第三話 地球の匂いと、夜の雨の音
白瀬くんは、不意に声を掛けた私に驚くこともなく、レンガ塀に背中を預けたまま短く答えた。
「……なに」
「何聴いてるの?」
口に出してから、激しく後悔した。
いくらなんでも不審者すぎる。斜め前の席に座っているというだけで、まだ「おはよう」の一言すら交わしていない相手だ。普通なら「は? キモ」と言われて終了の案件である。
だが、白瀬くんはしばらく私をじっと見つめ返していた。警戒しているというよりは、私の唐突な質問に対して言葉を探しているような、奇妙な間だった。
「……何聴いてるの、って」
「うん」
「音楽とか、そういうわけじゃなくて」
「それは見てればわかる」
また、間があった。今度は先ほどより少し短い。
「……雨が降る前の匂いって、わかるだろ。アスファルトが濡れる前の、あの土くさい感じ」
「わかる。ペトリコールってやつでしょ」
「そう。あれの――『惑星スケール版』みたいな感じ」
私は三秒ほど、その言葉の意味を咀嚼した。
「えっと……つまり、地球の匂いがするってこと?」
「匂いじゃなくて、音だけどね。でもまあ、感覚としてはそんな感じ」
白瀬くんはそこで初めて、私から視線をスッと外した。
照れているわけじゃなさそうだった。ただ、自分でも「言ってしまった」ことへの驚きがあるような顔だった。こんなオカルトちっくな電波系の話を、初対面の相手に素直に話してしまった自分に対する戸惑い。
「……笑わないの」
ぽつり、と彼が言った。
「笑う理由がない」
私は即答した。コンマ一秒の迷いもなかった。
そして気づいた。私も、ずっと同じことをしてきたのだと。
だから私は、逆に彼に踏み込みたくなった。
「それって、今はどんな音がしてるの」
白瀬くんが、再びこちらを見た。目の奥の深い群青色が、さざ波のようにわずかに揺れた。
「……低くて、少し、ざらざらしてる」
「それって、いい音? それとも悪い音?」
わずかな沈黙のあと、彼は言った。
「まだ、どっちかはわからない。……『変わりかけてる途中の音』だから」
変わりかけてる。
その言葉が私の頭の奥底に、静かに、そしてしっかりと張り付いた。
そして彼は再び目を閉じ、私はしばらくその横顔を見つめていた。
気づけば、日はすっかり暮れかけていた。
美術室に戻ってパレットと筆を洗い、キャンバスに布をかけて校舎を出ると、下駄箱のところで白瀬くんと出てくるタイミングが完璧に重なった。
「帰るの?」と私が聞く。
「そう」と彼が答える。
そのまま、なんとなく並んで歩いた。校門までの、ほんの三十秒ほどの距離。
特に話すことはなかった。でも、なぜか気まずさは微塵もなかった。「黙っていても空気が重くならない人間」というのが、この世の中にはごく稀に存在するんだということを、私はその三十秒で学んだ。
校門のところで、自然に家路の方向が分かれた。
「じゃあ」
「うん」
あっさりとした別れ。十メートルほど歩いてから、私はふと気になって振り返った。
白瀬くんはもう振り返ることなく、淡々と歩き去っていくところだった。その後ろ姿の、右手にしっかりと握られている「黒い折り畳み傘」だけが、やけに目に焼き付いた。
(……明日も、あいつは傘を持ってくるんだろうな)
そう思った。
そして――明日、雨が降るんだろうな、と確信した。
理由なんてない。天気予報なんて確認していない。ただ、地球のざらざらした音を聴く彼が傘を持っているなら、それはもう「降る」と決まっているのだ。
家に帰って、ベッドに寝転がりながらスマホで明日の天気を調べたら、降水確率は見事なまでに「十パーセント」だった。気象庁のスーパーコンピューターは、今のところ地球のノイズを受信できていないらしい。
***
その夜見た夢は、いつもの数倍、色彩が鮮明だった。
白亜紀ではなかった。もっと前、もっと気が遠くなるほど古い――海の底だった。
光が、遥か上方の水面からゆらゆらと差し込んでいた。青というより、限りなく透明に近い水の中に、私は漂っていた。水の中なのに、不思議と息苦しさはなかった。というより、私自身に「肉体」がなかったからかもしれない。私はただの、海中を漂流する「視点」だった。
生き物がいた。
海底の砂地を這うように進む、節足動物。三葉虫だ、と思った。生物の資料集の隅っこに載っていたから知っている。
でも、教科書の化石の写真と違って――こいつらは、ちゃんと動いていた。
触角を揺らし、方向を変えながら、微かな光に向かって一生懸命に泳いでいた。
生きてる、と思った。
当たり前のことなのに、ものすごく強烈に生きてる、と感動してしまった。
そのとき、聴こえたのだ。
声ではなかった。言語ではなかった。
でも確かに何かが言おうとしている感じがした。周波数、とか、振動、とかそういうものに近い。
皮膚をすり抜けて、骨に直接響いてくるような感覚。
無理に意味を持たせようとすると、細かい砂のように手のひらからこぼれ落ちてしまう。
でも――そういうことか、という気持ちだけが、胸の奥に残った。
***
夢が終わった。
弾かれたように目が覚めて、枕元のデジタル時計を見たら、赤い文字盤が『3:17』を示していた。
頭が冴えきってしまって二度寝できそうになかったので、私はベッドを抜け出し、机の引き出しからクロッキー帳を引っ張り出した。
夢で見た、懸命に生きる三葉虫の姿を描こうとして――やめた。あんな太古の生命の躍動感なんて、私の貧弱な画力じゃまだ描ける気がしなかった。
しばらくクロッキー帳の白を見つめていたが、徐に鉛筆を走らせて、なんとなく人の後ろ姿を描いた。
少し猫背な背中と、傘を持った右手。
上手く描けたかどうかはわからない。風景画ばかり描いていて、人物を描くのは得意じゃないから。でも、あの夕暮れの中庭で、たしかに彼がそこに立っていたという「気配」みたいなものだけは、なんとか紙の上に定着させたかった。
窓の外から、パラパラと硬いアスファルトを叩く水滴の音が聴こえ始めた。
カーテンを少しだけめくって外を見ると、街灯に照らされた細い雨糸が、静かに夜の街を濡らしていた。
ほら、やっぱり降ったじゃないか。
降水確率十パーセントの雨。
白瀬くんは今頃、自分の部屋のベッドの中で、この雨音の向こう側にどんな地球の音を聴いているんだろう。
――その夜から、私は毎日、カバンの中に折り畳み傘を入れて学校に行くようになった。




