第五話 狂気の学者と、正常なる残響者
「私の名前は宇津木。しがない地球物理学の端くれだ」
彼が名乗ったそのとき、背後のスライドドアがガラリと開いた。
振り返ると、白瀬くんが立っていた。彼は宇津木博士を見て、特に驚く様子もなく、ただ面倒くさそうに目を細めた。
まるで「やっぱり来やがったか、この厄介オヤジ」という顔だった。
「……知り合い?」
私が白瀬くんに聞くと、彼は深いため息をついた。
「……一方的に。俺のストーカーみたいなもん」
「人聞きの悪いことを言うな、蒼くん。私はただの熱心な観察者だよ」
美術室の丸椅子を三つ、三角形に並べて、奇妙な座談会が始まった。
宇津木博士は立ち上がり、おもむろにホワイトボード代わりに美術室の黒板の前に立った。
そして、黒板消しを豪快に振り回し、誰かが書いていた「秋のコンクール用・水彩のパース注意点」という大事そうなメモを一切の躊躇なく消し去った。(あとで部長に殺されるかもしれない、と私は遠い目をした)。
「さて、まず大前提として――君たち、学校で習ったダーウィンの進化論は、いったんゴミ箱に捨てなさい」
「いきなり教育の全否定から入るんですね」と私が言うと、博士はチョークをカチカチと鳴らした。
「まあ、完全に捨てなくてもいいが。あれは『生き残った側の人類が、自分たちを納得させるために後付けで作った美しい解釈』に過ぎないということを、頭の片隅に置いておきたまえ」
博士は黒板の中央に、でかでかと丸を描いた。
「地球は、ひとつの巨大なシステムだ。生物学的な意味での生命体という意味ではなく、この惑星は段階的に自らの『OS――オペレーティング・システム』を更新していく、きわめて知性的なプログラミングを持っている」
「OSの更新……」
「そう。定期的に、地球というハードウェアのルールを根底から書き換えるんだ。古いアプリを強制終了させて、新しい環境を構築する。これを第六次大絶滅閾値転移と言うが、私は『クラスチェンジ』と呼んでいる」
黒板に、縦に数字が箇条書きされていく。
第1次(オルドビス紀末)
第2次(デボン紀後期)
第3次(ペルム紀末)
第4次(三畳紀末)
第5次(白亜紀末)
「これが、地球がこれまでに行ってきたクラスチェンジの履歴だ。一般的には『大量絶滅』と呼ばれている。隕石の衝突や巨大火山の大噴火が原因だと言われているが、それはあくまで『引き金』に過ぎない。パソコンを再起動するときのエンターキーみたいなものだ。本当の原因は、地球自身がステージを上げようと決断したことにある」
――草の匂いがした。
博士の熱を帯びた声を聞きながら、私の脳裏に、あの夢の断片が鮮烈にフラッシュバックした。
地面に静かに伏す、巨大な恐竜の影。
大地が深く息を吸い込む感覚。
悲鳴も、炎もない、あの「卒業式」みたいな静けさ。
あれは、5回目のクラスチェンジだったんだ。
「……私の夢の中で、白亜紀の恐竜たちは、別に隕石から逃げ惑ったり、戦ったりしていませんでした」
気がつくと、私は口を開いていた。
博士がチョークを持つ手をピタリと止めた。
「ほう? 詳しく」
「……うまく言えないんですけど。恐竜たちはみんな、何かを悟ったみたいに大地に額をつけて、ただ静かに終わりを待っていたんです。なんか、悲しいとか怖いとかじゃなくて……『あ、自分たちの番はこれで終わりなんだな』って、納得して席を譲るみたいな感じでした」
「まさにその通りだ!」
博士がバン!と黒板を叩いた。チョークの粉が盛大に舞い散る。
「彼らはクラスチェンジの足音を知っていたんだ。地球が次のOSに移行するとき、前の時代で頂点に立っていた支配者たちは、無駄な抵抗をせずにあっさりと場を明け渡す。それが、この星のルールなんだよ」
「地球が……自分で」
「恐れることはない。むしろ、君が夢で直感した通り、非常に美しくて厳かな現象だよ。君の言う通り、ひとつの長い時代が終わる『卒業式』だ」
博士が私の言葉を使って肯定してくれた瞬間、なぜだろう、私の喉の奥がツンと熱くなった。
誰にも信じてもらえなかった私の頭の中の景色が、今、確かな輪郭を持って世界と接続されたのだ。
「さて、次はそこの仏頂面の少年の話をしようか」
博士が白瀬くんの方を見た。白瀬くんは「どうぞご勝手に」とでも言いたげに、そっぽを向いた。
「彼は――地球が発する更新プログラムの起動音、つまり極低周波を、体全体でダイレクトに感知できる特異体質を持っている。私はこれを『聴器』と呼んでいる。クラスチェンジの時期が近づくと、この地球の周波数は急激に上昇する。彼がわざわざこんな地方都市に転校してきた理由はなんだと思う?」
私は、窓の外を眺めている白瀬くんの横顔を見た。
「……なんで、この街に来たの?」
「聞かれなかったから、言ってなかっただけだ」
彼は相変わらずのローテンションで答えた。
「聞いてるよ、今」
「……うん」
一拍の、重たい間があった。
「――前兆の音が、この街の地下で一番『うるさかった』からだ」
うるさい。
その言葉が、耳の奥に引っかかった。
私が夢の中で三葉虫になっていたとき、骨に直接ガンガン響いてきたあの圧倒的な振動。あれが今、私たちの足元でリアルタイムに起きているということか。
「陽菜さん、君のその体質にも、私は勝手に名前をつけてある」
博士が、ずり落ちた眼鏡を直しもせずに私を真っ直ぐに見た。
「『レムナント』――残響者、とでも訳せばいいかな。地球がクラスチェンジの準備に入るとき、過去の更新履歴、つまり『記憶の波紋』が、きわめて感受性の高い一部の人間と共鳴現象を起こすことがある。君は、地球の過去のバックアップデータを、夢という形でダウンロードできる受信機なんだよ」
「……それって、脳の病気とか、睡眠障害の一種じゃないんですか」
「病気?」
博士は心底おかしそうに鼻で笑った。
「病気どころか、奇跡のような確率でしか発生しない、人類の宝だよ。医者の言うことなんて気にするな。あいつらは自分の持っているカルテの枠に収まらない現象は、全部ストレスのせいにするからな」
六歳のとき、小児科の待合室で母が青ざめていた顔を思い出した。
あの夜から、私は夢の話に頑丈な蓋をした。
「私が……普通じゃなかったんじゃなくて」
ポツリと、声が出た。
「私が見てたものは、全部、本当だったんだ」
博士が何か慰めの言葉をかけようと息を吸い込んだ。
しかし、それより一瞬早く、白瀬くんが口を開いた。
「……うん」
短く、静かに。
一切の嘘も、安っぽい同情も混じっていない声で。
「君が見てたものは、本当だった」
彼は私を見ていなかった。夕日に染まりゆく窓の外の空を、ただじっと見つめていた。でも――そのたった一言が、私の十七年間の孤独な人生を、まるごと肯定してくれたような気がした。
私は少しだけ、泣きそうになった。
いや、泣かなかった。泣いてしまったら、この感覚が壊れる気がした。
でも――泣かなかっただけで、心の中では、大雨が降っていた。




