第二話 青い絵の具と、夕暮れの空
昼休み。
クラスメイトの結が、お母さんの気合が空回りしたようなやたらとカラフルなお弁当箱を開けながら、スマホの画面をタップして「なにこれ、キモっ」と声を上げた。
「何が?」
私が自分用の地味なタッパー弁当(昨日の晩ご飯の唐揚げスライド登板)をつつきながら問うと、結はスマホの画面をこちらに突き出してきた。
「渡り鳥。本来なら秋になってから日本に来るはずの種類が、七月のこのクソ暑い時期に大群で押し寄せてるんだって。しかもさ、これ見てよ。写真」
差し出されたニュースサイトの画像には、住宅街の電線という電線を、黒っぽい鳥の群れがびっしりと埋め尽くしている様子が写っていた。五線譜にデタラメに書きなぐられた音符のようで、たしかに少し不気味だ。
だが、私が引っかかったのはそこではない。
「……みんな、同じ方向向いてない?」
「そう! それ! 一羽残らずきっちり同じ方向向いて止まってるの。宝塚の出待ちかよって感じでしょ?」
結の言葉に、前の席でサンドイッチをかじっていた女子がくるりと振り返った。
「なんかさ、東京湾でも変なのが上がったらしいよ。深海魚。リュウグウの……なんとかってやつとか。ほら、ネットでよく言うじゃん。巨大地震の前触れだー、みたいなやつ」
「えっ、マジ? 大地震くる? やばい、とりあえず推しのライブまでは生き延びたいんだけど!」
結が背筋を伸ばし、なぜか教室の天井の耐震強度を確認するように見回した。
「どうだろうね。でも、なんか変なことがあちこちで重なってる感じはするよね。ノースフェイスの大予言のアップデート版みたいな?」
「ノストラダムスね」
「そだっけ? そうそうノースフェイスって言えば、昨日フリース買ってもらっちゃった」
いつのまにか終末論からファッションの話にシフトしていたが、私はお弁当の卵焼きをかじりながら、スマホの画面に映る黒い鳥たちから目を離せずにいた。
向いている方向が、気になったのだ。
渡り鳥なら北か南を向くのがセオリーだろう。だが、写真の背景に写り込んでいる太陽の位置や建物の影から推測するに、あの方角は北でも南でもなかった。
頭の中で、見えない日本地図を広げてみる。
あの鳥たちが、狂信的なまでの統一感を持ってくちばしを向けている先。それはなんとなく……この街の方を向いている気がした。
「……陽菜、聞いてる?」
「ん、聞いてる聞いてる。推しのライブにはヘルメット被って行きなよ。チャリ通用のやつ」
「絶対ヤダ。ダサい。前髪潰れる」
私は適当に相槌を打ちながら、思考を強制終了させた。
考えすぎだ。ただの偶然。あるいは、地球の磁場が猛暑でちょっとバグっただけだろう。
今日はひたすら普通の、ありふれた月曜日なのだから。
放課後の美術室は、実質的に私専用の聖域だ。
幽霊部員ばかりで、まともに活動しているのは私を含めてたったの三人。しかもみんな協調性という言葉を母親の胎内に置いてきたような連中なので、好き勝手に来ては、誰に挨拶するでもなく好き勝手に帰っていく。
テレピン油の匂いが染みついた部屋には、今日は私ひとりだった。窓から差し込む夕方前の西日が、イーゼルに立てかけた白いキャンバスをほんの少しだけ橙色に染めている。
私が描いていたのは、今朝見た「白亜紀の夢」の続きだった。
地平線。遠くに横たわる巨大な影。なぎ倒された草の跡。そこにはたしかに「とてつもない質量を持った生き物がいた」という痕跡を、その場の空気ごと絵の具でキャンバスに叩きつけようとしていた。
だが、筆がどうにも上手く動かない。あの、土と水と光が混ざり合った言語化不能な匂いを、絵にできる気がしない。
「……ダメだ、なんか安っぽい怪獣映画のポスターみたいになる」
私はため息をつき、一度筆を置いた。
ふと、指先にこびりついたセルリアンブルーの絵の具が目に入る。これって石鹸でゴシゴシ洗っても、爪の隙間に入り込んでなかなか落ちない。これが、私が現代日本を生きているただの女子高生であるという、ささやかな日常の証拠だった。
気分を変えようと、絵の具のついた手で窓枠に寄りかかり、下を見下ろした。
グラウンドからは野球部の威勢のいい声が響き、空は少しずつ夕暮れのグラデーションを作り始めている。土埃が西日に乱反射してキラキラ光っていた。
そして――校舎の陰になっている中庭の端っこに、彼がいた。
転校生の、白瀬 蒼だった。
一人きりで、古いレンガの壁に背中を預け、少し顎を上げて目を閉じていた。
最初は、授業中のように居眠りでもしているのかと思った。でも違う。眠っている人間の、重力に負けて「落ちている」感じじゃない。もっとこう、ピンと張り詰めた、見えないアンテナを限界まで伸ばして、何かに意識を澄ませているような、極限まで集中している佇まいだった。
音楽でも聴いているのだろうか。いや、耳にイヤホンはないし、そもそもスマホすら持っていない。
じゃあ、何を――。
ふいに、風が吹いた。
中庭の桜の木の葉がざわざわと揺れ、足元の雑草が波打った。
その瞬間、白瀬くんの無機質な表情が、ほんの少しだけ緩んだのだ。
本当にほんの少し、微細で繊細な変化だった。
でも、なぜか、わかった。
(ああ……この人、今、何かが聴こえたんだ)
なぜだかわからないけど、気づいたときには私は美術室を飛び出していた。
階段を一段飛ばしで駆け降り、中庭に回って、ズカズカと彼に近づいた。
「ねえ」
声をかけると、白瀬くんがゆっくりと目を開けた。
彼の、やけに色素の薄い群青色の瞳が、真っ直ぐに私を捉えた。




