうで、彼が音に耳を澄ませているのがわかる気がした。
『地球が急いでいるかどうかはわからない。でも――確実に言えるのは、何かがものすごいスピードで「変わり始めてる」ってことだ』
私はベッドから降り、カーテンを開けて窓の外を見た。
空は分厚い雲に覆われていて、星一つ見えなかった。
でも――なんとなく、外の「空気の色」が、昨日までと少し違う気がした。
ただの気のせいかもしれない。オカルトに当てられた女子高生の思い込みかもしれない。
でも、一週間前まで「今日も普通の月曜日だ」と自分に言い聞かせ続けてきた私には――もう、気のせいだと笑い飛ばすことはできなかった。
私は机の上のライトをつけ、新しいスケッチブックを開いた。
鉛筆を取り、真っ白なページに、ただ一本の地平線を描いた。
その線は、白亜紀のものでも、氷河期のものでもなかった。
今、この瞬間の。
何かを終わらせようとしている、この街の夜の地平線だった。




